Sekiyan's Notebook グローカルニュース〜経営の腑

セキやん通信「経営の腑」


第6号“内部管理は経営にあらず”<通算 第321号>(2010年9月3日)

第7号“市場および顧客ニーズ”<通算 第322号>(2010年9月17日)

第8号“能率主義の危険 2”<通算 第323号>(2010年10月1日)

第9号“販売こそ、事業の牽引車”<通算 第324号>(2010年10月15日)

第10号“分掌主義の誤り”<通算 第325号>(2010年10月29日)

「経営の腑」第6号<通算 第321号>(2010年9月3日)

内部管理は経営にあらず 一倉定著「経営戦略」(社長学シリーズ第1巻)より引用
 T氏は経営には熱心で、過去数年の間に、経営の近代化に異常なまでの努力を傾けてきた。
 しかし、月商の4倍にも相当する累積赤字をかかえて、極度に悪い資金繰りに悩まされながら、必死に頑張っているが、業績回復の見込みは全く立たなかった。
 外部からの指導を受けて、その勧告を矢継ぎ早に実施した。まず組織である。次は職務分掌、事務の合理化、モラル・サーベイ、賃金規定の整備、設備の近代化、生産の合理化、コストの逓減(材料費率低減)などなど・・・。しかし業績は悪化の一途を辿るばかりである。人材がいないということで、人材を導入し、権限を大幅に委譲した。その結果はその人材と社長との意見対立となり、人材は退社してしまった。その人材の提案による、コンピューターによる管理(実は単なる計算)も何の効果もなく、経費を喰うだけだったのである。
 今はコンピューターを捨て、いままでやってきたいろいろな近代化の手法(や関わったコンサルタント)にも、全く信頼がおけなくなってしまった、というのである。
 T氏の説明によると、アイスクリームという季節商品なるが故に、夏場は忙しくて利益が出るが、冬場は売上が3分の1にも激減し、夏場の利益を全部食いつぶして、なお足りないというのである。
 そのアイスクリーム製造設備は非常に立派なもので、ある権威者からは激賞を得ているという程のものだという。いくらほめられたって、会社自体が赤字では、どうにもならないのだ。
 冬場の落ち込みをカバーするために、過去において、“玉ねぎの皮むき”が面白いといわれて、わざわざ工場を建て設備をしたけれども、原料相場の変動が激しく、だからといって、その変動を売価にかけられず、これは失敗してしまった。
 今は、冬場の仕事として“中華饅頭”をやっているが、売り上げは僅かで、とても冬場を支えられるものではない、というのである。

セキやんコメント: このように内部管理の手法そのもの、イコール経営であるとの勘違いは、どこの経営者も陥る罠である。この解決には、方法論にエネルギーを費やすのではなく、事業構造そのものの見直しを優先しなければならない。つまり、どう考えても「儲かりそうもない構造」の中で、いくら努力をしても、望む結果(経済的成果)は得られないのだ。上記のケースで、一倉は以下の手を打ち、業績を回復させた。

 @ この会社の事業構造の3大欠陥を指摘
  その欠陥とは、「大企業との完全な競合である」「単品経営である」「季節商品である」→事業構造見直し
<上記を踏まえた上で、以下の具体策実施>
 A 過去の合理化・近代化の思想を全部捨てる
  効き目がないことは、社長自身がもっとも身にしみて感じていたので、すぐに了解された
 B 社長自身が先頭に立って、冬場の売上を上げる
  社長自らが販売の第一線に立ち、大手の対極の(手間がかかる)「高級化」志向の中華饅頭に注力
 C 以前コンサルからの指摘で実施した材料費削減方針の撤回と市場での実験
  顧客の要求(美味しさ)を無視したコスト主義は、不振事業者が共通に陥るあやまち

「経営の腑」第7号<通算 第322号>(2010年9月17日)

市場および顧客ニーズ  ドラッカー著「マネジメント」より引用
 市場をつくるのは、神や自然や経済的な力ではなく企業である。
 企業は、すでに欲求が感じられているところへ、その欲求を満足させる手段を提供する。それは、飢饉における食物への欲求のように、生活全体を支配し、人にそのことばかり考えさせるような欲求かもしれない。
 しかしそれでも、それは有効需要に変えられるまでは潜在的な欲求であるにすぎない。有効需要に変えられて、初めて顧客と市場が誕生する。
 欲求が感じられていないこともある。コピー機やコンピュータへの欲求は、それが手に入るようになって初めて生まれた。イノベーション、広告、セールスによって欲求を創造するまで、欲求は存在しなかった。
 企業とは何かを決めるのは顧客である。なぜなら顧客だけが財やサービスに対する支払の意志を持ち、経営資源を富に、モノを財貨に変えるからである。しかも顧客が価値を認め購入するものは、財やサービスそのものではない。財やサービスが提供するもの、すなわち効用である。
 企業の目的は、顧客の創造である。したがって、企業は二つの、そして二つだけの基本的な機能を持つ。それがマーケティングとイノベーションである。マーケティングとイノベーションだけが成果をもたらす。

