Sekiyan's Notebook グローカルニュース〜経営の腑

セキやん通信「経営の腑」


第191号“信念より執念をもて”<通算506号>(2016年7月29日)

第192号“セールスマンの生態を知れ”<通算507号>(2016年8月12日)

第193号“成果は顧客によって得られる”<通算508号>(2016年8月26日)

第194号“製造マニュアルのポイント”<通算509号>(2016年9月9日)

第195号“利益の本質は“事業存続費””<通算510号>(2016年9月23日)

「経営の腑」第191号<通算506号>(2016年7月29日)

 信念より執念をもて  佐藤誠一著「野望と先見の社長学」(1994年刊)より
 わたしは「信念」という言葉よりも「執念」という言葉の方を大事にしている。
 広辞苑によると、信念とは「ある教理や思想などを固く信じて動かない心」、執念は「思い込んで動かぬ一念、執着して離れぬ心」とある。日本人は、どちらかというと信念という言葉は好きだが、執念という言葉は、執念深いというように否定的に使うようだ。
 たしかに信念はきれいな言葉である。信念をもつことは決して悪いことではない。しかしわたしに言わせれば、信念は変わるものだ。自分が尊敬している人や偉い人から説得されると変わってしまうものである。
 ところが、執念というのはお化けになっても変えない、変わらないものなのだ。
 企業経営には、たとえお化けになってもやり遂げるという、どろどろした執念こそ大事なのである。信念ではきれいすぎて頼りない。
 わたしは経営会議の席上で幹部に対して、「何がなんでもこの目標は達成してもらいたい。泥棒してでも詐欺をやってでも達成するんだ。警察には俺が行く」と言ったことがある。同席していた真面目な監査役がびっくりして、「社長、いくらなんでも経営会議で泥棒でも詐欺でもやれ、とはあんまりだ」と、言葉どおりに受け取って、真顔のクレームである。しかし長年わたしと仕事を共にしてきた幹部は、「これは社長本気だな、どんなことがあっても達成しなければ」と感じとってくれたのだ。信念程度では、泥棒、詐欺は口にできない。理屈もはるか及ばない執念というものが社長には必要なのだ。
 ただし、執念だけでは危ない。矛盾したことを同時に頭にいれて、しかも矛盾を感じない、これと執念の二つの組み合わせができないと、ただの頑固者となりかねない。
 この二つの組み合わせに長けること、すなわち、一方で思い込んだら一念、あらゆる妥協を許さずやり抜く心と、柔軟な対応でここは引く、休んだ後にまた進むということも同時にできることが大事だ。これは口で言うほど簡単ではない。しかし社長には、このような老練でしたたかな対応もまた必須のものである。
 社長が執念を燃やしつづけ、しかも老練な対応ができるには、社長の溢れるような野望を究極のひとつに絞り込むことではないかと思う。
 大欲のために小欲を捨てるということである。あれもこれもやりたい、社長の抱く幅の広い、奥の深い野望(ロマンでも夢でも言い方は違うが同じものだ)の中から、絞りに絞って、これひとつ達成できたら本望だ、というものを自分で整理してつかむことである。
 長期計画を立て、実践するプロセスは、社長の漠然とした野望の絞り込みでもあるのだ。そして一段と次元の高い野望に絞り込んだとき、社長は前にも増してしたたかに成長する。そうなれば他の望みは人に譲れるのだ。他は柔軟に対応し、譲るべきは譲っても、しかしこの一点は何がなんでもやり抜くという本当の執念も生まれてくるように思うのである。
 悔いのない社長人生を送るには、このような考えが案外大事ではないかと、日ごろから心がけているわけである。

セキやんコメント:  佐藤誠一社長は、自らの事業をゼロから上場企業に成長させた、まぎれもない立志伝中の人である。ここで主張されるように、スマートな信念というより、執念という泥臭さが必要だというのも納得だ。ものごとを「やる」では足りない、「やり切る」レベルでなければ成功に至らない、というのが実感だ。

 <本191号にて、佐藤誠一著「野望と先見の社長学」からの引用はいったん終了します。次号からは再び一倉定「社長学」からの抜粋です>

「経営の腑」第192号<通算507号>(2016年8月12日)

