Sekiyan's Notebook グローカルニュース〜経営の腑

セキやん通信「経営の腑」


第1号“事業の本質は「市場活動」である”<通算 第316号>(2010年6月25日)

第2号“能率主義の危険”<通算 第317号>(2010年7月9日)

第3号“伝統的組織論の誤り”<通算 第318号>(2010年7月23日)

第4号“経営計画のチェック、その1”<通算 第319号>(2010年8月6日)

第5号“経営計画のチェック、その2”<通算 第320号>(2010年8月20日)

「経営の腑」第1号<通算 第316号>(2010年6月25日)

事業の本質は「市場活動」である  一倉定著「新・社長の姿勢」(社長学シリーズ第9巻)より引用
 事業経営の本質は何か、について、明確な定義は、私の知る限りではない。
 ドラッカーの名著「現代の経営」においてさえ、これには触れていないのである。
 この明確な定義づけがないための混乱は、筆舌に尽くし難いものがある。
 事業の経営は、「市場活動」によって生み出される経済的価値――収益によってはじめて存続が可能だ。
 この経済的価値は同時に社会に対する貢献となる。そのために、社会に存在することが認められ、法律による規制が行われるのだ。
 この、最も基本的なことが忘れられ、企業の内部を管理することが“事業の経営”であるかのような錯覚にとらわれている人びとが大部分である。
 世にいわれる“経営学”なるものは、この錯覚にもとづく間違った思想と理論に満ち満ちている。そして、これが計り知れない害毒を社会に流し続けているのである。
 事業経営の最高責任者である社長は、この妄説に惑わされることなく、事業に対する正しい認識――事業の本質は市場活動である――を持たなければならない。この正しい姿勢を持たない限り、正しい事業の経営はできないのである。
 正しい経営を行うためには、“間違った経営”――つまり内部管理に焦点を合わせた経営をすると、会社はどうなってゆくのか、ということを知る必要がある。
 間違った経営とは“民主経営”である。そして、これから派生する“権限委譲” である。
 これが、如何なる害毒を会社に及ぼし、事業をゆがめてゆくかということを、実例によって考えてみたい。
<この後、「民主経営の恐ろしさを知れ」のF社、「権限委譲の危険」のT社、「販売をスカウトした専務に任せて」のU社、「会社がつぶれたらだれが責任を負うのか」のM社の実例を引いて、さらに続ける>
 これらは市場とお客様を忘れて、企業の内部対応のみに焦点を合わせたマネジメントと称する理論の誤りを裏づけるものである。
 そもそもマネジメントは、企業経営には全くの門外漢が作り上げた机上論以外の何者でもないのだ。
 事業の経営とは、どういうことであり、社長は何をしたらいいかは誰も教えてはくれない。だから、自分だけの考えで経営しなければならない。そのために、うまくいかない事態にぶつかると、経営学と称する誤った学問や権威者と称する門外漢に頼ることとなる。それが全くというほど間違っているところに悲劇が生まれるのである。それらの理論は内部管理だからであり、内部管理にのめりこんだら、企業の先行きは暗黒だ。

【一倉定】大正7年生まれで平成11年3月逝去された一倉定は、まさに卓越した慧眼の士です。既に30年以上も前にその著書や経営指導の現場で、俗説・妄説をものともせずに、多くの社長の覚醒に寄与しました。

セキやんコメント: ドラッカーの名誉のために補足すると、ドラッカーは2001年にまとめ直した著書「マネジメント 基本と原則」の中で、「企業の目的は顧客創造にある」と述べている。奇しくも、いや当然といえば当然だが、事業の本質を、外部すなわち顧客においているという点で、両者とも全く一致しているのである。そして利益を、一倉は将来費用と呼び、ドラッカーは経営継続条件と位置付ける、この点も全く同義だ。

「経営の腑」第2号<通算 第317号>(2010年7月9日)

