第21回 スキマを埋める (2001年2月1日)
特徴とセールスポイント
2月は、昔からニッパチといわれ、8月と並んで商売の振るわない時期といわれて来た。また、筆者が携わる新事業に関する相談の中で、資金繰りを別にすると、「作ったけれど、売れない」という悩みがずば抜けて多い。
「こんなに良いものなのに消費者が分かってくれない」、「これは売れる筈だ」、「この製品は画期的だ」、「景気が悪いせいで、せっかくの自信作が動かない」などなど、製造側の論理だけで市場をとらえ、視野が狭くなっているため的確な状況分析ができず、手をこまねいている例が多い。
経営者に聞いても営業マンに聞いても、みずからの商材の「特徴や機能」は挙げられても、購入行動に直接結びつけるための「利点や効用」を具体的にアピールできる人は少ない。
まさにセールスポイントとは、顧客に分かりやすく「あなたにとっての利点や効用」を訴えることにあり、決して「製品の特徴や機能の単なる羅列」ではないのだ。つまり、良いモノが「売れる」か「売れない」かの差は、このセールスポイントについての認識と具現力の違いから生じるといえる。
だから、新製品や新サービスを市場に出す場合は、どんな利用者に、どんなメリットを感じてもらいたいのか、「特徴・機能」と「利点・効用」のスキマを埋めること、すなわちセールスポイントを明確にすることが必要なのである。そのためには、資本力の乏しい中小企業は「絞り込み」をして、経営資源を集中するのが常道である。
そして、それがピンポイントであっても特定の分野であっても一旦評価を得ると、往々にして顧客が他の領域での活用ヒントもくれるものだ。それを見逃すことなく、次のステップとして販売領域の拡大につなげることが商売繁盛のコツである。
商品としてまともなものであるならば、冒頭に掲げた「売れない」という悩みの原因は、まさにセールスポイントを構築するという一番大切な仕事を怠っていることにあるといえる。
このことは、ITがらみで盛んなソフトウェア開発などの分野も同様である。斬新な?ソフトを開発しても、その時点ではほとんどがプロトタイプ(試作品)レベルな訳で、最終ユーザーでの試用が不可欠な段階だ。しかし、多くの供給者側は、個別に異なる筈のユーザーの「利点や効用」を軽視して、利用者次第で使い勝手良く編集できますよと言い訳しながら、結果的には「特徴や機能」を前面に出し、強引かつ散漫な押し付け販売に終始している。
ソフトの場合は、このスキマを埋めるのがカスタマイズ作業となる。もともとカスタマイズとは、「顧客に合わせる」という言葉なのだから、まさしく個別に作り込む作業であるセールスポイント作りの本質と重なっている。
時代は21世紀に移ったが、顧客の購買動機は自らにとっての「利点・効用」が尺度であることに変わりはない。従って、中小企業は、小規模ゆえに素早く大胆な対応が可能なメリットを自覚し、経営資源が備えるセールスポイントを見出しやすいという強い自信と不退転の決意をもって実行していくことが大事である。
第22回 常識の種類 (2001年2月11日)
道理と俗説
21世紀の経営は、「HOW TO」から「WHAT」にその重点が移るといわれて久しい。
我が国において需要が供給を上回る時代は、「いかにして」効率を上げて、量を確保するかが供給者である企業の大命題だったが、生活のインフラが整いモノがあふれてしまっている現状では、「何を」市場に提供して、消費者の関心を引くのかが企業経営のゆくえを左右する。
また、かつて製造現場では小集団によるQCなどの改善活動が一世を風靡したが、今ではこうした部分の効率を上げる動きはあまり見られない。それに替わって、事前に明確な目標を打ちたてて全社的な仕組みを遂行するISOやHACCPの考え方が急速に広まっている。
端的にいえば、「いかにして」小手先で問題解決を図ろうとするのではなく、もっと本質的なシステムそのもので「何を」問題と捕らえ事前に除いてしまうかということなのだ。
このように、市場設定においても製造現場においても「いかにして」ではなく、「何を」が大事になる。
では、どうすれば「何を」を見出すことができるのだろうか。
ここで、そのちょっとしたコツを紹介しよう。それは、「業界の常識」を見直すことである。すなわち、常識「で」考えるのではなく、常識「そのものを」考えるということだ。
それは、プロとして携わっている業務から感じるわずかな違和感がきっかけになるかもしれないし、常々疑問を感じている仕事のやり方を洗い直して見る事がヒントになるかもしれない。また、全く未知の分野についての興味や粘り強いリサーチが功を奏すかもしれない。
郵便局や日通の独占に風穴を開けて宅急便の今日隆盛のきっかけを作ったのも、日本では絶対無理だといわれたコンビニの歴史を作ったのも、白川博士が弟子の実験失敗に着眼してノーベル賞につなげたのも、それぞれの「常識」に違和感を持ったことがすべて始まりだといえる。