 セールスマンの生態を知れ  一倉定著「市場戦略・市場戦争」(社長学シリーズ第8巻:1985年刊)より
 セールスマンというものは、得意先の重要度も売上高もあまり関係なく、万遍なく訪問しようとする習性をもっているものなのである。
 次いでB社とC社を見よう。何とA社と全く同じパターンで訪問を行っていることがお分かりいただけると思う。このことは、業種・業態・規模の相違があっても、そんなことは関係なしに全く同じ行動をとるものであるということを我々に示しているのである。そして、その効率の悪さは目を覆いたくなるほどである。
 一日当たりの訪問回数は社長の期待よりも遥かに少なく、その少ない訪問回数で、効率の悪い訪問をしているのである。これが紛れもなく日本中のすべての無方針、無指導会社のセールスマンの行動様式である。
 「餅は餅屋に任せる」という考え方がいかに間違っているかお分かりいただけたと思う。
 セールスマンこそ、会社の中の人的資源の最大のムダである、と私が主張するのはこのような実態を見せつけられるからである。これはセールスマンが悪いのではない。無方針、無指導の社長こそ全責任を負うべき大問題なのである。
 喰うか喰われるかの販売戦争において、こんなことでどうして勝利を収めることができよう。
 ここで考えていただきたいのは、こんな非効率極まる行動をとっていても、現在の売上を実現しているという現実である。だから、このセールスマンを有効に使ったら、大きな売上増大を期待することができる、ということである。
 私の経験では、一人一日当たりの訪問回数は少なくともこの3〜5倍は可能である。私のぶつかった最高は1日25社、1カ月540社という個人記録がある。1カ月2百社以上なんか珍しくとも何ともない。いや2百社ではむしろ少ない方だというのが優れた会社の実績である。
 このような訪問回数を実現すれば、そしてその回数を有効に利用すれば、業績の向上は間違いなく実現する。
 それには、社長自らの意思で樹立した市場戦略に基づく計画的訪問の実施である。セールスマンの自由意思に基づく訪問は長篠の戦いにおける武田勝頼軍であり、計画的訪問はまさに信長の鉄砲隊である。
 信長の鉄砲隊――それはまさしく近代的市場戦略の象徴である。そして、それはセールスマンの計画訪問であることを、社長は肝に銘じてもらいたいのである。相手は勝頼軍のような個人プレーのセールスマンであるならば、戦いの帰趨は自ら明らかなのである。

セキやんコメント:  指摘の通り「営業部隊に任せる」というのは、単なる放任だ。任せられて成果が出せるような営業マンであれば、とっくの昔に独立して好業績の会社の社長になっているからだ。普通の営業マンで成果を出す唯一の方法は、全社的なコンセンサスのもとでの忠実な訪問実行なのである。

「経営の腑」第193号<通算508号>(2016年8月26日)

 成果は顧客によって得られる  一倉定著「販売戦略・市場戦略」(社長学シリーズ第3巻:1977年刊)より
 T県のI食品から、赤字で困っているから診てくれという依頼があった。
 赤字ときくと、居たたまれないような気がする私は、全く損な性分だと自分でも思う。僅かな日程を都合してお伺いした。空港に出迎えてくれたI社長は、会社への車の中で私に「工場長がたるんでいて困るから教育して下さい」という。
 私は、社長が社員に対する要求にふれると、すぐにやっつける。「社長が社員に対してあれこれ要求する前に、社長としてやるべきことをやれ」と。
 I食品の主力商品は、創業者である現会長が戦前に開発したもので、かつてはよく売れた。しかし、最近は古い固定客だけしか売れず、それも次第に落ちてきている。現在は操業度60%だというのである。
 工場が閑では、工場長がたるんでいるのは当たり前である。張り切っても意味はないのだ。「あなたの会社で、いま一番大切なのは売上を伸ばすことだ。注文が沢山あれば工場長は黙っていても張り切らざるを得なくなる。社長が先頭に立って営業活動をせよ」と勧告した。何とも当たり前のことである。
 ところが、それができないというのである。I社長が営業に出ると、会長から「社長が工場を留守にしてホッツキ歩くとは何事か。営業は社員に任せて工場を守れ」とやられるというのである。
 会長が社長をしていた戦前は、確かに良いものを作ってさえいればお客の方から買いに来た。つまり、“売手市場”だったのだ。しかし戦後は完全な“買手市場”となり、買いに来てくれるお客様などないのに、会長はそれに全く気がついていないのである。
 これではどうにもならない。私は社長に、会長の意に背いても、自ら販路開拓をしなければ会社をつぶれてしまうと説いた。社長として最も大切な行動は、会社を存続させるためのものであり、現在のピンチに際しては、その行動とは、販売促進と販路開拓が緊急事だからである。
 ついては、会長を説得すればなおいいと思い、会長にお目にかかりたいというと、今日は親戚に法事が有って留守だという。留守では致し方ないので、くれぐれも社長自らの販売促進と販路開拓が最重要事であることを強調すると共に、その結果を知らせてほしい、外部の情報が皆無に近いのでは具体的にどうしたらいいか分からないからだ、とよくよく頼んで辞去した。
 その後、連絡を待ったが、案の定何もなかった。しばらくして入った情報は、会社を売ったということである。私がお伺いした時に、すでにどうにもならないところまで追い込まれていたのである。不渡りを出さずに済ますことができたのが、せめてもの救いであった。