能率主義の危険  一倉定著「社長の条件」(社長学シリーズ第7巻)より引用
 われわれは、能率の力の限界をよくわきまえておかなければならない。能率は重要である。しかし、会社を発展させる力はない。あるのは、会社の業績低下のスピードを遅くするだけである。前述のS社の事例が雄弁にこれを物語っている。世の中には能率病にかかって低い業績に泣く会社があまりにも多い。
<この後、「他社の引き合わない製品を引き合うようにするのが経営だと思い込んでいる」P社の社長、「原価意識が徹底しているも、原価主義による安値売りをしてしまった」K社、「社長が能率よりも、閑散期の仕事を見つけてくることを考えなければならなかった」D社、「能率の新手法が開発されると、いち早く専門家に長期指導して貰う職人集団の」I社など実例を引いて、さらに続ける>
 これらの会社の社長は、真剣に経営と取組んでいる。しかしその努力も、能率主義を捨てて効率主義へ転換しないかぎり、永久に実を結ぶことはないだろう。それどころか、常に倒産と紙一重のところを、うろうろしていなければならないのだ。
 私は、能率という小手先のテクニックにとらわれている、あまりにも多くの経営者に、声を大にして警告したいのである。「能率から関心を遠ざけ、効率に関心の焦点を集めよ」と。
 収益性の良い製品を探し出して、これを採り入れ、収益性の悪い製品を非情に捨ててゆくという効率主義こそ、ほんとうに会社を発展させる道である。これこそ、経営者の第一の心構えなのである。
 しかし、私は能率を否定しているのではない。否、私はかつて能率が専門であっただけに、その重要性は知っている。しかも、その重要度はますます高まっていくのである。けれども、かつては社長や上級幹部の関心事であった能率向上は、その重要度が高まっていくにもかかわらず、係長とか主任職長の役割になっているのだ。絶対的には重要度の高まっていく能率も、経営全体から見ると、その相対的価値は下がっていくのである。それほど企業の経営はきびしく、むずかしくなってきているのである。
 だから「能率にしか目を向けない経営者は、事態のきびしさを認識せず、経営者の任務を放りだして、主任や職長の仕事をしている」といえよう。能率は部下に任せ、経営者は効率に専念しなければ、会社を存続させることは出来なくなってきているのだ。

セキやんコメント: 一倉は第7巻の前書きに、この書をなした動機の一つとして「世のコンサルタントと称する人々へ、不遜を承知で苦言を呈したかった。私がお伺いする会社で、経営コンサルタントに対する不信の念が、あまりにも高すぎるからである。それは、経営とは何かを全然知らずに自分の専門分野のテクニックを振りまわして押しつけているからである」と述べている。さらに、「経営にとって、管理のテクニックは重要であっても、第二義的な重要さである。企業経営は、すべてが結果である。良い結果を得た考え方と行動のみが正しい。良い結果が得られなければ、いかに管理水準が高かろうと、意図が正しかろうと、それらはすべて空しいものであることを考えてみてもらいたい」と続けている。一倉のこうした思いには全く同感だ。それは、まさに私が地場経営者の苦悩を見て感じるところと全く軌を一にするからだ。

「経営の腑」第3号<通算 第318号>(2010年7月23日)