セキやんコメント: 事業を、「顧客」「機能」「技術・ノウハウ」の3要素で定義したのは、ヨーロッパで活躍している経営学者エイベルである。 ここで留意すべきは、「機能」を顧客の視点で解析しなければならないということだ。 この点からすれば、むしろ「Function(機能)」というより「Value(もたらす価値)」とした方が、違和感がない。

 
詳細は、エイベル著「事業の定義」より引用の図「三次元の事業定義」へ。


 
それをベースにセキやんが事業者向けにアレンジした事業スケルトンへ。


「経営の腑」第8号<通算 第323号>(2010年10月1日)

能率主義の危険 2  一倉定著「社長の条件」(社長学シリーズ第7巻)より引用
 <能率病が会社をつぶす>………「能率主義の危険」(第317号)の続編です
 能率が会社の業績をあげる有力な武器であることは確かである。戦後、アメリカの進んだ能率の技法が、次から次へと紹介された。そして、それらの技法を導入することによって、相当な成果を上げられることも事実である。それゆえに、能率の力が過大に評価され、その限界に対する認識もないままに、ただ能率さえ上げれば会社の業績が上るかのごとき考え方が広く深く信じ込まれてしまったのは、企業として大きな不幸と言わなければならない。
 そのうえ、国や県の行政指導が能率向上に焦点を合わせているのだから、企業経営者がそう思い込んでしまうのもムリがない。そのような「能率第一主義」を、あたかも「経営の正道」であるかのように企業に売りつけた、そして今もなお売り続ける先生方に、私は個人的なうらみは毛頭ないけれども、限りない公憤をおぼえるのである。
 能率を売るのが悪いのではない。能率を正しく評価し、その役割とともに、限界をも教え込み、その駆使を誤らないように指導してもらいたいのである。いままでの教え方では、いたずらに「能率病」患者を増加させるばかりである。
 能率というのは、製品を造る工数を減少させたり、管理の手数を省いたりする。これが原価を下げて、会社の利益を増大させるような錯覚を起こさせるのである。
 作業能率が上がれば利益が増大するのは、それ以外の条件が変わらない場合か、変わり方がごくわずかな場合である。もし、能率以外の条件が大きく変わり、それによる収益低下または原価上昇が能率上昇による原価低下を上回れば、会社全体としては利益が減少するのである。こんなわかりきった道理をなぜ教えないのか。専門家というものは、自分の専門分野だけを、それぞれ勝手に主張しているだけなのだ。だから、いろいろな能率やマネジメント手法の関連はあまりない。ましてや、それらの手法を、企業に役立たせるための総合的な考え方など、薬にしたくともないのだ。
 ところが、企業の経営は、利用できるあらゆる資源と活動が総合されて、その結果としての利益であり損失なのである。これがわからないものに、経営を語る資格はないのだ。いままさに、能率だけに頼っていられる時代ではないのだ。
 その第一は、売価の値下がりである。多量生産品は次第に値下りしてゆく。企業間競争があるかぎりは…。そして、それが親企業の値下げ要求となってくる。その値下げ分は、全付加価値の減少なのだから、たまったものではない。
 第二は、賃金と経費の増大である。(以下略)
 S社は、このようにして、必死の能率向上の努力にもかかわらず、業績が低下し、赤字となり、それに加速度がついて、倒産に向かってバク進していたのである。

セキやんコメント: その後S社は、一倉の指導よろしく見事復活を遂げた。最大のポイントは、能率至上主義を捨て効率主義へ展開したことである。端的にいうと、収益性の悪い商品に悪戦苦闘するのをやめて、収益性の良い商品を受注することに徹したのである。その方策についての詳細は別の機会に譲るが、小生自身にも、県の中小企業再生協議会に見放された企業に関与した際、この原則で対応し復活を成し遂げさせた経験がある。すなわち、これこそが企業の業績向上に不可欠で正しい経営指導の視点なのである。

「経営の腑」第9号<通算 第324号>(2010年10月15日)

