第6回 自社のポジション その2 (2000年8月1日)
選択レベルと死活レベル
お隣韓国の金大中大統領は、構造改革に反対するストライキなどの一連の動きに対して、毅然とした態度で「我が国の構造改革は、もはや選択の問題ではなく死活の問題である」と諌めた報道があった。
どこぞの国の政治の世界でも、政局に衆目が集まった時にだけは「守旧か改革か」が一応問題にはなるが、ここまで踏み込んだトップ・リーダーによる宣言はいまだ聞かない。
ソニーの出井社長は、IT戦略会議や世界経済フォーラム等に出席した後、「今のままでは日本がIT時代に取り残される。国を挙げて危機意識を共有すべきだ」とコメントしている。
まさに金大統領や出井社長の指摘する通り、世界の共通課題としての構造改革が、「選択」ではなく有無を言わせぬ「死活」レベルで求められていることは議論を待つまでもない。
しかし、韓国における業界や労働者の反対運動に見られるように、既得権を奪われることに対する拒絶反応も一方に厳然と存在し、マクロの観点からすると大変困難な問題である。
それでは、企業というミクロの単位ではどうなるかというと、「我が社の企業経営」という共通の目標を持つ機能体(機能体について、詳しくは連載第2回で述べている)であるという原点に立ち返れば、自ずと「選択」できる余地があるのか、「死活」に直結する段階にあるのかどうかという見極めが重要である。
この点において、経営者の実力・センスや企業のオープン度そして従業員との信頼関係の差異が、企業の将来を大きく左右することになる。なぜなら、そのことが前回掲載のSWOT分析などを円滑に進められる条件にもなるからである。手順をおさらいすると、まず自社の現状位置を確認し、次に労使共通の将来目標を設定し、そしてその溝を埋めるために具体的に「何に向かって、どんな役割を果たすか」を割り振りすることになるが、右の条件さえ揃えば、そう困難なことではない。
ここで、経営者が最も留意すべきことは、「意見の集約と迎合とは」違うということである。全く従業員の意見に耳を貸さない独善経営者は論外だが、従業員の言動に振り回される経営者も困りモノである。意見集約については十分行ない、決断は一人で潔く行なうのが原則だ。経営者は孤独なものである。「皆の意見は良く分かった。しかし、今回はこう決断する。これが経営判断なので、皆も従ってくれ!」という経営者の姿勢が、従業員の意欲を引き上げ、ベクトル合わせの出発点になる。
そして各々が役割を十分認識して、懸命に努力する。こうしたひとつ一つの要素を積み重ね実行することで、さらに全社的エネルギーのベクトルが合って来る。念を押せば、それ以外のことは全て余分なことである。つまり、それ以外のことをすればするほど、将来像から外れ、限りある経営資源というエネルギーのムダ使いをすることになる。
中小企業の隆盛のポイントは、本当にわずかなところにある。それは既に述べたように、保有しているエネルギーの絶対値の大きさにあらず、発揮するエネルギーの方向の一致性にある。いかに有限な経営資源をムダなく(方向性を一致させて)使うかが、業績にあらわれるのだ。
たとえば、サービス業の電話応対において、わずか3秒の違いで「とても待たされた!」と客が感じる事実がある。この3秒を意識した応対を社内標準とし徹底すれば、それだけで相当な優位性を得ることになる。こうしてひとつ一つの要素を積み重ねていくことにより、成功体験と共有意識が好循環を作りだし、業績アップという果実が得られる企業風土が築かれていく。
その出発点は、自社の経営状況が「選択」レベルか「死活」レベルかを真剣に見極める覚悟に有ることは繰り返すまでもない。次回は、ISOのさわりについて取り上げたい。
第7回 ISOのさわり (2000年8月21日)
ハサップとISO
危害分析重要管理点いわゆるHACCP(以下、ハサップと記す)に対する不信感が噴出したことは、記憶に新しい。厚生省はこれを受けて、現状の確認と見直しを急いでいる。
ハサップは、品質管理の中心に衛生や安全という概念を据え、従来の衛生管理である「(菌を)つけない、増やさない、殺す」と言う概念をよりわかりやすくした物と考えて良い。この3つをより具体的に定義し、且つ、誰に責任があるかを明確にするために記録を残すというのが、その基本的な考え方だ。
宇宙船で食中毒が発生することは宇宙船が故障するのと同様に大変危険なことから、食品製造行程全体を管理し絶対に問題を発生させないZD(ゼロディフェクト)を保証すべく、1971年米国食品会社のピルズベリーによってNASA(航空宇宙局)の宇宙船パイロット用の食事を安全に製造する目的で、ハサップのシステムは開発された。
