Sekiyan's Notebook セキやんのe講義 経営

セキやんのe講義 −経営の巻−


第11回 連携の基本

第12回 経営者の要件

第13回 経営者の身のおき所

第14回 道を拓くこと

第15回 混同のワナ

第11回 連携の基本 (2000年10月1日)

2つのコ
このところ益々顧客のニーズが多様になり、企業に対する役割も専門性を深く求められるようになってきた。結果として、もともと経営資源に限りのある中小企業にとっては、核となる(コアの)部分以外の業務について、いかに外部の経営資源を活用できるかが、今後の企業業績を決める大きな要素となりつつある。
既に、外部の経営資源を用いるアウトソーシングという手法が流行し、製造ラインや経理事務部門などに多くの実績が築かれている。そして、営業までもアウトソーシングすべきというコンサルまで現れている。
確かに企業状況によっては、様々な形態で外部の力を借りることは必要であるが、あくまでも基幹業務については自社で行なうことが基本である。
例えば、マーケティング力のない企業が、市場のリサーチを外部に委託することは有効だが、営業自体までも外部依存するべきではない。このことは、このシリーズで繰り返し述べている通り、事業とは「お客様づくり」活動なので、そのコアの部分を外部依存することは、事業の主体性の放棄であるからだ。
洗練されたセールスマンから説明されるより、口下手な製造元の社長から説明された方が、製品に対する想いや愛着が伝わってくるものだ。なぜなら、皆さんがいつも経験している通り、取引は「信用力」で成り立つのだから、商談の最終段階では、売込技術よりも誠意や熱意の方が有効なのである。
さて、標題に掲げた2つの「コ」とは、個性の「個」と共同や協調を表す英語の「CO」のことだ。
連携「CO」の基本は、他社に依存するのではなく、自らの優位性に他社を巻き込んでいくことである。従って、まず自社の「個性」を十分に磨き込まなければならない。魅力のないもの同士が集まるだけでは、烏合の衆としかならない。コアを持つもの同士が進むべき方向を定めて組んだ場合に、はじめて「CO」としての効果が発揮される。
各地の異業種交流会や組合の中で成果をあげているところは稀であり、こうした高い意識を持って構成された場合に限られる。
多額の補助金を受けて新製品の開発に当たったが、結局頓挫してしまったというケースも少なくない。特に公的支援が打ち切られて、自力での活動を迫られた時に、腹をくくって続けられるかどうかが分かれ目になる。ここで、しっかりとコアになるノウハウを持つか持たないかで、覚悟の程が決められてしまう。
アメリカのIT産業の隆盛を支えたのは、シリコンバレーの中小企業群であるが、そこではコア技術を持った企業が中心となって、連携する中小企業群を引っ張ぱっている。そうしたかたまりがプロジェクト毎に至るところで作られる。当然、連携する企業群も得意種目を持たなければ次のプロジェクトでは、仲間からはずされてしまう。ほどよい緊張感の中で、継続性とグループの品質を確保している。
この方法には、80年代の日本の手法が相当取り込まれたようだが、「量」に対する意識ではなく「質」に対する意識が優先している点で、大きく異なる。「量」を取り上げると、どうしても資本力のある大企業の独壇場になるが、「質」の場合は中小企業の資源の中でも十分「コア」を見出すことが可能である。
アメリカIT産業の成功を右のような観点から分析すると、我が日本の中小企業も大いに勇気づけられ、その可能性にも希望が持てる。
もともと地力のある日本の企業は、2つの「コ」(個+CO)を十二分に発揮して、自らの主体性を持って前向きに事業経営をすることが、できない筈はない。あとは第6回目の連載で述べたように、個々の企業が「死活レベル」で取り組めるかどうかが、何と言っても最重要である。
次回は、経営者が裸の王様にならないポイント、「見ること」と「聴くこと」を取り上げたい。

第12回 経営者の要件 (2000年10月11日)

