「経営の腑」第196号<通算511号>(2016年10月7日)
新商品の売上目標設定 一倉定著「増収増益戦略」(社長学シリーズ第5巻:1979年刊)より
セールスマン一人当たりの売上高にこだわる、もう一つの誤りは、“新商品”の販売である。新商品というものは、始めはなかなか売れるものではないのだ。というのは、「このような商品が生まれました。特色はこれこれで、価格はこれこれです」ということを、いちいちお客様に説明しなくてはならないからであり、説明を聞いたお客様は直ちに買ってくれないからだ。お客様にしたら、使ったことのない品物を、セールスマンの説明だけでとびつくほど甘くはないのである。他社で使った実績を調べたり、自らある期間試用してみるとかするのである。
だから新商品の販売には、ねばりと根気がいる。その努力は、少しずつ報われて徐々に売上が伸びてゆくものなのだ。ある点まで売上が伸びると、伸び率が高くなって“成長期”に入る。成長期までの期間を“発生期”というが、発生期にセールスマンの一人当たりの売上高など云々していたら、育つ商品も育たないのだ。
新商品の売上は、始めのうちは売上の伸び率で判断を下すものであって、売上の絶対額で判断するものではないことを知らなければならないのである。
新商品の売上を短期間に増大する方策は、その商品の売上高がある程度――ねらった地域の占有率が10%と思えばよい。というのは、この占有率が限界商品から抜け出す点だからである――に達するまでは、セールスマン一人当たりの売上高を低い水準に押さえるということである。それはおおむねセールスマンの人件費の2倍の付加価値を得る売上高である。これだけの売上だと、セールスマンの人件費と販売管理費を賄えるので、会社としては食い込みにならず、続けることによる会社の負担がないので、安心して販売活動を展開できるからである。
新商品の売上高がしだいに上がっていくと、やがて、一人当たりの売上高が、上にあげた水準以上になる。これをもとの水準に抑えるためには、セールスマンを増員しなければならない。つまり、増員による販売力強化ができるのである。これが売上増大につながっていくのである。
このように、セールスマン一人当たりの売上が人件費の2倍を超えるたびに増員を行ない、これが販売力増強となるという繰り返しによって、占有率をさらに高めるのである。
占有率が10%を超えた時点からは、増員のスピードをゆるめて、一人当たり売上高の増大を実現し、利益をあげるのである。これが最も短期間に新商品を育てる秘訣なのである。
発売の初期から一人当たり売上高を気にしていたら、いつまでたっても売上の増大と、それによる利益の増大は期待できないのである。
セキやんコメント: ここでは述べられていないが、新商品の販売については、その商品専従で当たらせることも忘れてはならない。兼任で対応するということは、セールスマン本人からすれば、「不慣れな新商品より、慣れた既存品を売る」というのが実態だからだ。少数でも“専従”が大事なのである。
「経営の腑」第197号<通算512号>(2016年10月21日)
社長は決定を下す人である 一倉定著「社長の条件」(社長学シリーズ第7巻:1978年刊)より
世はまさに低成長時代である。消費の世界も本当に欲しいものを吟味して買う「厳しい選別の時代」であり、企業の世界は「戦国時代」である。「選別消費・企業戦国」これが現代の世相である。企業は。この厳しい戦国に生き残らなければならない。そのためには絶えず前進し、止まることは許されないのだ。
止まれば、たちまちのうちに製品は陳腐化し、販路は荒らされ、お得意は奪われてゆく。絶え間ない革新・未知の世界への挑戦という、積極経営のみが、会社を存続させ、発展させる道である。
経営者は勇敢に、潜在する可能性に取り組んでいかなければならない。危険を恐れてはいけない。汎庸な経営者は。危険を理由にして革新を避けようとする。それが革新的であればあるほど、危険も大きい。危険を伴わない決定など、会社の将来に、たいした影響のない、次元の低い決定である。
革新的な決定は。危険だけでなく、同時に社内の抵抗や批判も多いのだ。部下が悲鳴をあげたり、尻込みするような決定でなければ、すぐれた決定とはいえないのだ。、決定は、その次元が高くなるほど、下部のものの意見を取り入れることは避けなければならなない。経営は民主主義ではない。民主主義をとったら、その会社は十中八九つぶれる。多数決は衆愚につながるからだ。(中略)
経営者の行なう決定は、危険だけを伴うのではない。すべての人が喜ぶ決定もまた現実にはないのである。当然そこにあるのは、いろいろな反対を押し切るという、苦しい決定であるし、その苦しさは、反対を押し切られた側よりも、経営者の方がはるかに大きいといえよう。その苦しさに耐えなければならないのが、経営者の宿命なのである。