従来の食品製造コントロールシステムは、製造後のサンプルを分析し問題点を発見する方法であった。それに対して、ハサップは問題が発生する前に問題点を発見し、事前に欠陥を改善するシステムで、食品版ISO(アイエスオー)と呼ばれる所以でもある。
そのISOは、国際標準化機構と邦訳され、いま盛んに建設業や製造業で検討されていることは御存知の通りだ。一般的に「アイ・エス・オー」と読まれ、「イソ」や「アイソ」と発音する向きもある。たとえば、良くイソネジという呼び方をされるが、これはISO規格で作られたネジということになる。
英語の並びから行くと「IOS」となるが、ギリシャ語の「ISOS(相等しい)」にかぶせて、規格や標準化を推進したいという思いが込められ「ISO」となった経緯があるようだ。
品質システムを定めた9000シリーズと環境に関する規格の14000シリーズがもっぱら中心だが、16000の労働安全衛生マネジメントシステムや10006のプロジェクトマネジメントシステムなど、続々と登場しそうな勢いだ。
JISがモノ(製品)に対する国内規格なのに対して、ISOはシステム(仕組み)に対しての国際規格である。この点でも、ハサップの概念と共通する。
顧客に良いものを提供するために、どのように仕事を積み上げていけば良いのかを企業水準に合わせて明確にし、その具体的実施方法については各企業の自主的な判断に委ねますよというのが、ISOの基本コンセプトだ。
ハサップにしろ、ISOにしろ、その考え方は良い。しかしその一方、関わる人間によるシステムへの過信が、信じられないミスを招くのもまた事実だ。
かつて、哲学者イマヌエル・カントは「実践なき思索は空虚であり、思索なき実践は盲目である」と言ったが、品質向上の使命を自覚するのが「思索」にあたり、そのためにハサップやISOのシステムを活用するというのが「実践」であろう。思索が欠如した実践はどこか心許ないものである。そしてその結果、冒頭に上げた如く、世論から厳しく糾弾されることになるのだ。
原点を忘れた企業不祥事を見るたびに、「初心忘るべからず」という教えを思い起こすが、いま企業にとって大事なのは、浮き足立たずにじっくり足元を見る姿勢ではなかろうか。ISOを円滑に導入し効果を上げている企業の共通点は、「見栄を張らずに、身の丈にあわせて、一丸となって」実施していることである。
「思索」と「実践」の絶妙のハーモニーが奏でられ、それに誘われて好業績が企業に呼び込まれる好循環が作リ出される。こうした形で活用されるなら、ハサップにしろISOにしろ本望だろう。
次回は、「規則」と「慣習」という切り口から、企業人の行動習性について踏み込んでみたい。
第8回 企業人の行動習性 (2000年9月1日)
規則と慣習
生産者サイドから発足した乳製品製造会社が、ずさんな生産管理で多くの食中毒患者を出した。
また、IR(インベスター・リレーションシップ=投資家向け広報)の模範とまでいわれ、トップがIRを強力に推進してきた自動車メーカーが、クレーム情報の隠匿やリコール隠しまでしていたことが発覚した。
「こんな筈では・・・」とでもいうような経営陣の合点が行かないような何とも微妙な対応が印象深かった。
古くから「人間の行動は規則ではなく、慣習に従う」と言われ、このことは、企業人としての側面で最も良く現れる。
さらに社員教育に熱心な企業ですら、多くの社員は就業規則について十分理解していないのが実態だ。新入社員教育で就業規則を一通り勉強した後、現場に配属されると、就業規則などすっかり頭から抜けている先輩社員から「仕事は理屈ではない。黙って先輩のいうことを聞いていれば良い」などと言われ、時間の経過と共に現実に流されてしまうことが多い。
ことに創業から多くの時間を経た企業ほど、そもそもの創業理念が薄れてしまってルーチンワーク自体が目的化し、日常業務をこなす事に目を奪われがちになる。
そうすると当然ながら、前例を踏襲していれば大きな間違いがないため、高邁な理念や規則という約束事にまでさかのぼって、自身の行動を律することはしない。つまり、周囲環境に迎合してしまうのだ。その結果、慣習が唯一の行動規範となる訳だ。この時点において、就業規則はもとより社会人としての良識もどこかに置き忘れてしまい、組織としての管理という機能も働かない。
一方、トップは苦労して作り上げた仕組みについての思い入れがあり、社員は規則や約束事を「守ってくれる筈」と信じ込んでいる。
