Sekiyan's Notebook グローカルニュース~経営の腑

セキやん通信「経営の腑」


第126号“社長の責任と社員の責任”<通算441号>(2015年4月10日)

第127号“集中の原理とは”<通算442号>(2015年4月24日)

第128号“穴熊社長”<通算443号>(2015年5月8日)

第129号“野望と先見の社長学「はじめに」より”<通算444号>(2015年5月22日)

第130号“何が社長の役割か”<通算445号>(2015年5月29日)

「経営の腑」第126号<通算441号>(2015年4月10日)

 社長の責任と社員の責任  一倉定著「新・社長の姿勢」(社長学シリーズ第9巻:1993年刊)より
 社長の責任は、結果に対する責任――つまり利益責任は社長ただ一人が負うものである。
 その実証は、会社がつぶれた時に誰が責任を追及されるか、であることは既に述べた通りである。
 その責任がワンマン決定権となってあらわれるのであることを認識しなければならない。
 ワンマン決定こそ正しい姿であり、これ以外にはないのである。例えば、よくある“合議制”というものは、責任のがれを美化したもの以外の何物でもないのである。責任者がはっきりしないからである。
 社員の責任は実施責任であって、結果に対する責任を負わせるのは誤りであるということも既に述べた通りである。
 だから、事業部制、独立採算制、部門利益責任制など、すべて誤っている。本来社長だけの責任である利益責任を社員に負わせるという誤りである。この誤りが、必然的に当事者に誤った行動をとらせ、会社を危うくし、社員の人間性まで破壊してしまうのである。
 社員の責任は、あくまでも会社の方針、指令などの実施責任であって、追及されるのは不実施の責任である。社員に結果――利益責任はないことを、社長は知らなければならない。このことは、いくら繰り返し強調しても、足りないほど大切である。
 利益責任は社長ただ一人が負い、実施責任はあくまでも社員であるという正しい認識こそ大切なのである。
 そして、一番苦しいのは社長なのである。

  いい会社とか悪い会社とかはない、あるのはいい社長と悪い社長である。

セキやんコメント:  一倉氏は、「社長のミスは社員の責任、補佐が悪い。社員のミスは社員の責任、やり方が悪い」という大組織の風潮を徹底的に糾弾する。そして、自らの「社員のミスはすべて社長の責任。指導が悪いからだ」という考えを徹底して主張する。社長の決然とした姿勢が大事だということだ。

「経営の腑」第127号<通算442号>(2015年4月24日)

 集中の原理とは  一倉定著「新・社長の姿勢」(社長学シリーズ第1巻:1975年刊)より
 市場の大きさというものは、企業規模にくらべたら、べら棒に大きいのだ。
 べら棒に大きな市場の中のお客様の要求は、ほとんど無限といっていい。
 ほとんど無限という市場の要求を、全部満たすことなど、どんなマンモス企業といえども、初めから全く不可能なのだ。ましてや中小企業においてをやである。
 市場のすべての要求を満たそうとすると、市場のすべての要求を満たせなくなるのだ。
 むろん、企業、特に中小企業が、全市場を対象に考えているわけではないが、考えている市場は、企業規模に比較して甚だしく大きい。結果においては、市場の要求を全く満たせなくなることに変わりはないのである。というのは、大きすぎる市場を対象にするために、商品の層が全く薄くなってしまうからである。
 商品の層が薄いと、お客様はその中から好みの品を選択する余地がなくなってしまう。
 たとえば、洋服タンスを買いたいといっても、2品か3品しかなかったら、好きなものを選ぶのに困惑してしまう。20品も30品も見比べて、はじめて選択できるのだ。お客様は、見比べてから選ぶ、という買い方をするのだ。お客様がどんな買い方をするのかを知らずに商売ができる筈がないではないか。
 お客様は、見比べてから買うのであるから、見比べられるだけの多様の商品を揃えなければならない。当然のこととして、商品の間口を絞り、その中で多様化を図るより他に方法はないのである。
 ということは、企業規模が小さいほど、売場面積が小さいほど、商品の間口を絞らなければならないことを意味している。
 スーパーに例をとれば、小型店は食料品だけに絞って、多様な商品をおいている。小型店でも、食料品だけに限ってみれば、大型店より甚だしく劣るということはない。ここに小型店の生きる道があるのだ。売場面積が十分の一しかないのに十倍の店と同じ品種を揃えたら、一つ一つの品種は十分の一しかおけず、デザイン、サイズなど多様化はできない。これでは大型店と太刀打ちなどできる筈がない。
 売場面積が十分の一の小型店は、大型店の十分の一に品種を絞れば、一品種あたりは大型店と互角になる。もしも二十分の一に絞れば、一品種あたりは大型店の二倍の規模になって、特色を発揮できるのである。いわゆる、“専門化”である。この典型は、大阪の心斎橋筋にある「F社」という売場面積4~5坪のアクセサリー専門店である。私はこの店を称して、同じ心斎橋筋にある「大丸」デパートの五十倍の超大型店という表現をとる。そのわけは、金色のくさりである。大丸では、せいぜい2~30本しかおいてないが、F社では数百本くらいある感じだ。その金色のくさりの前には、いつ見ても5人や7人のお客様がいて、盛んにあさっているのである。
 F社は金色くさり以外の商品についても、全く同じ品揃えの方針で、私が感心している店の一つだ。

