Sekiyan's Notebook グローカルニュース〜経営の腑

セキやん通信「経営の腑」


第211号“指令は文書で”<通算526号>(2017年5月5日)

第212号“云わせてはならないこと”<通算527号>(2017年5月19日)

第213号“「ムリを承知で」の効能”<通算528号>(2017年6月2日)

第214号“会議は最小限に”<通算529号>(2017年6月16日)

第215号“会議によらず社内をまとめる”<通算530号>(2017年6月30日)

「経営の腑」第211号<通算526号>(2017年5月5日)

 指令は文書で  一倉定著「内部体勢の確立」(社長学シリーズ第6巻:1982年刊)より
 社長の指令が徹底しないのは、多くの社長の共通的な悩みである。
 その原因は、社長の意図が正しく役員や管理職に伝わらないところにある。社長は自らの指令の殆んどを“口頭”によっている。口頭で指令された事柄を、管理職は耳で聞くだけである。指令されたことをメモにとり、これを復唱する役員や管理職など例外的に存在するだけである。そして、耳で聞いただけで、正確に社長の意図を頭にきざみこみ、これを実行することなど、大部分の人間にはできないことである。毎日毎日、次から次へとさまざまなことが耳から入ってくる。自分の仕事に追われながら、それらのことを一つひとつ正確に記憶し、整理し、実行することは、もともと不可能なのである。
 だから「重要なことは文書にする」ことにより、正確を期するわけである。公正証書、契約書、借用書等々・・・。それなのに、なぜ重要な社長の指令が文書によって行われないのだろうか。この理由は「対外的でない」ということ以外には考えられないのだが、不思議なことである。
 対外的なものを文書にするのは、それがトラブルの防止のためであることはいうまでもない。口頭だけでは、たとえ悪意がなくとも記憶違いや忘れることがあるからだ。
 口頭というものは、もともとあやふやなものである。そのあやふやな口頭で、大切な社長の指令が出されるというのは一体どういうことなのだろうか。社長自身が、口頭の指令ではそれが的確に実施されないということをイヤという程思い知らされているのに、それを改めないというのは「社長の指令は的確に行われなくともよい」と社長自身で思っているからだ、と皮肉りたくもなるのである。
 本当のところ、口頭指令は独り言にしか過ぎないことを知ってもらいたいのである。
 私は、会社に勤めていた時に、「長」という役職をも立ってからは、指令はどんなものでも必ず書いて行った。それは文書というような堅苦しいものは少なく、“メモ”が大部分だったのである。
 それは「10円収入印紙、100枚」というメモを女子社員に渡して買いにやらせた、というくらい徹底したものだ。これをやらないと、郵便切手を買ってくるかもしれないからである。
 このようにしたお蔭で、私の指令は実に的確に行われた。“指令メモ”は、私にとっては仕事を進める上で、なくてはならないものだったのである。
 だからこそ、私は声を大にして“指令メモ”を書くように社長にお勧めするのである。メモを書くことなど、簡単なものなら数秒で済むし、1分以上かかることなど滅多にないのである。つまり、秒単位の時間で、大部分の指令が的確に行われるメモを書くことができるのである。それだけではない、これには副産物まであるのだ。それを、Y社長の言によって紹介しよう。(中略)
 社長の行動というものは、このように部下に、そして社内に伝わってゆくものなのである。社長の行動即教育なのである。
 私は「社員の行動は社長の行動の鏡である」ということを痛感している。社員というものは、文字通り社長の指導通り行動するものなのだ。つまり、社長が指令を軽く考えると、社員もそれを軽く扱うだけである。

セキやんコメント:  口頭で指令を出したところで正確に伝わらないことを社長自身が知りながら、口頭で指令を出し続けることは、「社長の指令は正確に伝わらなくてもよい」という社長の意思表示である、と一倉は指摘する。だから、社員も社長の意思通り、軽く扱って適当に処理してしまう、と断じている。

「経営の腑」第212号<通算527号>(2017年5月19日)