ここに現場と経営陣とのギャップが起き、信じられないような不祥事が発生する原因にもなる。幸い規模の小さい中小企業にはこの危険性が少ないのだが、それでも風通しが悪かったり、経営者が根拠のないワンマンだったりする場合は、要注意だ。
そもそも人間は、マズローのXY理論でいうところの、できれば楽をしたいというX型因子ととしっかり仕事をして充実感を感じたいというY型因子の両面を併せ持っている。こうした人間が、企業人としてY型を強く発揮できる環境とは、果たしてどのような要件から成り立つだろうか。
この永遠のテーマを語る場合「やって見せ、言って聞かせて、させて見て、ほめてやらねば、人は動かじ」といった山本五十六の名言が参考になる。また古人の「可愛くば、7つ教えて、5つほめ、3つ叱って、よき人にせよ」という歌がある。これらに、共通するのは「認める」ことであり、人間とは「人の間で生きる」と読めるように、その実感は相手との関係でしか確認できないのだ。
「認められた」という感覚には、自分に本気で関わってくれる「オープン」性とそこから醸し出される相手への「信頼」感が、つきものである。言いかえると、そうした環境の中で「お役立ち感覚」がはじめて自覚できるのである。そして、「企業」に対しても「顧客」に対してもさらに「社会」に対しても、「お役立ち」しているかどうかを、経営者は常に自問し続けなければならない。
つまり、企業人は「規則」でその行動を律せられるのではなく、「慣習」や「習い性」でその行動を決するのである。企業においては、最終的に今まで述べてきたような「認め、認められる」企業文化を構築することが、企業人としてあるべき行動の習慣づけとなり規範ともなる。あくまでも企業行動の優劣は、地道に積み重ねた企業の体質による結果であることを肝に銘じたい。
次回は、「実力」と「立場」の相関関係について考えてみたい。
第9回 人事の進め方 (2000年9月11日)
実力か立場か
企業人の行動の根拠については、前回取り上げた「規則と慣習」で論じたので、今回は企業の組織・仕組みという観点から中小企業最大の課題の一つである人事について考えてみたい。
中小企業トップの自社人材についての認識の実情として、特にオーナー経営者の場合は、どうしても欲目で見るので、つい「帯に短し、たすきに長し」と思ってしまう。
しかしながら、「権限とはつかみとるもの」という言葉があるように、当然ながら、真の権限とは与えられた地位や職制によるものではないし、その置かれた立場で少しずつ自ら築き上げていくものである。
そして、「立場が人を作る」し、また「形は心を作り、心は形を求める」とも言われるように、立場や地位に置かれての必要性や切迫感こそが、建設的エネルギーを発揮する源泉でもある。
たとえば、二世議員や老舗の後継者が、当初の頼りなさを払拭して、しっかりと政治や経営に力を発揮するケースは枚挙にいとまがない。与えられた立場を受け入れ、支えられることへの感謝の気持ちを持ち、職務に真剣に取り組むことが、そのように成長させるのである。
またリーダーとして不可欠な人間的成長の大事な要素として、状況を認識する力を挙げることが出来る。それは、状況を「受容」し、そこに「感謝」し、今後どのように「行動」するべきかを「建設的」に考えて実行するという姿勢で推し量れる。この前向き姿勢さえ持った人材であれば、登用する時点では少々物足りなくても、後には人材として成るはずである。
この適性の見極め方が経営者として難しいところであるが、意外にもミスを犯した時や叱られた時の行動で、その人材の器量をさぐることが出来る。おおむね事に素直に対応する傾向があれば期待大と推量できる。たとえば、そこで発せられる言葉を取ってみた場合、「はい、分かりました」「ありがとうございました」「十分反省して、同じミスをしないように心掛けます」「すぐに、やります」というように、素直・実行型であれば見込みがある。
また、いざという時にしっかりと盾になってくれると部下に信頼されることが、すなわち統率力であるのだから、「でも・・・」「そんなこと言われても・・・」「私ではありません」「いけないと思ったんですけど・・・」などの言い訳・逃避型では、当然まわりから信を得られずリーダーとして期待はできない。
こうした傾向について人間学的にアプローチするのに、艱難辛苦のすえ飲食産業で成功し人材研修でも実績のある田舞徳太郎氏の主張が参考になる。田舞氏は、その著書の中で「駄目な人間は駄目」とし、次の3つの要素を挙げている。
1.自分の不完全性に気づいていない
2.時間の有限性に気づかない
3.使命と志に気づかない