セキやんコメント:  集中の原理は、一倉氏の市場戦略の基本「小さな市場で大きな占有率」の根拠である。これがとりもなおさず、われらが中小企業にとって、優良企業となる王道でもある。

「経営の腑」第128号<通算443号>(2015年5月8日)

 穴熊社長  一倉定著「経営の思いがけないコツ」(社長学シリーズ第10巻:1997年刊)より
 コンサルタント家業30数年間、私はたくさんの社長さん方にお目にかかっている。
 それらの社長さん方で、定期的にお客様を訪問している人は極めて少ない。
 会社に出勤しても、そのほとんどの時間を社内で過ごす。この人々を、私は“穴熊社長”と呼んでいる。
 穴熊は、穴の出入口から見える外部の景色しか知らない。まったくの世間知らずである。世間知らずに正しい経営が出来るはずがない、前項にあげたM社長は、そのうちのごく一部の良い方の例である。
 多くの社長さん方は、自らの定位置を社長室だと思いこんでいる。
 時々社内を見回っては、社員の仕事ぶりを見ている。一生懸命に働いている社長の目から見ると、欠点ばかり目に映る。これを、社長は我慢できない。そして小言をいう。来る日も来る日も、これを繰り返している。そして、それが社長として最も大切な仕事と思いこんでしまう。お客様のことなど、「遠い他国のことだ」と言わんばかりである。
 なぜ、このようなことになってしまうのだろうか。その理由は簡単、誰も社長の役割など教える人はいないからである。
 それでも、勉強家の社長は、“経営書”に目を通す。そこに書いてあることは、100%会社の内部に関することばかりである。そのために、社長は会社の内部を管理することが経営だと思い込んでしまうのである。
 経営書と称するものの大部分は、事業経営の経験のない人が書いたものである。当然のこととして、内部管理以外には何も知らないのである。
 かつての私自身がそうであった。しかし、既に述べたように、私は、まだ社員の時にトーハツの倒産という大事件に巻き込まれ、これによって開眼した。その意味において、トーハツの下請企業での経験こそ、私にとって貴重この上ない経験だったのである。
 以上のような意味合いで、会社の大ピンチや倒産の経験を持たない社長は免疫がない。これは、望んで得られるものではないが、会社倒産の記事が、経営誌には意外に多い。こうしたものは何回も読み返して考えていただきたいと思う。(中略)
 私の主宰する“経営計画実習ゼミ”では、初心者は、先輩とのあまりにも大きな落差に大ショックを受ける。
 初心者の社長と先輩社長との最も大きな違いは、一つは、お客様訪問回数であり、もう一つは、その素晴らしい自信と柔軟な頭脳である。しかも、初心者の面倒を実によく見てくれる。最も多く聞かれる言葉は“お客様”なのである。
 企業の経済的成果はお客様から、そしてお客様だけから得られるのである。
 いくら内部を整備し、人間関係をよくしても、そこからは“一文”の収益も生まれてはこないのである。

セキやんコメント:  「卵か鶏か」の議論があるが、経営では顧客や商品に対する社長の差配による業績向上がすべてに優先する。業績が良くなれば、社内のつまらないイザコザなどどうでもよくなるのが社員心理なのだ。また、相性自体がとことん悪いのは、人の感情の問題で組織の問題ではないと割り切ることだ。

「経営の腑」第129号<通算444号>(2015年5月22日)