決定で最も積極性を要し、むずかしいのは「捨て去る」という決定である。陳腐化した製品を捨て、魅力の薄れたサービスを捨て、そして何よりもたいせつなのは既成概念を捨てることである。
次に、決定でたいせつなのはタイミングである。客観情勢は容赦なく変わっていく、グズグズしていると時期を失してしまう。決定は巧遅より拙速の方がたいせつな場合が多いのだ。速やかに行動を起こさなければ手遅れになってしまうかもしれないのだ。
たとえ、決定が間違っていたとしても、決定しないよりは勝っている。早く動き出せば、まちがいも早く発見でき、それを訂正する時間が残る。いかにすぐれた決定でも、土壇場になってからでは、それを実現する時間がないのだ。
躊躇逡巡こそ経営者の大敵である。逡巡して何も決められない経営者は会社をつぶす。
社長の決定がなければ、社内ではそれがどんなにすぐれたことであっても、行動を起こすことができないのだ。社長の決定がないために動けず、じりじりしながら待っている部下は、想像以上に多いのである。
経営者の最もいましめなければないのは、優柔不断である。決定に伴う危険を考え、部下の不満を考えていたずらに迷っていたら、会社をおかしくしてしまうのだ。決定することが社長の仕事なのだ。社長の優柔不断からつぶれる会社は数知れない。倒産原因の70%は社長の優柔不断だといわれているくらいである。
セキやんコメント: 今から40年ほど前の刊行であるにもかかわらず「低成長時代」という指摘は、現代にピッタリと重なる。そして、経営者の躊躇逡巡や優柔不断をいましめ、普遍的な経営者の対処法を的確に提言している。けだし卓見で、一倉氏の面目躍如である。
「経営の腑」第198号<通算513号>(2016年11月4日)
高級品に絞るということ 一倉定著「経営戦略」(社長学シリーズ第1巻:1975年刊)より
中小企業の経営者の多くは、低価格で多く売れる商品が有利だと思って、こうしたものに乗り出すケースが多いが、実は、このこと自体が過当競争を引き起こす原因になっているのである。
必然的に中級品や高級品に取り組む企業は少ない。そのために、こうした市場に乗り出した中小企業は、すべての面で有利である。需要はあるし、競争らしい競争はないのだ。
さらに市場が小さいために、大手の参入などはない、という安全地帯でもあるのだ。
高級品(中級品も含む)こそ、中小企業としての事業として最適なものの一つということができる。
安全で競争は少なく、しかも高収益を期待できる。しかも大手の参入は無いという好条件まで備えているのだ。
こういう事業を“スキマ産業”というが、私にいわせたら“盲点産業”である。
外食産業では、多品種と単品種の二極に分かれているが、成功の確率は単品種の方が高い。
単品種によって、徹底的に味の追究をするほうが、お客様の要求する“味”を実現することの可能性が高いからである。
単品経営の方が遥かに有利であることを知っておくべきだろう。これこそ他業種と一味違う業種であろう。
ということは、他業種と違って斜陽化のないことである。過去何千年にわたり、時の節を通して生き残ったものばかりであって、しかも新規参入など全く不可能だからである。
だから、料理研究家と称する連中の研究した新商品と称するものは成功したためしがないのである。外食産業で生き残る道は、新商品などの幻想にとらわれることはやめて、長い年月を経て生き残った料理のうちから、何か一品種を選び、一意専心「うまい味」を探求することこそ成功の只一つの道と心得て、一途に進むことこそ成功の秘訣であることを知っていなければならない。
むろん、清潔、衛生、雰囲気、人的サービスについての配慮を忘れてはならないという条件を十分に満たした上でのことはいうまでもない。
セキやんコメント: おふくろの味とよく言われるように、基本的に人間の味覚は保守的である。したがって、奇をてらったメニューは、物珍しさで売れるうちは何とかなるが、いずれは飽きがくる。本文で指摘の通り、飲食業では、慣れた味を「美味しく」仕上げるのが繁盛店の基本である。
「経営の腑」第199号<通算514号>(2016年11月18日)
新商品の占有率 一倉定著「新事業・新商品開発」(社長学シリーズ第4巻:1978年刊)より
新商品や新事業を始めようとしたら、何をおいても市場の大きさ――総需要――を調べなければならないのである。とはいっても、総需要などドンピシャリ分かるものは少ない。手を尽くしていろいろな情報を集めて検討を行い推定しなければならないのだ。
重要なのは先発メーカーの情報である。興信所の調査でも、4〜5社について注意深く読むとかなりのところまで分かるものである。売上高、主な得意先などを関連させて推定するのである。
総需要を推定したら、その10%を考えてみる。これが我が社の力からみて難しければ、力がつくまで見合わせるべきである。いま始めたところで限界生産者にしかなれないからである。
