Sekiyan's Notebook グローカルニュース~経営の腑

セキやん通信「経営の腑」


第71号“百害あって一利ない全部原価”<通算 第386号>(2013年3月1日)

第72号“会社の中に自由はない”<通算 第387号>(2013年3月15日)

第73号“数字から「現実」をつかみ出せ”<通算 第388号>(2013年3月29日)

第74号“衆知を集めるから、間違える”<通算 第389号>(2013年4月12日)

第75号“「見切り千両」はビジネスの鉄則”<通算 第390号>(2013年4月26日)

「経営の腑」第71号<通算 第386号>(2013年3月1日)

 百害あって一利ない全部原価 一倉定著「経営の思いがけないコツ」(社長学シリーズ第10巻)より
 いままで、ながながと全部原価の棚卸をしてきたが、まさに「百害あって一利なし」とは全部原価のためにできた言葉ではないかと思われるほどである。全部原価では、真実の姿がまったく分からなくなってしまうのである。
 しかし、いくら百害あって一利なしといっても、どうしてもこれを使わなくてはならない場合がある。
 それは「法律で決められた外部報告」の場合である。これ以外には絶対に使ってはならない。
 事業というものは、“単位当り”で考えるものではなく、“会社全体”で考えるものである。
 前向きに「どのような決定をするか」という意思決定に役立つ会計的資料こそ、われわれの求めるものである。それは、どんなものかを、次に述べることとする。

直接原価計算(ダイレクト・コスティング) --実は原価計算ではなくて、“収益計算”--

 事業経営に役立つ会計的資料の基礎をなすものが、この直接原価計算といわれるものである。
 この方式は、全部原価計算の矛盾に気がついた会計学者が考えだしたものか、誰が考え出したものか、私は知らないが、この計算法こそ正しいものである。
 計算法自体は正しいが、“原価”という言葉はおかしい。この計算法は、原価ではなくて、“収益計算”だからである。
 事業経営に必要な考え方は原価ではなくて収益である。
   売上-直接原価=収益
 という算式が成立するからである。
 だから、本書では、これ以降は直接原価計算の計算方式を使って、収益計算をするのだと思っていただきたい。
 では、直接原価計算とはどういうものなのか、その説明に入らせていただく。(例題の表=省略)
 例題の饅頭屋の直接原価計算では「売上が1カ月30万円、仕入が21万円だから、粗利益が9万円、総経費が6万円かかったから、利益は3万円」ということになり、実に素朴で、常識的で、誰にもスンナリと理解できる計算法である。
 一方、全部原価計算では、「売上が1カ月30万円、売上原価が27万円で、利益が3万円である」という意味である。この売上原価は、1個当たりの原価が9円であるから、3万個で27万円ということだが、この1個当たりの売上原価は、事業経営で発生した数字ではなくて、計算した数字である。
 誰にとっても、やさしくて納得のいく数字を、わざわざ割掛けというような、常識では考えられないまったく意味のない数字を使い、多くの人々を悩ませる必要があるのだろうか。こんなことに気がつかない“権威者”などは、いない方がいいのだ。ナンセンスも、ここに極まれり。
 こんな、事業経営に何の役にも立たない計算法など使わなければいいのだが、そうはいかない事情がある。それは、税務署が税金を増やすために、絶対に必要なものだからである。
 直接原価と全部原価の計算法の違いは、お分かりいただけたと思う。

セキやんコメント:  ここでの直接原価計算とは、変動損益計算のことである。そして、いわゆるスループット会計とも本質的に同義だ。この長所は、どんな費用でもそれを配賦する必要がないこと、そして会社の収益性に与える影響が容易に見通せるから、当然明確な意思決定がなされることになる。

「経営の腑」第72号<通算 第387号>(2013年3月15日)