伝統的組織論の誤り 一倉定著「内部体勢の確立」(社長学シリーズ第6巻)より引用
 世にごまんとある企業の“組織論”“管理論”(マネジメント論)を読んでみると、企業組織というものは、「企業目標を達成するための体制とその運営」を目的とするものである、という意味のことが総論に必ずでてくる。
 しかし、この“うたい文句”はそれ以後、目を皿のようにして何回読み返してみても、どこにも全く書いていないのである。ということは、それらの組織論者は、もともと企業経営なるものなどに爪の垢ほどの関心も持ってはいないのである。あるのは、「企業の目的は利潤の追求である」というような、間違った定義づけにもとづく間違った観念――「企業は利益が最大になるように行動する」ということぐらいのものである。
 では、間違いは間違いとして、「利益追求のためにはどうしたらよいか」というくらいのことは書いてあるかというと、これまた一言半句もふれてはいないのである。いったいどうなっているのだろうか。
 組織論者の関心の焦点は明らかに、「日常の繰り返し仕事」である。日常の繰り返し仕事さえうまく管理すれば、それが優れた事業経営であるというのである。
 これこそ全くの官僚的発想である。きまりきったやり方と前例のもとづいて処理していく考え方である。
 そのための階層や職制がどうだ、職務や職能がどうだ、ラインだスタッフだ、やれ責任だ権限だ、指令系統だ、統制だ、手続きだと、全く下らない、そしてスタティック(静態的)な理論というよりは雑論が、あとからあとからとでてくる。
 しめくくりは人間である。生き甲斐だ、やる気だ、人間関係だと、愚にもつかないトンチンカンな理論の羅列である。そして、結局は人材育成であり、人格の陶冶であるというヤブニラミ論でメデタク幕を閉じることになるのである。
 すべては実証の裏付けのない観念論と、皮相的な人間論でしかない。
 それらの理論が実際に企業組織の中に導入されて、その結果がどうなのかというようなことは考えてみたこともない無責任人種の、きれい事の理論遊戯なのである。
 それが理論遊戯にしかすぎないということは、私自身の15年以上にわたる会社勤めの中で、いやになる程感じさせられてきたのである。

セキやんコメント: 一倉は、――市場と顧客の要求に合わせるという「変化への対応」こそ、企業の生きる唯一の道である。それなのに、「変化を阻止する」という特性を持った組織理論を導入してしまったところに、悲劇がある――と述べている。また、パーキンソンの法則を持ち出し、――「組織というものは、仕事量とは関係なく増殖する」という特性を持っている。しかも、いったん“何か”が組織と利害の対立を起こすと、必ず組織の利益が優先して、“何か”の利益は無視どころか抹殺されてしまうのである。「行政改革」という官僚組織のピンチに、官僚群がいかに死に物狂いの抵抗を示してこれを葬ってきたかを見れば分かる。それどころではない。さすがのスターリンでさえ、ソ連の官僚組織に手を下すことが出来なかったのである――と既に30年前に指摘している。そのままそっくり、現代にも当てはまることに、いろんな意味で感心させられる。

「経営の腑」第4号<通算 第319号>(2010年8月6日)

経営計画のチェック、その1 一倉定著「経営計画・資金運用」(社長学シリーズ第2巻)より引用
 経営計画は、定期的にチェックされなければならない。普通の場合に、1か月1回のチェックが良い。
 (中略)
 チェックの内容は、社員に対するものと、社長自身に関するものとでは全く違う。社員に対しては、社長の方針にそった活動が行われているかどうかが最重要であり、あとは、個々の目標に対して何がどれだけ目標に対して上回っているか、下回っているかである。そしてそれらに対して、どのような対策をとろうとしているか、その対策は適切か、ということである。
 このチェックに対して、大部分の会社で全く間違ったことをやっている。
 一般に、チェックというのは「目標(または計画)に対する実績の差異をとらえて、この差をつめること」と定義されている。
 ところが、この基本的な定義さえも理解されておらず、不達成の対策を忘れて原因の探究に走ってしまう。
 たとえば、売上目標1千万円、実績9百万円、不足1百万円とすると、「何故あがらなかったのか」とくる。原因をしらべて何になるというのだろうか。何がどうであろうと、過去の数字はただの1円でも変えることはできないのだ。
 不達成の原因など、もっともな理由があるにきまっている。人間というものは、絶対に自分が悪いとは思わない動物なのである。
 (中略)
 「原因を探究して、これを除去することによって業績をあげられるのだ」という主張は、もっともらしくてその実全くの誤りなのである。原因は自分にあるのではなくて、自分ではどうにもならない客観事態だというのだから、原因除去など始めからできるはずがないのである。例えば、売上が上がらないのは、近くの百貨店の特売にあるとする。他店の特売をやめさせることなど、できるはずがない。論より証拠、原因がこうなのだから、これを除去するにはこうすればいい、というような会議には、私はお目にかかったことはない。
 反対に原因をしらべたら、誠にもっともであり、実績があがらないのは止むを得ない、という実績の妥当性を証明する会議になってしまうのが落ちである。そして、誰も悪くない、これで安心、では会議はこれまで、式のものが殆んどである。実績の妥当性が証明されるということは逆に目標が不当だという意味になるのだ。