ところで、常識を疑って見る際に、重要なポイントがある。それは、常識には2種類あることを分かっていなければならない。
つまり、原理原則に裏付けられた「道理」と、由来や根拠がはっきりしない「俗説」とがあり、大事なのは、道理は尊重してさわらずに、怪しいと感じた俗説を納得ゆくまで探求するという姿勢である。
たとえば、付加価値の創出は企業の株式の価値に反映するのは「道理」だから、当然実態のないネットバブルが崩壊するのは予想の範囲内となるし、ネット企業でも付加価値のある事業を展開している企業は適正に評価される。また一方、ネット銘柄は何でも買得というのは「俗説」だから、アヤシイ銘柄は徹底的に裏付けを取ることになる。結果として、同じネット関連でも、アヤシイものとは関わらずに、実体を伴った銘柄を持つことになる。
ことさらプロとしての守備範囲でこそ、その常識が「道理」と「俗説」のどちらに属するか、目利きの力量が存分に発揮できる訳で、これが心底仕事のやりがいにつながっていくこと請け合いだ。
第23回 企業内の役割 (2001年2月21日)
認識と分担
企業とは何か、会社とは何か、と問いかけられて答えに詰る人も少なくない。誤解を恐れずに、答えを書けば、「社長の考えを実行するところ」である。
この基本的な企業の命題を実現するには、まず経営者がその「考え・理念」を明確にし、さらに社内に浸透させなければならない。そのことによって、企業として向かうべきベクトルが定まり、社員の役割もはっきりしてくる。
これを前提として、社員は何をなすべきか。まずは、直接付加価値を生み出す立場の「直接人員」とそれを支える「間接人員」という観点で、その基本を捕らえてみることにする。
付加価値を直接創り出すことのできない「間接人員」は、直接部隊である「直接人員」が実務に専念できるような環境づくりを、最小限の人数で実現することが役目である。
かたや、製造現場や営業活動などの最前線で直接的に付加価値を追求している「直接人員」の役割は、その支えられた環境に甘えることなく実務に専念し、常に技術・技能の研鑚に努め、客先や間接人員の負託に応えることにつきるだろう。
また、各部署の管理職は、その基本要件として、間接人員と直接人員の潤滑油たる自覚を持ち、決して自分の部署だけのセクショナリズムな感情を抱かないことが肝心である。
さらに、中小企業の場合、間接・直接の立場が、実務の中で常にフレキシブルに入れ替わりながら成果を上げていることも理解しなければならない。
このように、単に自らの役割のみならず、他の役割を認識することが、それぞれの果たすべき役割をしっかり遂行することにつながっていく。つまり役割について、往々にして「分担」という理解をすることが多いが、一歩踏み込んで「認識」まで高めることは組織が有効に機能するポイントとなる。
大小問わず企業で良く見かけるのが、「それは、自分の仕事ではない」と仕事に線引きをする行動である。これは、役割を「分担」させられているというレベルから出る、一種の仕事拒否行動である。
実は企業活動において、各領域の境目にこそ他企業との差別化のネタが隠されていることが多いのだが、「分担」した役割を恣意的に狭くすることが社員によって行なわれるとすれば、企業の事業機会を阻害することに直結する重大危機である。
それを防ぐために、相互の役割を「認識」することが不可欠である。その「認識」によって、境目のネタを見逃さずに事業機会につなげる行動が促されるのである。
身近な例でいうと、掃除の範囲を決める場合でも、単に線引きするだけでは、境界部分が一番問題になるが、お互いにその境目から50cmずつ大きな範囲と認識すると、一気に清掃の仕上り具合が良くなるものだ。
企業内の役割についても同様で、全体イメージを認識しながら、自らの役割を遂行するということが、企業活動の質を格段に高めるのである。その意味でISOやHACCAPはそれをシステム化するものだと捕らえれば、その導入についてのコンセンサスを得るのも容易で、意義も高い。
第24回 感性を研ぐ (2001年3月11日)
愚鈍と愚直
愚直であることは必要だが、愚鈍はいただけない。
この二つは、文字通り似て非である。
いやしくも一国の首脳である輩が、自身の受験時を振り返って、「答案用紙は白紙で出したが、○○○大学に合格した。」などととぼけたことを平気で言い放つ無神経は、愚鈍であることから発する。
かつて伊丹万作は、「戦争責任者の問題」と題する評論の中で、「だまされたと云えば、一切の責任から開放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度顔を洗い直さねばならぬ。」と記し、「だまされること自体がすでに悪である。」と明快に論評している。だまされるものの罪は、だまされたという事実そのものの中にあるのではなく、他愛なくだまされるほど、批判力、思考力、信念を失った自己にこそ罪があり、知の欠如、無知こそ罪であるというのだ。