 会社の中に自由はない 一倉定著「内部体勢の確立」(社長学シリーズ第6巻)より
 お客様は、相手の会社の内部事情を調べて、その事情に合わせて要求を出すのではない。相手の事情など一切考えず、自分の要求だけを一方的に押し付けてくるのだ。
 だから、お客様の要求と我社の事情が合う筈がない。しかし、「我社の都合でお客様の要求に応えられません」とは云えないのだ。云えばお客様は離れてゆくからだ。つまり、我社の都合を主張する自由を会社は持っていないのである。我社の事情がどうであれ、お客様の要求に合わせなければならないのだ。
 このことが分からない会社が世の中には多すぎる。製造部門の都合から生産計画をたて、営業部門を泣かせている会社は数多い。それは自らの首を自ら締めているという自殺行為であることを、社長は気がついていない。
 お客様の要求と食い違う我社の事情を、どうやってお客様の要求に合わせて変えてゆくかこそ、会社人の考えなければならないことなのだ。会社の中の、何がどうなっていようと、それらの事情は一切無視してお客様の要求を満たすのが会社の役目なのである。
 しかも、たくさんのお客様が、それぞれ自分だけの要求をぶつけてくるのである。これらの要求を満たすためには、社内が混乱するのが当然である。
 混乱せずにお客様の要求を満たすことなど、始めからできない相談なのである。混乱は、それがお客様の要求を満たすためである限り、絶対に避けてはいけないのである。
 それを、“混乱は悪”という考え方から、混乱を避けようとし、そのためにお客様の要求を無視して知らない間に我社の業績を落としている会社は数多いのである。
 K社で、試作用の原料を10キログラムほどA社に注文したところ、「200キログラムの梱包を崩すわけにはいかないから」と断ってきた。K社はやむを得ずS社に注文した。S社はこれに応えた。それが製品化された時に、S社は毎月数百万円の売上げを実現し、A社はこれを逃してしまったのである。
 これらのことは、明らかに社長が悪いのだ。お客様のところに行かないから、こうしたことが分からないのである。業績不振の原因は社長にある、といわれても仕方がないのだ。
 お客様の要求を満たす、ということは面倒臭いものであり、能率が悪く、経費がかかるものなのだ。このことを肝に銘じ、それらのことは一切無視して、ただただお客様の要求に応えることのみを考えて行動することである。
 これらのことは、やがてはお客様の大きな信頼となって我社に返ってくる。そして、永久に我社の収益を確保できるのである。
 個々のサービスの面倒臭さや非能率、社内手続きの都合などをたてにとって、お客様サービスを怠るようなことは、絶対にしてはならないのである。
 会社というものは、お客様の要求がすべてなのである。我社の自由など露ほどもないのだ。
 面倒臭く、能率が悪く、経費のかかるサービスを行なわなければならないのが会社というものである。それが、我社が激しい競争に打ち勝って生き残るための、只一つの道であることを、社長は何百回も何千回も社員に強調し、実践の指導をしなければならないのである。

セキやんコメント:  まずは、お客様の要求を満たすことに専念せよ、と一倉は指摘する。その上で、適正な報酬の確保も必要であるという教えも忘れてはならない。だから、商品や顧客別の収益性を一倉式賃率計算などを活用し、的確に評価するのだ。なぜなら、事業経営は部分最適ではなく全体最適なのだから…

「経営の腑」第73号<通算 第388号>(2013年3月29日)