販売こそ、事業の牽引車 一倉定著「販売戦略・市場戦略」(社長学シリーズ第3巻)より引用
 販売さえ順調にいけば、企業の大部分の問題は解決するといっても過言ではない。
 それにもかかわらず、多くの企業で最も苦手というよりは、殆ど何も分かっていないといったほうが、より真実に近い表現である。
 そのために、いたずらに誤った努力を重ね、見当外れの行動を繰り返している。これでは優れた成果など期待できる筈がない。
 販売に関する基本的な認識不足は、大きく分けて三つになる。
 第一には、「販売は営業部門でやるもの」という“営業部門依存型”の思考である。そのために「会社の営業部」ではなく「営業部の会社」になってしまう。つまり、社長の考えなどはどこかに忘れられて、会社は営業部のうち出す方向に行ってしまう。
 第二には“天動説”である。「世の中は我が社を中心に回っている」という思想である。この思想は、人間性の本質に根ざしているだけに、極めて根強く、しかも厄介なものである。
 第三には、「市場戦争」が何かが分からない、ということである。つまり、市場戦争とは、“占有率”戦争だということが、本当の意味で理解されていない。そのために、占有率確保戦術など、全くといっていいほど考えられていないのである。
<以上、まえがきより。以下、本文「天動説」解説部分より>
 毎年のようにあちこちからいただく手帳の表紙には必ずといっていいくらい、その会社の社名が金文字で印刷してある。それが一流企業ならいざ知らず、ネームバリューのない中小企業などでは、とても人前で使えるものではない。旅館の名入れタオルさえ、絶対に使わない、という人に会ったことがある。
 このような誤りをおかすのも、もとはといえば「自己本位」の人間なるがゆえである。この自己本位の考え方を「天動説」という。この天動説が、とことん販売を阻害するのである。
 だから、天動説を捨て相手の立場に立ち、顧客の立場に立って、物を考え行動すると恐ろしく目立つ。
 企業がこの考え方に立って行動すると、売上げは見る見る伸び、業績は急上昇するのである。
 相手の立場に立つ限り、市場においては業界の過当競争の中においてさえ、常に圧倒的な優位に立つことができるのである。

セキやんコメント: 不景気な時こそ、二極化が進む。それは、限界事業者は淘汰され、業界トップ企業に顧客の関心が向かうという“占有率の原則”の作用だ。さらに、業績の思わしくない社長は「どこか他に、打開策はないか」と右往左往する。一方、堅実な業績の社長は「今のお客様に、もっとご満足してもらうには」という視点を忘れない。つまり、天動説に陥り、現実を直視せずやることもやらずに成果探しに躍起となる経営者と、しっかりと顧客の反応を直視して即応する経営者では、はなから勝負はついている。その証拠に、小生の周りには、「大きな声では言えないが、今期も増益です」と率直に(ただし、小さな声で)報告してくれる経営者が少なくない。こうした優良経営者は、決まって虚心坦懐なハートと的確な助言者を持っている。

「経営の腑」第10号<通算 第325号>(2010年10月29日)

分掌主義の誤り  一倉定著「内部体勢の確立」(社長学シリーズ第6巻)より引用
 伝統的な組織論は、「職能にもとづいて分担を決める」という考え方をしている。
 平たくいえば、ある特定の技能を要する仕事を集めて部門をつくり、部門単位の活動を行わせようということである。
 このような仕事の分担のさせ方を、“分掌主義”という。
 この考え方から、“職務分掌規定”をつくって、この規定にもとづいて仕事をさせようというのである。
 この考え方は、極めて合理的に見えるが、実は事業を経営する上に重大な欠陥をもっているのである。
 笑い話を紹介しよう。
<中略:F社の分掌規定導入による検査課長と倉庫課のあつれきの例>
 規定というものは、「規定を守る」という大義名分が生まれると同時に、守る側には「規定にないから」という大義名分が生まれるものなのである。そのために、当然やらなければならない仕事をやらないということになってしまうのである。
 職務分掌規定の考え方には、二つの大きな誤りがある。
 一つは、部門別の仕事を規定化しようとしていることである。こんなことはできる筈がないのにやろうとするから、バカげた混乱が生まれるのである。
 もう一つは、一つ一つのセクションについて、そのセクションだけの仕事しか考えていないところにある。会社の中の仕事というものは、必ず他の部門との関連があるのだ。この関連を忘れてしまっているところにある。
 個々のセクションが上からの指令にもとづいて仕事をしていることは、まぎれもない事実である。だからといって、上からの指令だけで仕事ができるわけではない。
 仕事というものは、違った部門から部門へと横に流れてゆくものである。営業部門で受注した仕事は、製造部門で作られて営業部門へ返り、最後には経理部門の処理が必要である。
<中略>
 だから会社の仕事というものは、個々のセクションの仕事がうまく行われることは大切であるが、それだけでうまくいくわけではない。仕事の流れが悪ければ、せっかくの個々のセクションの効果が帳消しになってしまうのである。
 事実、会社の中の仕事というものは、このセクションとセクションとの間で、仕事の流れが停滞してしまう場合が多いのである。これが、「うちはどうも横の連絡がうまくとれないので…」というボヤキになってくるのである。この「仕事の流れ」こそ、日常業務をうまく処理する急所である、ということを、組織論者もマネジメント論者も全く無視している、というより知らないといったほうが本当である。

セキやんコメント: イスラエル出身のエリー・ゴールドラット博士の「ザ・ゴール」という小説は1980年代に書かれ、2001年に邦訳された途端ミリオンセラーとなった。それはTOC(Theory Of Constraints:制約条件の理論)と呼ばれ、全体最適を追求し、個々の改善を積み上げる部分最適化手法を否定している。つまり、多くの問題点や課題が散在するのが企業の実態だが、片っ端から問題を解決していくことが必ずしも利益に直結しないという理解である。一倉は、この世界的なベストセラー作家より以前からそれに気づき、実践していた。一倉は、これ以外にも本質的なアプローチから俗説・妄説を看破したこと数知れない。まさに慧眼である。

「経営の腑」最新号へ戻る



目次へ