「経営の腑」第226号<通算541号>(2017年12月1日)
責任権限論の誤り 一倉定著「内部体勢の確立」(社長学シリーズ第6巻:1982年刊)より
私が責任権限明確化論の罪悪を思い知らされたのは、私がF社に勤めていた時に受講したMTP(Management Training Program 昭和25年頃に米国から導入)講座だった。私は当時課長職であった。
この講座には、管理職だけでなく、将来の管理職候補として、管理職でない大学卒業者も同時に受講したのである。
そして、責任権限論を受講した翌日だった。私はMTP講座を受講した私の部下に仕事を命じた。すると、その部下から「課長、それについての権限を私はもらっておりません」という返事が返ってきた。
私は思わず「バカヤロー」と怒鳴ってしまった。この男はなかなかいい男で、積極的に仕事に取組み、昨日までは私の指図を「ハイ」と素直にきいていたのだ。
私は、この時にハッキリと組織論の害悪を知り、アンチ・マネジメント教になったのである。
そもそも権限とは何なのか。責任を果たすために必要な決定を行う権利のことらしいのだが、組織論によると「責任と権限は等しくなくてはならない」のだという。
全くあきれ返った理論である。責任と権限は等しくなくてはならないのなら、等しいことを測定する物差しがなければならない。こんな物差しなど、ある筈がないのだ。
かりに、上役が部下に、ある責任を果たすために権限を与えたとしよう。上役は十分だと思い部下は足りないと思う。物差しがないのだから、どちらも主観である。
こんな下らないことは書くのもアホらしいからこの辺でやめるが、この理論が「責任を果たすための十分な権限を、上司は与えてくれなかった」という責任逃れの大義名分に使われるのである。無責任居士に恐ろしく有利な理論なのである。
では、現実にはどうなのだろうか。それは「責任のみあって、権限はゼロ」なのである。人々が、自らの責任を果たすために必要なものは権限ではない。それは“責任感”なのである。
自らの責任を感じ、それを何とかして果たそうとする気持ち“責任感”これ以外に何があるというのだ。あとは自らの判断で行動するだけなのだ。権限もヘチマもないのである。
責任感のないやつは、企業人としてだけでなく、それは明らかに人間失格なのである。
組織論なるものが、いかに非人間的なものであるか、思い半ばに過ぎるものがあるのだ。
責任権限論の罪悪はまだある。“権限の委譲”という、わけの分からぬ代物である。(中略)
日本人のニュアンスとしては、「任された」ということは「自分の思うようにやってよろしい」という許可を得たことと解釈されている。だから、いったん「任せる」と云われ、それについて上司からあれこれ云われると、「任せると云っておきながら、あれこれ指図する。これでは任せられたことにならない」とむくれるのである。(中略)
「任せる」というのは、勝手にやらせることではなくて、ある“決定”の“実施”を任せることである。実施を任せるからには決定に基づく明確な目標(手に入れたい結果)と方針(行動の基準)が与えられなければならない。そして、任された者は、この目標と方針の範囲内での行動の自由しかないのである。
セキやんコメント: 人間学的に、人の行動は自らの意思によってなされる。つまり、理性よりも感性に従うので、権限ではなく責任感を重要視するのは理に適っている。部下から尊敬されない上司の命令には気持ちが入らないように、建前の権限には誰も従わないし、それは単なる空念仏にしか過ぎない。
「経営の腑」第227号<通算542号>(2017年12月15日)
「社長の決定や指令は守らなくてもよい」という教育をしていないか 一倉定著「内部体勢の確立」(社長学シリーズ第6巻:1982年刊)より
B社にお伺いして役員会に出席した時に、B社長が常々「こうしたい」と云っていたことに対して、B社長の決定として役員に指令することを勧めたのである。
ところが、なかなかB社長は指令をしないのである。「どうしたのですか」と問い詰めたところ、「私が指令しても、やってもらえなければ何にもならない」という返答である。これではどうにもならない。それまで何回かお伺いして、社長の優柔不断に業を煮やしていたのだが、B社長の気持ちとしては、「決定してもやってくれなければ何にもならない」ということで決定を渋っていたのである。
『社長、何ということを云うのか。社長が意思表示をせずに誰がやるのか。あなたは会社の最高責任者であり、最高指導者ではないか。まず「こうする」という意思表示をすべきだ。これが同時に指令なのだ。役員以下は、社長の意思にもとづき、これを実現するために居るのだ。もしも、この指令をどうしても行わないのなら、首を切るべきだ。
しかし、首を切る前に社長がやるべきことをやっているかどうかを考えていただきたい。今まで数多くの指令が行われないが故に、社長はそう思うだろうが、指令が行われない時に、その指令を重ねて発したかどうか、それでもやらないときに、また「やれ」と云ったかどうか。それを何回くらいやったか考えてみていただきたい。
