「経営の腑」第201号<通算516号>(2016年12月16日)
間接部門とは何か 一倉定著「社長の条件」(社長学シリーズ第7巻:1978年刊)より
従来の直間比率という考え方は、「直接部門にあらざるものを間接部門という」という定義づけをしている。そして、直接と間接の定義づけを行っている。私にいわせれば、そのような分類は大した重要性をもっていない。というよりは、むしろまちがった分類であるという考え方をもっている。重要なのは、直接部門以外の部門のもっている機能の分析から出発した分類であり、その分類に従った経営者の方針なのである。
まず未来事業部門である。これは、企業の未来のための事業を行う部門であるから、現事業部門とは別の次元で考えなければならない部門である。
次には営業部門である。これは、現事業のケン引車の役割を果たすものであり、販売形態が直売か間接販売かで、性格が非常に違うものであるから、単なる間接部門としてではなく、分離して考えるのがほんとうである。
このように考えてくると、部門の機能から分けるときには、未来、営業、直接、間接の四つに分けるのが妥当であろう。
人員配置の方針としては、未来事業部門は、経営者の明確な目標のもとに、何をおいても充実しなければならない部門であり、営業部門の能力は、生産部門の能力を上回ることを目標としなければならない。かといって、直接部門や間接部門など、どうでもいいというのではない。私は関心のあり方をいっているのだ。
とはいえ、企業の目標が、生き残る要請から生まれるかぎり、それぞれの部門で、人員不足がでるのは、いたし方ない。その不足を頭脳で補うのが経営担当者の仕事の重要な部分の一つである。
直間比率というのは、私は、この四分類においての、直接と間接の比率であるという定義をとるのが正しいと思っている。つまり、未来事業部門と営業部門を除いた直間比率である。
私は、この定義づけによる直間比率の一応の目標を、作業本分者を直接とした場合に、85対15、製造部門を直接とすれば、90対10と考えている。この数字は容易なものではない。しかし、けっして不可能なものではないことは、事実が物語っている。私がお手伝いした会社で、たいへんな努力で実現しているからだ。
この目標比率でやりこなすために、マネジメントの技法が駆使されなければならないと主張するのである。従来の、マネジメントの技法それ自体の高度化が、企業の要請に優先してしまうような考え方は完全に捨て去らなければならないのである。
セキやんコメント: 一倉は、管理ゼロを理想としているが、現実には管理しないことによる弊害がかえって大きくなるので、「最小限管理」とすべきとしている。これは、後年発表されるゴールドラット博士の制約条件理論TOCの考え方にも通じ、付加価値創出本分者こそが重要だということを大原則とする考えだ。
「経営の腑」第202号<通算517号>(2016年12月30日)
過去の数字を追って何になる 一倉定著「経営計画・資金運用」(社長学シリーズ第2巻:1976年刊)より
たくさんの会社で、多くの数字を扱っている。しかし、それらの数字は殆んど大部分が“過去の数字”である。
たくさんの会社で、いろいろなグラフを作っている。そして、その殆んど大部分が“過去のグラフ”である。
「経営分析」と称する手法がある。会社自身で、金融機関で、証券会社で、経済紙や専門書で、投資育成会社で、これらの手法を用いて数字をハジキ、比率を計算している。それらのものの殆んど全部は“過去の数字”である。
いったい、過去の数字を見て、何になるだろうか。この素朴な疑問さえ持った事のない人が多すぎる。むろん、それなりのことは解るし、その傾向を見れば、ある程度の判定や予測は可能である。
しかし、それ以上の何が解るのであろうか。過去の数字を分析し、その原因を探求してどうしようというのだろうか。過去の数字というものは「我社の過去の不手際と失敗の記録」にしか過ぎないのである。それにもかかわらず、「これはこういう原因がある。この数字は外部情勢が悪かったから仕方がない」というように、自分の経営は悪くない、自分以外の何かが悪いのだ、という自己弁護になる。また、そうでなければ「こんな数字では困る。何とかならないか」と困惑するだけで、何の具体策も出てこない、ということになるのが落ちである。