見る力と聴く力
経営者は孤独である。とりわけ功成り名を遂げた社長が、直言を受ける機会はほとんど無い。いつでも「裸の王様」のように孤立してしまう大きな危険性に囲まれている。
かつての松下政経塾塾頭の上甲晃氏は、裸の王様状態を「小成功病」と呼び、経営者がより大きく成長する課程で克服しなければならない病気と位置付けている。
例えば、お笑い吉本興業のタレントの場合、年収が1200円から1500万円くらいになると、ほとんどの芸人がこの病気にかかるそうである。この小成功病の特徴の第1は、態度が突然大きくなること。新幹線はグリーン車にしか乗らないとか、打合せにハイヤーをよこせとか、傲慢になるというのが症状の特徴だそうだ。第2は、副業に手を出すこと。芸人の場合には、小料理屋かスナックの経営などというのが多いが、当然素人のやることなので上手く行かない訳で、これが本業へ対してもアヤの付き始めとなる。
しかし一方では、この病気に罹らずに常に年収1億円を超える大成功者もいる。この常連であるダウンタウンや明石家さんま等の大成功者と、年収1500万円前後で消えてしまう小成功者との違いは、まわりの人間ことを考えられる謙虚さを失わないことと、得た収入を惜しげもなく回りの人間と分かち合える度量を持つことの2点に尽きるそうだ。つまりテレビの画面では人を人とも思わないような言動を見せているが、一旦撮影が終わるとスタッフや裏方への感謝の気持ちを十分にあらわす心配りが、生き馬の目を抜くといわれる芸能界で長続きする秘訣のようだ。
経営もお笑いの世界と同じことで、傲慢な経営者は必ず破綻する。大企業を成した経営者の中には、稀に先天的な成功者タイプである「願望実践型」の経営者もいるが、この場合にはほとんどが20歳代で既に会社を起こしている。つまり天賦の才を持っている一握りの人間が、明確なビジョンをカリスマ的なリーダーシップで実現するやり方なので、ほとんどの経営者はその真似をしても上手く行かない。多くの中小企業経営者の場合は、もう一つの成功へのアプローチすなわち謙虚さを失わない「素直実行型」に徹することが、賢明な選択肢といえる。
素直実行型とは、素直な気持ちで自社の現状を「見ること」、人の話を「聴くこと」が、まずは必要になる。
たとえば、業務サイクルにプラン(計画)・ドウ(実行)・シー(検証)のPDCサイクルが有る。これは基本としては正しく、真っ白いキャンバスに制約なしに絵を描くのであれば、プランから入るのも良いだろう。しかし、イトーヨーカ堂の鈴木敏文氏の指摘する通り、実業には継続性がなければならないから、現場で現状を良く観察するSEEから入るのが現実的だ。まず問題の抽出ありきで、次にとことん工夫するTHINKだ。そうすれば、自然と的確なPLANができて、あとはDOの実行のみとなる。つまり、S−T−P−Dのサイクルを回すのが、実際的だ。勿論、回し始めればP−D−Cのサイクルと同期することになるが、あくまでもアプローチを現場からすることにこだわりを持つかどうかが大きな違いで、多くの事例からしてもまず現場に課題抽出を求めた場合の方が、机上でのプランニングから入るやり方よりも得られる成果は大きいようだ。
その際、経営者に求められるのは、現状に直面して素直に「見る」力と、アンテナを高くして参考情報を「聴く」力である。吉本の芸人でも、自分の置かれている状況を的確に「見て」、裏方の助言を「聴き」、常に自分の芸にそれらを取り入れる者だけが、スターとして輝きつづけるのである。
経営者は、「見る力」も「聴く力」もない「裸の王様」にならないように心すべきである。
次回は、「景気」と「経営」の位置付けについて述べてみたい。

第13回 経営者の身のおき所 (2000年10月21日)