社長の指令を実行しようとしない役員も管理職もいないのだ。ただ、忙しさのあまり気にかけていながらできずにいる、というのが実際のところなのだ。だから、やらなければ何回でも、やるまで云い通すことだ。社長の責任を感じていれば、これは至極当たり前のことだ。その当たり前のことをやらずに、指令してもやってくれなければ何にもならない、というのは、明らかに怠慢だ』と決めつけざるを得なかったのである。
「いくら云ってもやらない」といって根負けしてしまい、云わなくなったらどういうことになるだろうか。それは、結果において、「社長の云うことは、きかなくともよい」という教育をしていることになるのだ。
これを「社長の云うことをきいてくれない」と取るのは全くの誤りである。きいてくれないのではなく、「社長の云うことはきかなくともよい」という教育をしているが故に、社員はその通りにしているのだ。つまり、社員は社長の云うことをきいているのである。文字通り百パーセント社長の意図通りになっているのである。
「中途半端なことしかしてくれない」と思うのは、やり通すことをあくまで要求しない限り、それは「中途半端でよい」と云っていることなのである。そして、社員はその通りしているのだ。
だから、いったん打ち出したことは、できるまで云い通すことであって、それをしない限り、永久に会社は良くならないのである。
もしも、いったん打ち出したことでも、これを変更するとか、状況が変わってもうそれをやらなくともよい時には、正式に変更または打ち切りを宣言しなければならないのである。
セキやんコメント: たった一度の指示でその通りできるような社員なら、立派に自分で社長業ができるだろう。社長はそうした飛びぬけて優秀な社員像を期待してはならない。社長より経験が浅い、実力が劣るから、社員として働いていることを忘れずに、しっかりと根気強く接することが大事なのだ。
「経営の腑」第228号<通算543号>(2017年12月29日)
未来部門は必ず分離、社長が直轄 一倉定著「内部体勢の確立」(社長学シリーズ第6巻:1982年刊)より
これは、すでに前掲書「新事業・新商品開発」篇で述べているし、本章でもさきにふれたことであるので、復習にとどめるが、重複するにもかかわらず、あえてここにあげたのは、それだけ大切なことだからである。
未来事業は我社の将来を決めてしまう。遅れは許されないのだ。これを現事業と同一の部門にやらせたら、現事業に時間をとられて、未来事業はこれを行う時間がなくなるに決まっている。現事業はどうしてもやらなくてはならないし、それだけの目に見える成果も上がる。これに反して、未来事業は何も今日やらなくてもよいからである。
だから、必ず現事業と分離しなければならないのである。それだけではない。社長直轄として、強力に推進しなければならないのである。新商品の開発にしろ、新商品の販売、新市場の開拓にしろ、それがなかなか難しくて、おいそれと進むものではないからである。
もしも、それが社運をかけるようなものであれば、社長自ら“プロジェクトマネージャー”になって、自ら取り組むのである。
本当のところ、現事業は、体勢を整え、明確な方針を与えておけば、あとは定期チェックでコントロールできるが、難しい未来事業は、それらのことを的確にやったからといってうまくいくとは限らない。いや、うまくいくようであれば、それはあまり重要でない未来事業で、会社の業績寄与もそれほど大きなものではない。
真に重要な、社運を左右するような未来事業は、多くの困難や障害、制約条件を乗り越え踏み越えての末に達成されるものであり、社長自ら行ってこそ実現できるものである。
セキやんコメント: 中小企業は人員数に限りがあるので、設計部長が開発部長を兼務することが多い。しかし、日常活動を優先せざるを得ない設計部長がルーチン業務多忙な中で、未だ見ぬ未来事業に取り組む時間などある筈がない。だから、未来事業は日常業務と切り離す決断がトップに求められるのだ。
「経営の腑」第229号<通算544号>(2018年1月12日)
“長”に生殺与奪権の一部を与える 一倉定著「内部体勢の確立」(社長学シリーズ第6巻:1982年刊)より
管理職というのは、社長の手足となって実施の代行をする人々である。その人間がいかに優秀だろうと、「優秀だ」ということだけで、それが直ちに「管理職として優れた業績をあげられる」とは限らない。部下ににらみをきかせるものを持たせなければダメである。
「部下を掌握していない」と、管理職を批判する前に、部下ににらみを利かせるものを持たせているかどうかを考えて見なければならないのである。
そのにらみとは、“生殺与奪権の一部”である。具体的にいうならば“昇給昇進とボーナスの第一次査定権”である。
普通、“賃金規定”の中にこの査定権が織り込まれている。これは、単に昇給査定に止まらず、“部下を使いこなす”上に不可欠の要件であることを十分に認識して貰いたいのである。