 数字から「現実」をつかみ出せ 鈴木喬著「社長は少しバカがいい。」(WAVE出版)より
 経営とは数字だ。
 数字で考え、数字で語り、数字で結果が出る。徹頭徹尾、数字である。
 だから、社長は数字に強くなければならない。それは社長の最低限の条件と言ってもいいかもしれない。
(中略)
 まず第一に、数字が正しいかどうかをチェックする。分厚い営業報告書なんかも、バサバサと頁をめくりながら数字の動きを目で追う。僕は、数字をストーリーで読む。商品が売れ始めて、安定期を経て、少しずつ売上が落ちていく。時系列の動きを見ていると、そんなストーリーが浮かび上がってくる。ところが、突然、文脈に合わない数字が出てくることがある。たいてい、それは担当者のミスだ。
 もちろん、数字が正確なのは当たり前。仕事はそれからである。
 ところが、これができる人間が少ない。
 たとえば財務担当。細かいところまで気にして、きっちりと計算の合う財務諸表をつくり上げる。それで、「仕事をした」という顔をして社長のところにもってくる。
 そりゃ、正確な書類をつくるのは大事なことだ。だけど、本当の仕事はその先にある。でき上がった数字から「問題」を見つけ出して、改善策を提示する。あるいは、「何が問題か」を議論するための基礎資料をつくる。そこまでやれなきゃ、単なる「ソロバン屋」と変わらない。僕も、かつて部下を叱ったことがある。
 「お前、もうちょっとな、俺が怒鳴ったところの数字だけ出すんじゃなくて、怒鳴る前から“ここが問題だ”ってもってこれないのか?これじゃ、CFO(最高財務責任者)とは言えないよ」
 要するに、「報告」が仕事になっちまってるんだ。「財務会計」が頭から抜けないんだよ。税務署や証券取引所に報告するために、間違いのない書類をつくることが第一義になっているから、数字が読めない。いや、「読もう」とする動機がそもそもない。
 経営にとって大事なのは「管理会計」だ。経営状況を診断し、危機を察知し、対応策を考える。そのために、知恵を絞るのがCFOだ。彼らは、「報告」のためではなく、「考える」ために数字を扱っている。
 正しく計算できるから、数字に強いというわけではない。数字から「現実に起きていること」を読む力があることを、「数字が強い」というんだ。ここを勘違いしては、話にならない。
 そんなわけだから、社長自ら数字から「現実」を読まなければならない。
 いや、もしも、社内にCFOがいたとしたら、余計に社長自らチェックする必要があるだろう。なぜなら、「何が現実か?」を見極めることが、すべての判断の出発点にあるからだ。現実の見極めを誰かに完全に委ねるとは、社長がくだすべき判断を委ねるに等しい。それは、社長の実権を譲り渡すということにほかならない。
 CFOが読み説いた「現実」と、社長が読み説いた「現実」を戦わせることで、より精度高く「現実」を見極めることに意味があるのだ。

セキやんコメント:  エステーの鈴木喬CEOは、一倉氏が社長の3大怠慢の一つに挙げている「数字を読まない」愚かさを、本書「社長は少しバカがいい。」で極めて具体的に臨場感を持って述べている。一貫して小利口なゆでガエルどもが陥っている訳の分からない内部管理偏重主義を一刀両断していて、拍手喝采だ。偶然かどうか分からないが、一倉社長学をそのまま実践し高業績をあげている素晴らしい手本だ。是非ご一読を!

「経営の腑」第74号<通算 第389号>(2013年4月12日)

 衆知を集めるから、間違える 鈴木喬著「社長は少しバカがいい。」(WAVE出版)より
 商品の売上を決めるのはネーミングだ。だから、衆知を集めて……、となりがちだ。
 しかし、それが間違っている。
 かつて、エステーでも社員が集まって、ああだこうだと議論をしてネーミングを決める会議をやっていた。だから、誰の心にも響かない、無難なネーミングしか生まれない。
 なぜか?会議をやると、どうしても参加者のバランスを取ってしまうからだ。
 「あの人の意見を無視するわけにはいかない」、「あの人の顔も立てなければ」などと気をつかって、折衷案で議論を収めようとしてしまう。
 それに誰だって責任は負いたくない。「あの人が決めたネーミングで商品が売れなかった」と名指しされないために、予防線を張ろうとする。あるいは、他社の売れ筋商品のネーミングをもじったようなものにする。
 それでは、ナンバーワンの商品など生まれはしない。だから、この会議もやめた。
 ゼリー状の消臭剤を使った起死回生の新商品。エステーと僕の命運をかけた一大プロジェクトだ。これを皮切りに、消臭剤のブランドを築かなければならない。「こればかりは、社員に任せるわけにはいかん」と勝手に思い込んだ僕は、「社長である俺が名前を決める」と宣言した。それからは、四六時中考え続けた。
 「消臭」という言葉を使うことは決まっている。
 だいたい、3音節のネーミングがいいことはわかっている。シンプルで覚えやすいし、力強い。だから、「しょう・しゅう・○○」とか「○○・しょう・しゅう」とか、あれこれ言葉遊びをした。
 この商品のコンセプトは「かわいい」だから、ネーミングもかわいくないといけない。カタカナが入った方がいいかな?などと考えながら、とにかく数を出していった。夢の中で考えているときもあった。
 だけど、ひとりで考え続けていると行き詰ってくる。だから、しょっちゅう社員を連れて飲みに行った。そこで、大ボラを吹きまくるんだ。「この商品は絶対に売れるぜ」「俺は、この商品で天下を取る」とか言ってね。それで思いつくままにアイデアを口にする。
 「おい、いい名前を考えたぜ」「はぁ……」「迷惑そうな顔をするなよ。消臭ゼリーってのはどうだ?なんか、おいしそうでいいだろ?」「……、社長、食べ物じゃないですから、それはちょっと」「わかんねぇ野郎だな……じゃ、これはどうだ?」なんて、ハハハと笑いながら、掛けあい漫才みたいなふうにやる。だんだん調子に乗ってきて、それまで思い浮かばなかったようなネーミングも出るようになる。そのうち、酔っ払って何がなんだかわからなくなるが、あるとき突然出会う。
 次の朝、目覚めてみると、頭に残っているネーミングがある。「ん?これいいんじゃないか?」
 それで、何度も何度も、そのネーミングの感触を心で確かめる。そのうち、腹の底から「これだ!」と思えるものと出会える。それが、「消臭ポット」という名前だった。
 ホラを吹かなきゃ、アイデアは出ない。バカなことを言い合うからこそ、頭が柔らかくなる。そして、ふっとあるとき、自分でも思いも寄らないようなアイデアと出会える。「消臭力ショウシュウリキ」のネーミングも、居酒屋で社員を相手にホラを吹きまくっていたときにポンッとひらめいたのだ。