景気と経営
経営者は評論家ではない。つまり、景気のゆくえを予想することではなく、自社の経営を今後どうしていくのかというところに、経営者の使命がある。
その意味で、景気という不可侵な要因に一喜一憂することなく、経営という自己変革できる要因部分にこそ、エネルギーを投入することが肝要である。
日本中あるいは世界中のすべての会社が赤字決算であれば、その原因は景気にあるのかもしれない。しかし、どんな不況の時にでも、しっかりとした経営を行なっている企業は必ず存在する。また、どんな好景気の時にでも、赤字の会社が4割程度もあることは、税務署が一番良く知っている。つまり、企業業績の振るわない原因は、景気のせいではなく、経営の進め方にあるのだ。
かつて昭和20年代に企業は元手もなしにゼロから事業を立ち上げざるを得なかった。そこで、国家政策として、個人の持っている資産を間接的に企業に融資する間接金融のシステムを構築した。その効果もあり、産業活力を得て日本は戦後の混乱から奇跡的な復興を遂げた。
その仕組みの中心を担ったのが、銀行をはじめとする金融機関だった。しかし、既にいくつもの金融機関が破綻をきたしているように、護送船団方式は崩壊し役目は終わった。そして、金融機関間でも、様々な規制の撤廃や合併連携が行なわれ、政策依存型の経営から自助自立型の経営に変わろうとしている。さらに、かつての横並び思考が、土地や株の値上がり神話等を生み、バブルに走りそれが一気に崩壊し混乱し、その後の世の中全体の不透明感や将来への不安感につながっている。
たまたま金融界を例にとったが、事業背景の変遷は金融界ばかりではなく、すべての業界、業種、業態に当てはまる。手本を見つけて、それに追いつけ追い越せという「キャッチアップ」の時代には、政策的で意図的な調整が効果をあらわすので、すべてが行政主導のシステムで作られてしまったのだ。
ところが、日本は今や世界一人件費が高く、時代の先頭を走らざるを得ない「フロントランナー」に押出されてしまった。こうした状況下では、創造性や決断力が要求される。
この状況をいち早くとらえ、決然と経営に携わっている経営者群がいさぎよい。そして、結果も出している。経営の成果を出すには、それを一義的に求めてはならない。あくまでも成果は、企業体質の結果でしかないからだ。この禅問答のような哲理を自分のものにできる感性が、フロントランナー型経営者に共通の要件だ。経営は自立することであり景気などに依存するものではないと心底感じた時に、経営者としての覚悟とエネルギーが生まれ、経営者としての身のおき所が決するのだ。
経営者の度量以上の企業が存続することはないという歴史的事実が証明しているように、覚悟とエネルギーに充ちた場に身をおいた経営者に率いられた企業は、強力だ。
経営を志す限りは、こうした原理原則を素直に受け入れ、それを強靭な意志力で実行に移す粘着力が不可欠だ。ここで留意しなければならない大事なことは、原理・原則とは、風評や慣習から来るものではないということだ。むしろ、フロントランナーとしては、慣習や風評といった「業界の常識」をまず疑ってかからなければならない。業界の常識は一般世間の非常識ということが、良くある。そうした意味からも、「プロとしての違和感」は大切にしたい。
そうした心構えが、経営者に景気依存させることなく、自力経営の道を開かせることにつながる。
次回は、難局にたえうる人材にスポットを当て、平成年号の名付け親の安岡正篤師と日本へのヨガ導入の祖である中村天風師の教えを取り上げる。

第14回 道を拓くこと (2000年11月1日)

安岡教学と天風哲学
安岡正篤師と中村天風師の教えを取り上げる予告原稿を示した直後、「歴代総理の指南役:安岡正篤、中村天風が遺した理想的指導者の条件」と銘打って、プレジデント社から下村澄氏と清水榮一氏の共著による「帝王学」が出版された。
両巨頭の教えを求める偶然一致から、あらためて真のリーダー不在の状況を認識したところである。
こうした中で、この稿では天下国家に論点をおくのではなく、企業経営という部分に安岡師や天風師のスピリットを吹き込み、骨太の企業経営の一助にして貰うことに狙いを絞ることとする。
そのために、両巨頭に直接学ぶ機会を持てなかった筆者は、今まで行なってきた「東洋倫理概論」などの代表的な著書や宇野千代氏の「天風先生座談」などの伝聞録の研究から、そのエキスを拾って見ることにする。
安岡正篤師は、平成の年号の名付け親として知られる。古今東西の叡智を極めて、知る人ぞ知る歴代総理の指南役として、大所高所から日本の舵取り役を支えた。特にも、中国の古典に通じ、名実ともに陽明学の権威とも言われたが、そこにとどまらず西洋の先達の研究も怠らなかった。心身摂養法として「喜神、感謝、陰徳」を挙げ、自ら実践した。
中村天風師は、軍事探偵として「人斬り天風」と呼ばれるほど多くの人間を手にかけた。胸を患って海外をさまよっている時に、ヨガの大酋長カリアッパ師に出会い、ヒマラヤで直接教えを受けた日本におけるヨガの草分けでもある。「氣」を基本におき、生存条件として「尊く、強く、正しく、清く」生きることが生存条件であるとした。そこから、人生を積極的に生きる活力が沸いてくるということを繰り返し説いている。
宇宙的な真理を畏敬の念で認識しつつ、自らの人生を高い意識のもとで自立的に生き抜いた。その結果、精神的なパワーが身体的な健康を創出することに結びつく。実践を通して証明された積極的に生きぬくこの知恵こそが、両巨頭共通の教えとしての要諦である。
企業経営でもまったく同様に、心の持ち様こそが重要であり、基本的な考え方が出来ないことには、健全な企業体質は出来ようがない。心すべき第1の要点であろう。
また次に、おごるなかれという教えも共通している。天風師はカリアッパ師から、役に立たない知識に浸っている自分を気づかされ、その後に心を空っぽにして真摯に教えを乞うことが出来たという経験から、このことに言及している。安岡師は、明代の袁了凡が著した「陰シツ録(インシツロク、シツは「陟」の下に「馬」)」を解説する中で、天命と立命を対比させて、天命を受け止めた上で立命に変えていくひた向きさの重要性を説いている。謙虚であれという教えが、第2の共通点である。
第3は、「徳」がトップの要件であることを挙げていることだ。前述した天風師の「尊く、強く、正しく、清く」生きるは、言うまでもない。これに対して、安岡師は、才に長けた人材ではなく民が信頼をおける安心感の人材を登用したという「宋名臣言行録」の例を引き、そこに居るだけでメンバーが安心することが、リーダーの大事な要件と述べている。
民衆と政治は均衡し、社長と社員は均衡する。世の中におけるどんな関係でも、どちらかが働きかけ・動くことによってしか事態は好転しない。
経営においては、今回述べたようなポイントを良く心得て、経営者自らが能力を啓発することが肝要である。
次回は、ともすれば「方法」を「目的」化してしまう罠について述べたい。