 野望と先見の社長学  佐藤誠一著「野望と先見の社長学」(1994年刊)“はじめに”より
 夢や野望という形のないものを、どういう方法で経営計画の中に組み入れるか。実は多くの社長が、自分の野望の計画化ノウハウをご存じないために、いたずらに号令をかけたり気をもむばかりで、なかなか良い手が打てずにいる。
 その方法を一口で言うと、野望を数字におきかえることである。
 経営に限らず、この世の中は「数字の約束ごと」がつきものなのだ。数字だから見える、読める、ということがある。数値にしてみてはじめて、社長の欲をコントロール出来る手掛かりがつかめる。社長の野望という形のないものを、数字におきかえる過程で、数字は「経営の生きた知恵」となり、社長の野望はいつしか洗練されて「先見の明」となるのだ。
 逆のことも言えよう。
 会社の数字は、社長の意図・方針を明確に反映していなければならない。
 たまたま帳簿にいくらよい数字が並んでいたとしても、それが社長の考え方を明確に数値化した結果でなければ、先見の明にはつながらないということである。偶然よかったということで、状況が変化すれば、またまた夜も寝つけないことになる。
 このごろ、「日本経済は一大転換期を迎えて先の見通しがつかない時代だ」とマスコミも専門家も口を揃えて言う。
 わたしは学者じゃないので難しい理屈はよく分からない。しかし10年前も20年前も30年前も、日本は一大転換期を迎えていたような気がする。マスコミは「大変な時代となった」と当時も騒ぎ、事業家はいやおうなしの対応をせまられてきた。
 考えてみれば、経済の仕組みは生き物そのもので、常に変わっており、その変化に対応しながら、事業を続けていくことが社長の宿命なのである。見えない未来をなんとしてでも見極めて、決断して手を打つことが社長の仕事なのだ。目先の変化にいちいち驚いてオタオタしていては務まらない。泣き言をいってられない、言い訳無用の仕事である。
 社長業は、厳しくて難しい仕事だが、しかし、これほどやり甲斐のあるわくわくする仕事もないのではないか。目を吊り上げていつもハラハラしながら経営を続けるのか、生まれ変わっても社長人生を選ぶほどに生き甲斐のある経営を続けるのかは、一に長期計画を持つか持たぬかに、かかっているのだ。
 社員6名、掘っ建て小屋の工場で事業をスタートして以来、「零細企業の分際で」と笑われながら、町工場の時代から10年計画を立て続けて、おかげさまでどうにか一部上場企業に育った。一方、小売、卸、建設などさまざまな業種の若手経営者に長期計画を指導してきて、その中から上場企業規模の優良会社が輩出してきた。不遜を覚悟で言わせてもらえば、わたしの長期計画のノウハウは、経理や会計の専門家にではなく、現役の社長にとって、優れて実践的なものと自負している。

セキやんコメント:  一代で一部上場企業入りを果たしたスター精密を率いた故佐藤誠一氏は、一倉定氏とも大いに交流を持っていた。その名著の「はじめに」からの引用だ。この書は、誠に実践的な知恵に溢れており、脱帽そして感銘の領域にある。今号からしばらく、この著書からの引用を続けることにする。

「経営の腑」第130号<通算445号>(2015年5月29日)

 何が社長の役割か  佐藤誠一著「野望と先見の社長学」(1994年刊)より
 ズバリ申しあげて、社員に尊敬されていない社長ほど惨めな存在はない。
 部下に号令をかけても面従腹背、さっぱり意にそった動きにならない。絶えずどこかでカゲ口を言われているようで、自分の会社なのに居心地が悪い。社長自身は「こんなに一生懸命に事業をやっているのに、社員はなぜ分かってくれないのか」と悩み、毎日毎日つらいつらい社長業を続けなければならない。
 しかし、どうして尊敬されないのか、理由は簡単なことである。
 その社長が、社長としての役割を、社員に対して全く果たしてないからである。
 たとえば、社長の報酬が会社の利益より高い会社がある。
 社長報酬が2000万円で、会社の利益が1000万円、というような会社である。実際のところ、このような例は案外多いようである。しかし、多くの社員に安月給で我慢してもらい、関係者に無理を言って、ようやくあげた利益より、社長一人の取り分の方が多くて当然、というのは何かおかしい、変だ、と感じないのでは困る。社長として恥ずかしいことだ、と考えるべきではないだろうか。
 このように考えてみると、社長は、企業経営に関わるすべてに、その役割をきっちり果たさなければならないのである。会社が日本にあれば、日本という国に対しての役割、事業をしている地域に対しての役割、販売店・金融機関・外注などの協力会社に対しての役割、社員に対しての役割、株主に対しての役割などのそれぞれの役割を果たしてこそ、社長は偉い存在となるのだ。
 念のために申し上げるが、ここで偉いとか、立派といっても、社長の体面、格好のつけ方について述べているのではない。大事なことは、社長に課せられたこのような役割を果たすことが、自らの成功人生につながる、ということなのである。
 言い換えれば、社長の役割意識に欠けた経営は、つかの間の繁栄はあっても、長い繁栄とはなりにくい、ということである。
 事業の目先の採算に気をとられ、なんぼ儲かったか損したかだけで明け暮れてしまう社長が少なくないように思える。もちろん、これもまた事業経営のひとつのあり方には違いないし、創業時代には、目先の採算なくして事業の継続が考えられないのも確かだ。
 しかし、もしわが社を、3年先に今よりもっと素晴らしい会社に、5年先、10年先にはさらに内容の濃いよいものに育てたいと願うなら、社長の役割意識というものを大事に大事に考えて、正面から受け止めてもらいたいのである。
 社長業を一生の仕事として選んだ以上、
 社長の役割意識は、
 「何のために会社を経営するのか」
 「だれのために儲けるのか」
 その根本のいきかたを決定するものであることを、まず心の底に刻んでおいてほしい。

セキやんコメント:  会社の使命、そして社長の使命はなにか、という根源的な問いに対して真正面から出したこたえだ。氏の執念にも似た経営への真摯な思いが溢れ、独特の付加価値配分経営へとつながる。

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