セキやんコメント:  事業は「顧客あってのこと」なのに、古き良き時代の成功体験を変えようとしない先代に後継社長が振り回されるケースが少なくない。社長が、市場やお客様ではなく社内のドンを見ることで、経営の本質(市場や顧客)からずれるのだ。その結果、間違いなく業績は下り坂ということになる。

「経営の腑」第194号<通算509号>(2016年9月9日)

 製造マニュアルのポイント  一倉定著「内部体勢の確立」(社長学シリーズ第6巻:1982年刊)より
 製造業では、マニュアルの中に明示しなければならない大切なことがある。それは、「わが社の商品の品質を維持するための最も基本的な条件は、設計と原材料の安定である」ということだ。
 社員の関心は常にコストを安くすることである。そのために、少しでも安い設計、少しでも安い原材料、より安い外注費を実現するために努力している。
 そのこと自体は決して悪いことではない。いな、むしろ喜ばしいことである。ところが、この考え方は、逆に品質を落とす行動を不用意にとってしまう危険が伏在するのである。
 ある洋菓子のメーカーで、バターが油分かれして大きなクレームがついたことがある。調べてみると、仕入係が安いフレッシュバターを売り込みに来た取引のない会社のセールスマンから、安いという理由でこれを買い入れたのである。このバターがフレッシュバターではなく、マーガリンを混入したものだったのである。
 このようなことが、いつ何時起るか分かったものではないのだ。こういうことを未然に防ぐための方策はどうしたらよいのだろうか。
 そのためには、「設計変更、材質の変更、加工法の変更、製造元・外注先・仕入先などを変える場合には、必ず社長の事前決済を要する」という基本方針を明確に打ち出すことである。
 もしも変更したい時には、事前に十分な、しかも慎重の上にも慎重なテーブルテストと実地試験を行った後でなければ、絶対に変えてはいけないのである。特に、経年変化や寿命というものは、それだけの期間をかけるか、これの代わりとして劣化試験、虐待試験などにぬかりがあってはならないのだ。
 これこそ、社長がお客様に対する責任として、必ず行われなければならないことなのである。

セキやんコメント:  これは、変化点管理の重要性を説いたものだ。かつて本田宗一郎が「120%の良品」と表現したことがあるが、これは理論的には間違いかも知れないが、それぐらいの気持ちで品質に対する責任を全うするというメーカーとしての矜持のあらわれだろう。

「経営の腑」第195号<通算510号>(2016年9月23日)

 利益の本質は“事業存続費”  一倉定著「経営計画・資金運用」(社長学シリーズ第2巻:1976年刊)より
 「会社の存続」という至上命令を果たすために、絶対に必要なものが利益なのである
 事業を継続してゆくことは容易なことではない。いろいろな危険が、あとからあとからと襲いかかってくるからである。過当競争、不況、陳腐化、資源不足、天災地変などなど…。
 それらの危険に直面した時に、もしも利益がなかったら、たちまちのうちに赤字転落から倒産の道を辿らなければならないのである。利益あってこそ、これらの危険に耐え、時をかせいで、事業の再整備が可能になるのだ。
 こう考えてくると、会社にとって、もはや“儲け”なるものは存在しないのである。利益というのは、明らかに事業を破綻から救う保険の役割をはたすものである。この意味で、利益の本質は明らかに“事業存続費”である。
 経済学上の利潤や、会計学上の利益があることは事実である。しかし、こと事業経営についていえば、“利益”なるものはない、ということなのである。
 利益というものが、事業存続費であるならば、多いに越したことはないことはいうまでもない。けれども現実の問題として考える時には、「最小限、ギリギリのところ、いくらの利益がなくてはならないか」ということになる。これは、例えば火災保険というものは、万一火災に遭った時の備えであるから、多いに越したことはないけれども、「最小限、いくらの保険が必要か」と考えるのと全く同じなのである。
 社長の関心のまず第一は、事業を存続させるために必要な“最小限利益”でなければならない。「事業は利益が最大になるように行動する」という経済学の理論は、あくまでも経済学のことであって、経営学の理論ではないのである。
 というのは、理論云々ではなく、現実の経営に最大限利益という考え方を導入することは明らかに間違いなのである。何故かというと、企業のあげられる最大限利益は、企業が必要とする最小限利益よりも遥かに少ない、というのが厳しい現実のすがただからである。「できるだけ利益をあげるように頑張ってみたが、これしか利益がでなかった」では済まされないことを心得ていなければならないのである。これは、「できるだけ頑張ったけれど、会社はつぶれてしまった」では済まないことを考えてみたら、お分かりいただけると思う。

セキやんコメント:  利益を事業存続費と捉える考え方は、事業で獲得する付加価値をどう分配するかという付加価値配分経営に通じる。こうした考えを持つことで、経営計画立案の時から分配イメージを持つことになり、計画経営実践の頼もしい原動力にもなるのだ。

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