第15回 混同のワナ (2000年11月11日)

目的と方法
目的に対して、それを達成する方法は無限だ。
そして、目的は、意図があって始めてできる。
その意図は、その人自身の熱意や思いから発する。
だから、熱意や志の無いところからは、効果的な方法は生まれない。
しかし、多くの中小企業経営者を見ても、最初から高邁な志を持って経営にあたる者は稀で、親が子供と一緒に成長するように、経営者もまた事業と共に成長する。これを、素直実行型の経営者群といい、ほとんどの中小企業の創業者はこれにあたる。
そして、素直実行型の経営者の場合、いつの時点で志を立てるのかが、その後の経営の成否を分ける。
つまり、最初は「飯を食うため」「お金が欲しいから」という願望や欲望をバネに脇目も振らずに、必死で事業をやってきた。その結果少しは余裕ができ、他のことを考える時間が持てるようになった。このタイミングが、ステップアップのチャンスともなり、没落の誘惑時期ともなる。
連載12回目の「経営者の要件」で述べたように、この時期に小成功病にかかってしまい、せっかく積み上げた業績を失ってしまう経営者も少なくない。
しかし、この時期にこそビジュンを確立し、事業の意図を持ち、段階的な実現目標に向かって、どういう方法を用いて実行するのか、という原則通りの手順を踏んでいくことが、その後の経営をステップアップすることにつながる。
経営とは、「縄張りを決め基礎を固め、その上に建物などをつくること」と広辞苑でも定義づけられている通り、まずは事業の範囲と存在意義を定めること、すなわちビジョンを作ることであり事業意図を構築することからスタートしなければならない。
なぜなら、これを為さない限りは、いつまでたっても、勢いと体力頼りの事業にならざるを得ないからだ。
確かに、何とか綱渡りできているうちは勢いと体力でも事業はまわっていく。
例えば、経営者に人格的欠陥が目立たないうちは従業員も何とかついて来る。しかし、経営者が一旦「小成功病」に陥って、傲慢な態度を取り始めたり本業と関係のないものにのめり込んだりすると、途端に従業員の士気は落ち、仕事の効率はダウンしその品質も低下する。さらに進むと、優秀な者から見切りをつけて退社していくことになる。
社長以上の社員は存在しないと言われるように、中小企業の経営者が、自社の人材不足を嘆く裏には、往々にして経営者自身のこうした自覚不足が隠されている。
従業員は、あくまでも目的を達成するための方法について、いかに効率よく実行するかがその役割であるから、前向きに仕事に取り組めるかどうかは、結局は目的が明確であるかどうかに大きく関わる。
さらに、目的や目標を理解することは、方法を実行する根拠がわかることでもあるから、与えられた方法に埋没することなく、目的を果たすためにもっと良い方法を見出そうとする動機づけにもなる。
もちろん経営者自身の経営の目的と方法の関係も例外ではなく、「方法」を「目的」化してしまう罠には気をつけたい。

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