過去の数字を確認することは必要である。
しかし、それは過去の数字を研究することではなくて、その数字に立脚して、「これからどうするか」を考えるためである。
過去の数字は、どのような研究をしてみても、ただの1円も変えることはできないことはいうまでもないのに、これの研究に懸命になり、これを研究することが、「数字による経営」だと思い込んでいる人が多すぎるのは、いったいどうしたことだろうか。
かくいう私も、会社のお手伝いをする時には、その会社の決算書には目を通す。しかし、時間にして、せいぜい数分である。そして、それは研究ではなくて、「確認」なのである。現実を確認して、そこから出発するためである。
大切なのはこの点である。過去の数字を追っても、そこからは我社の未来を築くための情報は、殆んど何も得られないのである。
論より証拠、私がお手伝いにお伺いする社長の大部分は、我社の将来に対する確固とした方向や目標を持っていない。いったい、我社の将来はどうなるのか、どうしたらいいのか、という悩みを持っている。そして、得体の知れない不安と迷いをもっているのである。過去の数字は、このような社長に対して、何の解答も与えていないのである。
将来に対して、具体的に何の指針も与えてくれない過去の数字は、現実の確認以外には、税務署と外部報告向けくらいの役割しかないのである。われわれは、我社の未来を設計するに当り、まず過去とたもとをわかつことこそ必要なのである。
セキやんコメント: ここでは将来への関心を強調するあまり、過去を否定しているが現状確認まで否定している訳ではない。一倉社長学の中では誤解されやすい部分であり、過去について「研究は時間の無駄」だが、「確認は必要」といっている。事実立脚を旨とする一倉式で、取り違えてはならない本質である。
「経営の腑」第203号<通算518号>(2017年1月13日)
人間関係は事業経営に優先しない 一倉定著「内部体勢の確立」(社長学シリーズ第6巻:1982年刊)より
O社の社長が、ある時管理職を集めて「仕事をうまく流すために、障害になっているものは何か」と聞いたところ、最初の課長の発言は「人間関係がうまくいっていない」ということだった。そして、他のすべての人々の意見も全く同様だったのである。
O社長は、「君達は何とバカげた考え方をもっているのだ。考えてもみなさい。親子、兄弟、夫婦でさえも意見の違いもあれば相手の立場を理解できないことがある。それを生まれた場所が違い、育った環境も違う、年齢も違えば性格や好みも違う人々が集まった会社の中で、イサカイが起こり人間関係がうまくいかないのが自然なのだ。少しくらいのことはお互いに我慢しなければならないのだ。だから、人間関係が良くないから仕事がうまく行われない、などと考えても始まらない。それよりも仕事をうまく行うためにはどうしたらよいのかを考えるのだ。その方法として、一言頼め。頼みもせずに協力してくれないというのは間違っている。今後はこうしなさい」と申し渡したのである。これが“指導”というものである。なかなかうまい指導である。
一同は、「社長の云うことはもっともだ」」ということになって、キリがついてしまったのである。
なぜこんなことが起るのかというと、それは戦後アメリカから導入された人間関係論をかじると、それを仕事がうまくいかない場合の言い訳に使えることを知るからである。
そもそも人間関係論の起こりは、(中略)リレーの組立職場の6〜7名の女子労働者である。非終身雇用制のもとでいつ首を切られるか、チリチリしながら過ごしている労働者を対象としたものなのである。だから、アメリカでは「人間関係論はブルーカラーのみを対象としたもの」と割り切っているのだ。
それにもかかわらず、日本の人間関係論者は、人間関係論のみを取り上げて、社会的評価など全く念頭に無い。見境もなく会社のすべての人々を対象にしてしまっているのである。
そして、「人間関係をよくすることこそ企業繁栄の鍵である」と主張するのである。この人間関係至上論は、ついには事業の経営に優先する程までにエスカレートしてしまったのである。「会社の業績が上がらないのは人間関係が悪いからだ。その人間関係を良くしようとしない社長は無責任者社長である」と言わんばかりだ。