セキやんコメント: 一倉は、――目標達成に必要な考え方は、「どうしたら目標を達成できるか」という“対策”なのである。対策をたてるためには、今、自分のいる位置を確認しておく必要がある。実績が今自分の立っているところなのである。実績は対策のために確認するものであって、その原因を探究するものではないのだ。これが「目標と実績との差をとらえて、この差をつめる」という“チェック”の正しい考え方なのである。――と説く。では、この正しい考え方をふまえて、どのような態度で対策を立てたらいいのだろうという皆様の次なる興味には、次号でお答えすることにしたい。キーワードは、“管理的チェック”と“経営的チェック”の2つ。

「経営の腑」第5号<通算 第320号>(2010年8月20日)

経営計画のチェック、その2 一倉定著「経営計画・資金運用」(社長学シリーズ第2巻)より引用
 チェックには2種類ある。1つは“管理的”チェックであり、もう1つは、“経営的”チェックである。
 社長の行うチェックは、経営的チェックでなければならないのに、これは殆んど行われずに、管理的チェックを行ってしまう、という誤りをおかしてしまうのである。
 管理的チェックというのは、ミクロで(個々に)チェックし、ミクロで対策をたてる。
 たとえば、生産計画のチェックは、計画を達成した品物はそれ以上やる必要はない。不達成の品物の挽回を図る。購買計画のチェックは、納期に間に合った品物は考えなくていい。納期遅れの品物を督促するのである。
 これに対して、経営的チェックは、ミクロでチェックし、マクロで(全社的に)対策を立てるのである。
 管理的チェックと経営的チェックは、一部分の違いのようでいて、その実その違いは結果において決定的な違いとなるのである。
 経営的チェックをしなければならない社長が、管理的チェックをすると、その業績において決定的な違いとなるという意味である。
 (中略)
 ところが、多くの会社で、というよりは、殆んど大部分の会社で対策を誤る。というのは、このチェックを管理的に行い、管理的な手を打つからである。われわれは、よくよくこのことを心して、正しい対策を取らなければならないのである。
 (中略)
 目標というのは、我社から見た顧客の要求が基礎となっている。その目標と実績との差は、我社から見た顧客の要求と、実際の顧客の要求との食い違いをあらわしている。つまり、顧客の要求に対する我社の見込み違いを意味しているのである。
 実績が目標を下回っている商品があるならば、それは我社で考えていたよりも顧客の要求が少ないのだから、我社でどう思っても、それとは関係なしに、これから収益を期待することはできない。だとするならば、これに販売努力をすることは全くのムダである。
 (中略)
 反対に、実績が目標を上回っている商品は、(中略)さらに販売努力を強化することによって、売上増大を期待できるのである。
 経営的チェックと、管理的チェックは、以上に述べたように全く異質なものであることをよく認識していなければならないのである。

セキやんコメント: たとえば、不振の直営店舗にありがちな泥沼化パターンは、店舗改装〜店長交替〜バックヤード充実〜赤字の肥大化となる。歯止め策は、極めてシンプルだ。それは、不振店舗を閉鎖し、浮いた人員などの経営資源を繁盛店に振り向けて、繁盛店を年中無休化することだ。まことに単純で、不振部分に費やしている経営資源を好調部分にシフトし続けることで、常に合理的な経営資源の有効活用が図れるわけだ。これは、パレートの法則の応用で、「95%の原理」として一倉が最も強力に推奨したやり方でもある。

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