伊丹十三の父で大江健三郎の義父でもある万作は、映画界の鬼才といわれながら46才で他界している。終戦後「軍部にだまされた。」「軍の幹部にだまされた。」「あれにだまされた。」「これにだまされた。」と責任転嫁が横行する中で、万作は「俺がだました」という人間が一人もいないことの矛盾を鋭く指摘したのである。
それから時代は半世紀を経たが、相も変わらず政局の混迷である。
担いだ人も担がれた人も「自分が悪かった。」という声はいまだ聞かない。永田町はもとより国民皆が被害者になりきっている。
そろそろ国民自身が「私の選び方が間違っていました。これからは真面目に選びます。」という姿勢を持ち、自ら責を負う気概で事に当たる時期のようだ。
この真剣さや本気さがない限り、感性を取り戻し、かつ磨くことはできない。
世界中が不透明な中で、21世紀は、理性から感性の時代に移るといわれている。日本人は、20世紀型の「言葉と論理」にはなかなか馴染めなかったが、感性の発揮に不可欠な「察しと思いやり」という資質に大変優れている。この意味において、日本民族は21世紀の人類の案内役と期待されるところ大なのである。
感性を磨く上では、愚鈍ではなく愚直であるべきだ。我々は、それにまっしぐら向かうことを久しく忘れてはいないだろうか。こつこつ積み上げる地味さを嫌い、急いで結果のみを求めすぎてはいないだろうか。
90年代初頭の日本バブル崩壊、そして強いはずだったNY株のここに来ての下落、21世紀への移行期の重なる経済的な混乱や政治の混迷、すべて21世紀に積み残された大きな課題である。
しかし、解決できない問題は目の前に現れないという通り、我々の叡智を結集すれば必ずや乗り越えることができる筈だ。
繰り返しになるが、これからは、企業単体も個人も世の中全体もすべて依存と決別し、みずから本来持っている感性を取り戻すことで、活路を見出すのである。そのためには、少なくても愚鈍ではなく、愚直に地道な積み重ねをすることが、何よりも重要な要素になる。
環境との共生が大命題となる企業活動でこそ、それを特に心すべきである。
第25回 院政からの脱却 (2001年3月21日)
経営と資本
中小企業の経営者の中には、社長を退いてからも経営に何かと口を出す人がいる。
特に創業社長は、筆舌に尽くし難い苦難を乗り越え、手塩にかけて育てた企業について、その思い入れは強くて当然だ。
しかし、その後を託された経営者にとっては、ありがた迷惑この上ない。企業規模の小さな中小企業の社員にとっては、前社長は現社長よりも身近に感じられる存在であることが多いのも現実だ。しかも、今までたたき上げで会社を大きくしてきた最大の功労者であることは誰も否定できないから、なおさら始末が悪い。
もし、道を譲る後進に不安があるのなら、あくまでも自らが経営者の立場で頑張り通すことだ。だから、一旦経営者として退いたのであれば、経営に一切口を出してはならない。
社員は、経営者の建前と本音に関して、とても敏感であるから、現社長が前の経営者から信頼されてないとなると、どちらを向いて仕事をしたら良いのか分からなくなり、会社のベクトルがばらばらになる。よって、当然業績も芳しからざるものになる。
立場が人を作るというが、院政をしいていては、新社長はいつまで経っても、社長らしく社員から全幅の信頼を得ることは難しい。
論語でも「信なくば立たず」というように、トップと社員の信頼関係が企業の礎になる訳だから、まさに院政は、企業にとって最もこの大事な作業を邪魔しているようなものである。
そこで、経営者の給料をひいて整理してみたい。
経営者の給料は文字通り、「経営という仕事に対する」給料であり、それ以上でもそれ以下でもない。ここをまずは納得してもらわなければならない。つまり、決算状況による役員賞与を含めて、すべてが経営という仕事に対しての成果報酬である。
当たり前のことだが、ここには、創業したこと自体に対する功績給などは含まれていない。ところが、創業者の思い込みが強ければ強いほど、このことが理解できないのだ。
例えば、創業者が資本金をたかだか3千万円程度出しているとしても、せいぜいそれに対する配当は、1割から2割の数百万円程度が妥当である。つまり、株主としてのリターンというものは、1年単位で見るとその程度なのである。ところが、経営の第一線から引退した会長や顧問が、創業者であるというだけで居座って、数千万円の給与を得るとすれば、それは社員の逆インセンティブこそ刺激するが、前向きに取り組もうという意欲の喚起にはまったくつながらない。ちょっと気のきいた社員ならば、自分で事業を立ち上げることを当然考える訳で、有能な人材流出につながる。
つまり、いったん経営者が引退したならば、自らの投下資本に対する配当だけを得ることを認識し、決して役員報酬などを貰ってはならない。それが、自由経済下の企業経営のルールなのだ。
事業の繁栄を目指す企業に対して、いみじくも創業者群が、その足を引っ張るようなことをしたとすれば、創業者群の存在自体が悪であり、せっかく起こした事業に汚点を残すことになりかねないのだ。