しかし私は、人間関係論を実施して人間関係がよくなったとか、業績が向上したという話は残念ながら聞いたことが無い。反対に、「人間関係がかえって悪くなった」とか、「不平不満が多くなって困っている」というような話ばかり聞かされるのである。
だから、明らかに「人間関係論は誤っている」と解釈せざるを得ないのである。これは、日本だけでなく、本家のアメリカでさえ圧倒的に批判が多く、今では一握りの人間関係論者のオモチャになってしまっている。
誤っているとはいえ、戦後の日本の会社の中に広く深く浸透してしまい、いまだにこれを振り回す一部の観念論者もあり、数々の害毒を会社に流し続けているのである。(中略)
伝統的組織論の棚卸はこれくらいにしておくが、要するに、事業経営には百害あって一利もないものなのである。それは「変化を阻止する」という基本的特性をもっているからであり、人間性の掘り下げがまったくできていないところにあるのだ。
セキやんコメント: 社員受けが良くても業績儘ならず結局は会社を破綻させる迎合社長と、日ごろ厳しく感じても業績向上させ社員の処遇を向上安定させる鬼社長、どちらが良いかは自明だ。社長が近視眼ならば社員も目の前の事情に関心が向いてしまう。社長と社員が相似するのは、言わずもがなの大原則だ。
「経営の腑」第204号<通算519号>(2017年1月27日)
社長は自ら市場戦略をたてよ 一倉定著「販売戦略・市場戦略」(社長学シリーズ第3巻:1977刊)より
筆者がお伺いする会社で、経営計画をたてている会社は数少ない。それにも増して、曲がりなりにも市場戦略を立て、占有率目標をきめている会社はなお少ないのである。
どうも、世の社長族は企業の存続を左右するような経営計画や市場戦略というようなものは立てようとせず、次元の低い日常の繰り返し仕事に関心を向けるのがお好きなようである。
市場戦略などなくとも、今までやってきたし、今もやっているではないか、という反論もあろうが、高度経済成長期は市場そのものが拡大してきたのでその中で自然に伸びられたのであり、今もやっておられるのは、いずこも同じ無戦略だからやっておられるだけなのである。
これからは、市場の伸びは小さく、いつ強敵が参入してくるか分かったものではないのだ。いずれにしろ、占有率争いは激化してゆくのは間違いないのである。その占有率争いに勝ち残るためには、是非とも市場戦略を立てる必要があるのだ。「今までやってこられたから」ではなく「これからやってゆくために」市場戦略は絶対になくてはならないものである。
現在、どの業界でも市場戦略を持った会社など例外中の例外であり、どの会社も自らの住みつく市場を知らず、敵を知らず、競争意識だけで闇雲に叩き合っている。お互いに、何がどうなっているか分からない「闇仕合」を無我夢中でやっているにしかすぎないのである。
そのような業界に、明確な市場戦略を持った会社が現れたらどういうことになるだろうか。もともと大業者ならばたちまちのうちに敵を叩いて業界に覇をとなえてしまうし、後発の弱小企業といえども急速な追い上げで、先発業者を“ごぼう抜き”することは可能なのである。
社長たるもの、自らの得意先を訪問することによって得た情報に、社員の活動を通じて得られた情報を加えてよく事態を検討し、自らのビジョンを実現するための「市場戦略」を自らの意思と責任で決定し、全社員を戦闘配置につけ、自らこれを指揮すべきである。
そこには、社員の自由意思による行動は、社長の市場戦略の方針の中でだけしかないことを忘れてはいけないのである。
この方針から外れた行動や、社員の自由意思による行動は、市場戦略の遂行の大きな障害になることを、社員によくよく説明して納得させるべきである。
(中略)――川中島で血気にはやった勝頼による大苦戦、孔明の指示に従わなかった馬謖、を例示――