つまり気づきのない人間はどうしても駄目だと指摘している。そして、気づきの本質とは、すべてに対する感謝の気持ちであると述べている。
気づきに関しては、「小才は縁に気づかず、中才は縁を生かせず、大才は袖すれあう縁をも生かす」という有名な柳生家の家訓も参考になる。縁への出会いは同じでも、それに気づくか気づかないかで、その後の事の成否が決まるというのである。
従って、現実的な人事政策として、言い訳・逃避型の社員は決して重用してはならないが、田舞氏流に言えば感謝の気持ちが持てるようになり気づきが出てきた時には、思い切って登用することも必要だということになろう。
経営者自身がそこに気づき、日頃から「袖すれあう縁をも生かそう」とすれば、必ず人的資源に光明を見出すこと請け合いである。なにしろ、社員は経営者の鏡なのだから・・・。
次回は、新規事業の状況について述べたい。
第10回 新規事業の実際 (2000年9月21日)
ベンチャーとスモール>
今回は、国を挙げて躍起になっている「新規事業の立ち上げ」について考えてみたい。
最近は森首相までもIT(情報技術)を唱えているので、その蔭に隠れて一時の勢いは無くなったが、景況の閉塞感打破のためにも、新規事業に対する期待は大きい。
しかし一方ではベンチャーバブルなどと揶揄され、ここ半年の内でも旗頭がネット系ベンチャーからITメーカーに一変するなど、さすがにその消長については激しいものがある。
そこで、狩猟型民族の十八番である結果優先(狩の成果がすべて)の文化から生まれた新事業創出の形態であるベンチャービジネスと、農耕型民族の知恵から生まれた過程重視(蒔いて育てる)タイプのスモールビジネス(コミュニティビジネス)との対比から、日本における新事業創出の可能性を探ってみたい。
ベンチャービジネスの本場アメリカでも、投資家が投資ビジネスの対象として積極的に出資するエリートベンチャーと呼ばれ対象となり得る企業は1割程度しかなく、7割がライフスタイルベンチャーと言われる自らのライフワークとしての自営である。そして残りの2割が、その中間という分類になる。
マイクロソフトをはじめとするアメリカンドリーム型のエリートベンチャーを、ベンチャーの類型と見るならば、これから立ち上がる企業がそこまで至るには、奇跡的な幸運を積み重ねなければならない。これは、現実的には挑戦することすら、はばかられる。成功確率は千に三つどころの騒ぎではなく、ほとんど気が遠くなるような話で、気が萎えてしまうのは当然だ。
また我が国の場合、ベンチャーが根付かない原因としてベンチャーキャピタルなど投資システムの未整備がやり玉にあげられるが、本当の原因は投資に耐え得るエリートベンチャーが極めて少ないというところにある。世の原理原則として、需要のあるところには必ず供給が生まれる。本物が資金を必要とすれば、必ずスポンサーが出るのだ。筆者の卑近な例でも、魅力あるビジネスプランを担保に、女性の高額所得者から出資を受けた女性起業家もいる。勿論スポンサーは、出資したことを広言はしないので、こうしたケースは事例として話題になりにくい。
つまり、昔から「旦那様」が見込みのある若い衆に資金援助する例は珍しいことではなかった。また現代風に言えば分社化となるが、のれん分けと称してノウハウまで譲るのは商家では当たり前のことだった。それを、ここに来て改めて「投資システムが未熟」などという論を持ち出すのは、本末転倒である。
ここで誤解を避けるために断わっておくが、税制などを投資しやすくするために整備することは大いに進めるべきである。しかし、制度を変えること自体が、新事業を創出し景況の活性化につながる切り札にはなり得ないということを心すべきだという事である。
従って、我が国において新事業を切り口に経済活性化を目指すのであれば、農耕民族になじみ易い「スモールビジネス」を奨励すべきである。端的に言うと、足腰の強い「街の豆腐屋さん型」を多く作ることである。この「豆腐屋さん型」には次の二つの要素が求められる。一つはコミュニティの「お役に立つ」こと、二つは自立して「飯を食う」ことである。昭和20年代には自営7割サラリーマン3割という就業構造だったのが、現在は、まったく逆でサラリーマンが7割になった。この50年間で、民族あげて「寄らば大樹の陰」パターンに成り下がってしまった。しかし、ひとり一人が足元を見据え、地域の役に立ち自活していく道を探る行動を取ることは決して至難の技ではない。それは、そのまま自分の人生を生きることだからだ。地に足の着いた「スモール」のかたまりこそが「ベンチャー」な世の中を作り出すと考えるべきである。
次回は、2つの「コ」(個+CO)を取り上げたい。