 云わせてはならないこと  一倉定著「内部体勢の確立」(社長学シリーズ第6巻:1982年刊)より
〇俺は知らない
 D社長曰く「私は、管理職に対して『社長から聞いてないから、俺は知らない』とは云ってくれるな。社長は忙しいのだ。誰かに命じたことをその都度全管理者に対して『誰にこういう命令を出しているから、協力してやってくれ』と云っているひまはない。そんなことをしていたら社長の仕事ができなくなる。だから、『社長からこういう仕事を命ぜられているから協力してくれ』と頼まれた時には協力してやってくれ。それを、社長から聞いていないことを理由に協力をしなかったら、会社の仕事は何も進まなくなる。ここのところを良くわきまえてお互いに協力してくれ、と折にふれ繰り返し管理者に云っております。お蔭様で、近頃は『俺は知らない』と云って協力しない管理職がいなくなりました」と。
 A社の専務は{社長が何を管理者に命じようと勝手だ。しかし、俺は知らない}と広言してはばからなかった。人間というものは、それが何であろうと、自分が直接上司から話をされないと「無視された」という気持ちが起こり、A社の専務のような態度をとりがちなのである。D社長は、ここのところを心得ていて、それを予め防いだのである。なかなか賢いやり方である。

〇それは不可能だ
 R社を見学した時のことである。工場のいたるところに「本年度の目標・工数三割削減・製造部長」という貼紙があった。
 見学を終えてから、製造部長に、この目標について質問した。製造部長の返答は次のようなものであった。
 「工数三割削減、別に科学的な根拠はない。今年中にどうしても工数を三割削減しなければ、わが社は激しい競争に打ち勝って生き残ることはできない、と製造部長としての私が判断したからだ。それ以外に何もない。そして、課長たちには、各自どのようにしたらこの目標を達成できるかを考えさせ、計画書を提出させた。私の役目は、この計画書をチェックすることだ。とはいっても、これは容易なことではない。工数削減は今年はじめて行うのではない。会社創立以来、十何年毎年行っているのだ。そのうえさらに三割削減せよというのである。一通りや二通りの努力でできることではない。だから各課長は『あれはできない、これもダメです。その理由はコレコレです』と云ってくる。
 私は絶対これに耳を貸さない。一つ一つ理由を聞けば、もっともな理由があることは分かりきっている。もっともな理由を聞けば、私も人間だ『できないことは仕方がない』と云いたくなる。また、そうすれば『話の分かる部長だ』と云われることも知っている。
 しかし、私が話の分かる部長になってしまったら会社はどうなるのだ。私は鬼製造部長になるより外に道がないのだ。そして、あくまでも部下に目標達成を要求しなければならないのだ」と。
 私は、深い感銘を受けて辞去した。この製造部長は大きな成果を上げて、若くして役員に抜擢され、R社長の懐刀といわれるようになったのである。

セキやんコメント:  今回の「俺は知らない」と「それは不可能だ」は、あくまでも自分中心に世の中が回る天動説発想だが、逆に市場や顧客に振り回される事業活動は「地動説」で対応しなければならない。人間が本性として求めたくなる天動説感覚をいかにして顧客対応視点に変えていけるかが事業組織のキモだ。

「経営の腑」第213号<通算528号>(2017年6月2日)