戦争においても、隠密行動あり陽動作戦あり、機に臨み、変に応じて用兵の妙を発揮してこそ戦いに勝てるのである、これらのことは、すべて大将の“采配”によって行われるのである。采配ということが、殆んどの会社では、よく理解できずにいるのは、企業戦争という認識が薄いせいであるのは紛れもない事実である。戦いというものは、大将の唯一の意思によって行われるものであり、武将の自由意思によるものではないのだ。もしも、それぞれの武将の意思に任せたら、たちまち支離滅裂となり、敗戦の憂き目を見なければならない。
セキやんコメント: 事業経営の本来の目的である「顧客の要求を満たす」ために、欠くべからざる顧客情報を収集することが一つ、さらに、社長自らの意志と責任で方針決定を決定し社員の協力を仰ぐということがもう一つ、ここで述べられている2つが事業経営にとって最も大事であることを噛みしめて貰いたい。
「経営の腑」第205号<通算520号>(2017年2月10日)
馬謖を切れるか 一倉定著「社長の条件」(社長学シリーズ第7巻:1978年刊)より
経営計画の推進を大きく妨げる内部要因の最大のものは、ほとんどの会社で“重要ポストについている無能幹部”だ。実例をここで取り上げる必要が無い程、どの会社にもある。年功序列の人事では、どうしてもこのようなことが起こる。しかも、どこの社長でも、これは重々承知の人事なのである。私は一概にこれが悪いとは言い切れないと思う。ある程度はやむを得ないし、これが会社の業績に大きくは影響しないこともある。
また、相当大きな影響のある場合でも、企業目標が明確になっておらず、経営計画もないうちは、放っておかれる。社長自ら不適と知りつつ、任命しているからである。
ところが、経営計画を立ててみると、そうはいかなくなる。無能幹部がいかに大きなブレーキとなっているかが痛感されるのである。社長の悩みは大きくなる。無能幹部が決定的に重要なポストにいる限り、経営計画の達成は夢と消えてしまうことは間違いないからである。
それが分かっていて、なかなか替えられないのである。替えられない理由として多くの社長があげるものは、大きく分けて2つになる。
一つは、替わるべき人材がいない、ということであり、もう一つは、替えても本人の行き場所が無い、ということである。しかし、これらは表面の理由であって本当の理由は、本人を実質的に格下げしなければならない社長自身の苦しみにあるのだ。
ここのところである。社長に考えてもらわなければならないのは……。社長は、自らの決意を経営計画に述べた。だから、どのような困難も障害も、これを打ち破っていかなければならないのである。(中略)
私はこのような場合には、「若い人を思い切って抜てきしなさい」という勧告をしている。まだ重荷という感じはあっても、思い切って抜てきすることである。抜てきされた本人は感激して頑張るものである。
第二の理由である。持って行き場がないということであるが、当たり前である。無能幹部の持って行き場など、あるはずがない。こういう人間には、何もさせないのが一番良い。社長室長とか、何でもいいから適当な肩書をつけて、棚上げしてしまうのだ。この場合に、部下をつけてはいけない。部下をつけると、部下がくさってやる気をなくしてしまうからだ。
こうしておけば、会社の損害は本人の給与だけで済む。それを、何か仕事をさせなければ損だと考えて、仕事をさせると、本人の給与の何百倍の損害を会社に与えることになるのだ。“一文惜しみの百文失い”にならないように気をつけなければならないのである。
泣いて馬謖を切った孔明の故知に習うべきである。孔明の指令に従わず、勝手な行動をとって敗戦の憂き目を見、これが孔明の中原作戦の大障害となった馬謖と、懸命な努力をしていながら能力不足のために障害となっている無能社員とは、事情は違う。しかし、目標達成の障害となっていることは同様である。問題は過程や事情ではなく、すべてが結果なのだ。
優れた結果を手に入れるために、会社の馬謖を切ることができるか、あれこれ考えて、馬謖を切ることができないか、社長の決定いかんで、会社の将来の運命が大きく変わるのである。
セキやんコメント: 限られた人材でやり繰りせざるを得ない中小企業で多いのは、ある程度仕事ができる人材に対して「少々問題はあるが、外すと仕事に支障が出るのではないか」という得体の知れない不安である。だが、経験上言えるのは「きっぱり切ることで、次なる人材が育ち風通しも良くなる」という事実である。