反対に、10%が我が社の規模に比較して、ごく僅かならば、これまたやっても意味がない。というのは、30%の占有率を占める大手になってもその絶対額は知れたものだからである。こんな事業をやっても、その収益は歯の間にはさまって腹の足しにもならないのだ。
小さすぎるマーケットに乗り出して失敗した例に立石電機の秤がある。秤のような小さな業界では、大きな占有率を確保したところで、知れたものである。ましていくら立石電機といえども、こと秤に関しては実績はない。思うような売上はあがらない。そこでお得意のダンピング戦術をとった。その結果は業界の価格体系を混乱させて既存の業者を苦境に陥れただけで、立石電機にはメリットをもたらさず、そのために撤退してしまったのである。業界の何たるかを全く知らない、人騒がせにしかすぎなかったのだ。秤のような小さな業界に乗り出すこと自体が誤りなのである。
世の中には立石電機を笑えない会社が多いことは前に述べた通りである。
世の中というものは皮肉なものである。小さな会社は申し合わせたように大きすぎるマーケットを狙って業績不振をきたし、大企業はこれまた申し合わせたように小さな市場に乗り出して失敗するということを、性こりもなく繰り返しているのである。
どちらも、占有率という市場原理を知らず、それ以上に事業経営の何たるものかを知らないところから出ることなのである。事業というものは、思いついたらやってよい、というような単純なものではないのである。
セキやんコメント: 一倉は「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」を繰り返し述べている。これは、市場は大きく開けていればいいというものではなく、我が社がしっかり付き合える市場規模が大事なのだと言いたかったのだ。対象とするお客様を満足させられること、つまり我が社が真剣に手を行き届けられるかどうかなのである。
「経営の腑」第200号<通算515号>(2016年12月2日)
新商品発売時の正しい方針 一倉定著「新・社長の姿勢」(社長学シリーズ第9巻:1993年刊)より
U社で開発した新商品を勧められ、これを仕入れて売ってみると、当たるものがある。シメたとばかりに返り注文を出しても、いつも品切れである。新商品というものであれば、返り注文に応じられるくらいのストックは持っても罰は当たらないだろう、という。
これは、社長の無責任な“任せる”という放任がそうさせるのである。
新商品の発売についての正しい方針と指導がない場合に、社員はまずコストだということで大量に作る。そして、これを一刻も早く売りさばこうとして、全量お得意様にバラまく。しかし、売れるかどうか分からないので、あとの補充はしない。
だから、売れなければ返品の山、売れれば即座に品切れを起こすのである。
社員の行動は、まず以上のようなことである。いうまでもなく、これは社長の責任である。
新商品というものは、最初の発売時には、少量作るものである。むろんたくさん作るよりコストが高いが、本当に売れる商品かどうかは分からないのであるから、まず第一には売れなかった時の損害を最小限に留めることを考えるのである。そのためにはまず、少量を作って、売れるかどうかをテストし、売れなかったら捨てるのである。売れると分かったら、次から大量に作ればよいのであって、その場合に、最初のロットのコスト高など、天下の大勢に全く関係はないのだ。
最初の試売は、まず少量作り、このうちの半分とか3分の1とかをバラまき、あとはストックしておく。売れたなら、返り注文があるから、これはストックの出荷で時をかせぎ、その間に作ればよい。こうすれば、お客様に迷惑がかからない。
これが事業経営の知恵なのである。こういう方針を打ち出しておけば、新商品が発売早々品切れを起こすようなことはないのである。
何も方針を与えず、“任せる”という大義名分によって、全くの放任となり、これがお客様にご迷惑をかけ、我が社の信用を落とし、日常の仕事に無用の混乱を引き起こしているのである。
U社長は「我が社の日常に仕事の管理がいかに悪いということを思い知らされましたが、会社の仕事がうまく行われているかどうかは、会社の中にいては分からないということが分かりました。会社の仕事がよくできているかいないかは、結局は、お客様へのサービスがよく行われているかどうかということですから、それはお客様のところへ行けば一番よく分かるということですね」と、私に語った。
セキやんコメント: ここで述べていることが、あの圧倒的な商品開発力を誇る3M社のモットー「make a little ,sell a little ,make a little more=少し作れ、少し売れ、そしてもう少し作れ」と全く同じ主張であるのに驚く。まさに、本質は、古今東西共通ということだ。