 「ムリを承知で」の効能  一倉定著「内部体勢の確立」(社長学シリーズ第6巻:1982年刊)より
 社員というものは、何か命ぜられると、二言目には「できません」という人種である。
 これに負けたら、企業間競争に負けるのだ。あくまでも要求し続けなければならないのである。
 この時、気をつけなければならないのは「できません」と云われた時に「そんなことはない、できる筈だ」と云ってはならないということである。できるかできないかは主観の問題であって、勝負は絶対につかないのだ。
 社員は「できない」と思っているのに「できる筈だ」と云っても始まらないのである。社員が「できない」と云うのは、実は責任逃れの伏線なのである。つまり、社長に命ぜられたことがもしできなかった時に「だから、あの時できないと申し上げた筈です」と云うためである。
 だから、初めての時には「できるかできないか、やってみなければ分からないのではないか」という説得が肝要である。もしも、以前に試みてできなかったことをやらせる時には「もう一度新しい工夫をしてみよ」と云ってやらせるのである。
 もう一つ、社員が社長の指令をはねつける伝家の宝刀がある。それは「ムリですよ」という言葉である。これに対して「ムリではない」と云うのは、明らかに社長の負けである。
 ムリかムリでないかは完全な水掛け論であって、決着は絶対つかないからである。
 社員が伝家の宝刀を引き抜いて身構えているのだから、まずはこの宝刀を叩き落とさなければならない。これは意外と簡単である。「そうだ、社長もムリと思う」と云えばよい。社員の主張を社長が認めてしまえば、社員はもう何も云うことがなくなるのだ。宝刀を叩き落としたら、こちらから切り込むのである。「社長もムリを承知で頼むのだ。やってくれ」と。
 これで完全に社長の勝ちだ。社長にムリを承知で頼まれたら、もう何も云わずにやってみる外はないのだ。
 社員が「ムリですよ」と云うのは、これまた、できなかった時の予防線なのである。それを「ムリではない」と云えば、これは「できて当たり前、できなければボンクラだ」と云っているのに等しいのである。これでは、社員はたまったものではない。「ムリだ」という主張を変える筈がないのだ。
 「ムリだ」と社長が認める時には、できなくて当たり前、できたら手柄になるのである。
 ここのところの“理屈”というより“心理”というものを知っていることが大切なのである。
 それを観念論者は「ムリを言ってはいけない」と教える。ムリかムリでないかは、誰がどうやって判定するのだ。低能の発想以外の何物でもないのである。
 「僕が社員に要求することは、われながらムリばかり云っていると感じる。しかい、ムリを云わなければならないのが社長の立場だ。ムリを云わずにいたら会社はつぶれてしまう」と。これは、超優良会社I社長の言である。
 厳しい現実は、過去においてできなかったこと、ムリなことをやってのけなければ存続できないのだ。
 ムリを社員に要求するということは、社長の威厳を示すためでもなければ、社員を苦しめるためでもない。それは会社を存続させるためであり、これがひいては社員の生活を守るためのものなのである。

セキやんコメント:  かの鈴木敏文氏が指摘したように「経営は、経済学ではなく心理学」の側面がある。従って、正面切って社長が社員と水掛け論をしても始まらない。社長は、人間の心の機微を良く理解した上で、社員を前向きに導くアプローチこそ重要だということだ。

「経営の腑」第214号<通算529号>(2017年6月16日)

 会議は最小限に  一倉定著「内部体勢の確立」(社長学シリーズ第6巻:1982年刊)より
 多くの会社で、ムダな会議が数多い。「会議会議で半年暮らす。あとの半年寝て暮らす」式の会社さえ多く、人々は会議に閉口している。そして、そのムダを知りながら「会議無用論」があまり起こらない。せいぜい「回数を減らせ」くらいが関の山、会議は公然と”認知”され、「上手な会議のやり方」というような、愚にもつかない論議ばかりである。まさに”経営七不思議”の一つである。これには、何か理由がなければならない。
 その理由は立派にある。そして、その理由は、明らかにされることはない。
 会議を開く理由は「”安心感”を求めて」である。「会議の目的は、安心感を求めることである」とは云えない。だから、誰も口をつぐんでいるのである。「みんなで相談したから」「意見を出し合ったのだから」「会議で方針を説明したから」ということで安心し、「責任を分かち合う」ような気がして安心し、「言い訳をした」ことによって安心する。そして、もう一つ「上司の威厳を示した」ことによる安心である。(中略)
 会議を否定するといっても、すべての会議を否定するのではない。真に必要な会議は別である。下らない会議を否定せよ、というのである。
 必要な会議の主なものは”情報”会議である。情報の伝達と交換である。この二つは会議という形をとった方が良い。
 情報伝達は、決定の伝達が大部分で、それ以外のものは少ない。そして、形式的には会議でも、その本質は決定の伝達であることは、決して少なくないのである。
 情報交換は、外部情勢に関するものと技術情報がその主なものである。特に、営業会議は”情報会議”としたほうがよい――これは「販売戦略」篇ですでに述べておいた。
 外部情報が多くなればなるほど、結論は自然に出る確率が高くなる。それだけ会議の必要性は減るのだ。この外部情報が、多くの会社で、あきれかえるくらい僅かしかないのだ。
 殆ど無に等しいような外部情報では、外部のことなど分かる筈がない。そして、外部が分からずに会議をしても、それは”ひとりよがり”か”トンチンカン”なものにしかすぎない。(中略)
 会議に費やす時間があったら、その分、外に出て情報を収集すべきである。その外部情報で最も大切なのは、明らかに社長自身が外に出て手に入れた情報である。
 会議で大切なことは、内容を別にして、開会と閉会の時刻を厳守することである。そして、時間は2時間を限度とすべきである。長時間のダラダラ会議は、会議の効果を低めるからである。
 開会時刻を守るには、”罰金”が最も効果的である。(中略)
 閉会時刻を守るには、タイムリミットの15分前にブザーを鳴らし、閉会時刻がきたら、たとえ中途半端でも断乎として会議を閉じることである。こうすると、会議の要領が良くなっていく。
 情報会議以外の会議の必要性はあまりない、と思った方がよい。(中略)
 多くの会社で、会議会議と、夜も日も明けない原因は、一つは外部情勢が不明な点であり、もう一つはともすればバラバラになり易い社内を、一つにまとめる必要性からである。