セキやんコメント:  一倉流に解説すれば、かつて近鉄の名経営者でワンマン社長といわれた佐伯勇の言葉「独裁すれども独断せず」を、鈴木会長は地で行って、確かな成果をあげているということだ。

「経営の腑」第75号<通算 第390号>(2013年4月26日)

 「見切り千両」はビジネスの鉄則 鈴木喬著「社長は少しバカがいい。」(WAVE出版)より
 ダメな事業はできるだけ早く撤退する――。
 その「見切り」が出来るかどうかで、社長の器が分かる。「見切り」が遅いと、撤退の代償は大きくなる。ヘタをすると命取りになることもある。
(中略)
 ところが、この「見切り」が難しい。
 「損」を認めると責任問題になるから、誰もなかなか言い出せない。「まだ大丈夫、まだ大丈夫」と粘ってしまう。ときには、「損」を取り戻そうと、無謀な追加投資をしてしまうことすらある。傷口は広がるばかりだ。
 しかし、すでに「損」が出ている事業から撤退するのは、まだ易しい。社長が腹をくくって、抵抗を排して撤退に踏み切ればいい。
 何より難しいのが「成功」を見切ることだ。
 実は、もっと恐ろしいのは「売れる商品」が生まれたときだ。
 どんなに売れる商品でも、いつかピークを過ぎて売れなくなる。そのタイミングを見計らって撤退することができれば最高だ。
 しかし、「勝ち逃げ」はできない。そう、思っていた方がいい。
 なぜなら、「勝ち切ろう」と思えば攻め続けなければならないからだ。日用雑貨の場合には、売るためには店頭に商品をヤマと積まなければならない。営業からは矢のような増産要請が来る。それに応えて、工場をフル稼働させる。
 ところが、未来は誰にもわからない。どんなキメの細かいマーケティングをやっても、未来のことはわからない。そして、あるときパタッと売れなくなる。急ブレーキをかけても、もう遅い。怒涛のごとく、大量の返品が押し寄せてくる。これで、潰れる会社が多い。
 だから、社長は「成功」に臆病なくらいでちょうどいい。「勝ち戦」だからといって深追いすると大怪我をする。はやる気持ちを抑えて、「撃ち方やめ」と号令できるのが、一流の社長だ。
(中略)
 人間には「欲」がある。だから、いくら「勝ち逃げはできない」と自分に言い聞かせていても、「欲」に目がくらんで判断を間違えてしまうのだ。
 なかなか、一流にはなれませんな。

 そういえば、上杉鷹山はこう言っている。
 働き一両、考え五両、見切り千両、無欲萬両。
 さすが、名君だと唸るばかりだ。

セキやんコメント:  この鈴木会長の記述から連想するのは、一倉の「優れた社長は、棄てることができる」という主張だ。その棄てる決断を支えるツールとして推奨し実績を残しているのが、ABC分析であり年計グラフである。そして、何より社長自らの顧客定期訪問がその裏付けだというのが、一倉理論の真髄である。

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