セキやんコメント:  情報の共有以外の会議は、安心感を求める無意味な会議であるとの指摘は、的を射ている。上長の不明を取り繕うために、会議という名のもとで、貴重な時間を浪費していないか、問われる。
 ※ 引き続き、次号は「会議によらず社内をまとめる方法について」取り上げたい。

「経営の腑」第215号<通算530号>(2017年6月30日)

 会議によらず社内をまとめる  一倉定著「内部体勢の確立」(社長学シリーズ第6巻:1982年刊)より
 外部情報についてはすでに述べたから、次に、会議によらず社内をまとめる方法を述べよう。
 まず、根本的なものとして”経営計画書”がなければならない、ということである。経営計画書に盛られた”方針”と”目標”が、どのくらい人々の考え方と行動に大きな影響を与えるかということは、知らない人には理解できない。これだけで、会議の必要性は大幅に減ってしまう。社長は、あらゆる機会に、経営計画書に盛られた方針と目標を繰り返し強調し、浸透させるのだ。これによって、社内は一つにまとまるのである。
 次に、方針と目標を実現するための”プロジェクト計画書”である。プロジェクト計画書が、いかに効果的であるかということは、すでに社長学シリーズ「経営計画・資金運用」篇でふれた通りである。
 次に、”チェック”である。このチェックは、会議など開いてやってもダメである。「必ず個別チェックでなければならない」ということは、本章で触れている。
 この個別チェックは、経営計画書やプロジェクト計画書だけでなく、生産管理・工程管理・品質管理・クレーム処理などのチェックにもあてはまる。そして、そのほうが会議など開いて行うより、はるかに徹底するだけでなく、時間の節約になるのである。というのは、それらのチェックといえども、会議の場合には、何か一つの事をチェックしている時には、それに直接関係のない部門や担当者は「待たされている」のと同じだからである。「他人のことでも聞いていれば勉強になる」と思うのは、甘ちゃんである。会議では、自分に関係ないことを本気で聞いている社員など少ないのである。
 さらに、社長がその都度出す指令は、「社長は秘書を持て」のところで説明したように、これまた個別チェックである。
 以上述べたことは、私がこの「社長学シリーズ」の中で、すでに述べてきたことの繰り返しでしかない。そして、これをやれば会議の必要性などほとんどなくなってしまうのである。
 この主張の裏づけとして、超優良会社M社の社長の言を紹介しよう。
 「うちは、営業会議は年1回しか開きません」

セキやんコメント:  一倉式の経営計画があれば、前号で指摘した安心感を得るためのムダな会議は激減するので、顧客情報収集の時間が増え、求められる顧客サービスも見えてくる。そして、計画の定期チェックで、正しい顧客サービスが実行される。その結果、当然ながら業績は向上する。誠にシンプルだ。

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