管理職の査定自体が多少適性を欠いたりしても、そんなことは社長が修正してしまえばよいのであって、“査定権を与えておく”それ自体こそ重要なのである。
私がF社で課長職にあった時に、「課長なんか少しも恐ろしくないけれど、課長は僕達の昇給の査定をするから、いうことをきかないわけにはいかない」と、ヌケヌケと私に云ってのけた部下がいた。その部下は実によく私のいうことをきいて、懸命に仕事に励んでいたのである。
この部下の云うことこそ“本音”なのである。そして、それでよいのだ。
重ねていうが、管理職に生殺与奪権の一部を与えることこそ前提条件なのだ。
このことを忘れて、管理職のリーダーシップから始まって、実にさまざまなことが云われている。それ自体は全くその通りで、これらは個人の研鑽能力についての優れた指標であることに間違いはない。
しかし、それがエスカレートして、あたかも管理職たるものは、人々が望ましいと感じている資質と能力の、すべてを持たなければならないと勘違いして、これをシャニムニ管理職に要求している。
その一例として、“管理者の具備すべき条件”なるものを、マネジメントの文献で見ると、監督者どころか製造部長、いや重役がつとまるような能力を要求しているのだ。どう見ても正気の沙汰ではない。
監督者でさえ、とんでもない能力を要求されるのだったら、管理者にはどんな能力がなければならないか。
全くあり得ないような能力を管理職に要求しているのだから、管理職に対する批判ばかりで、その能力や努力を認めようとしなくなってしまう。
管理職に対する社長の過大な期待は全くの誤りであることを知り、批判をするよりも、部下ににらみを利かせるための生殺与奪権こそ大切なのである。
これを与えた上で、部下に気兼ねや遠慮をすることなく、自分の思う通り部下を使うよう要求することこそ正しいのである。
そうしなければ、自らに与えられた責任――くどいようだが方針の実施責任を果たせないことを繰り返し強調することが大切である。
これがなければ、組織が名のみで実のないものになってしまうことを、よくよく管理職に認識させることだ。
セキやんコメント: 一倉は 「一人一人が経営者の心構えを要求するなら、その前に経営者の給料を与えてからだ!」と指摘しているが、これは管理職や社員に対する要求ばかりが先行する社長の依存意識を一倉は見抜いていた。社長たるもの、社員に求める前に、まずは自ら為すべきことをやれ!という教えである。
「経営の腑」第230号<通算545号>(2018年1月26日)
会社の中に自由はない 一倉定著「内部体勢の確立」(社長学シリーズ第6巻:1982年刊)より
ここで、お客様の要求というものを考えてみよう。
お客様は、相手の会社の内部事情を調べて、その事情に合わせて要求を出すのではない。相手の事情など一切考えず、自分の要求だけを一方的に押しつけてくるのだ。
だから、お客様の要求を我社の事情が合う筈がない。しかし、「我社の都合でお客様の要求に応えられません」とは云えないのだ。云えばお客様は離れてゆくからだ。つまり、我社の都合を主張する自由を会社は持っていないのである。我社の事情がどうであれ、お客様の要求に合わせなければならないのだ。
このことが分からない会社が世の中には多すぎる。製造部門の都合から生産計画をたて、営業部門を泣かせている会社は数多い。それは自らの首を自ら締めているという自殺行為であることを、社長は気がついていないのである。
お客様の要求と食い違う我社の事情を、どうやってお客様の要求に合わせて変えてゆくかこそ、会社人の考えなければならないことなのだ。会社の中の、何がどうなっていようと、それらの事情は一切無視してお客様の要求を満たすのが会社の役目なのである。
しかも、たくさんのお客様が、それぞれ自分だけの要求をぶつけてくるのである。これらの要求を満たすためには、混乱するのが当然である。
混乱せずにお客様の要求を満たすことなど、初めからできない相談なのである。混乱は、それがお客様の要求を満たすためである限り、絶対に避けてはいけないのである。
それを、“混乱は悪”という考え方から、混乱を避けようとし、そのためにお客様の要求を無視して知らない間に我社の業績を落としている会社は数多いのである。(中略)
お客様の要求を満たす、ということは面倒臭いものであり、能率が悪く、経費がかかるものなのだ。このことを肝に銘じ、それらのことは一切無視して、ただただお客様の要求に応えることのみを考えて行動しなければならないのである。
これらのことは、やがてはお客様の大きな信頼となって我社に返ってくる。そして、永久に我社の収益を確保できるのである。
個々のサービスの面倒臭さや非能率、社内手続の都合などをたてにとって、お客様サービスを怠るようなことは、絶対にしてはならないのである。
会社というものは、お客様の要求がすべてなのである。我社の自由など露ほどもないのだ。
面倒臭く、能率が悪く、経費のかかるサービスを行わなければならないのが会社というものである。それが、我社が激しい競争に打ち勝って生き残るための、只一つの道であることを、社長は何百回も何千回も社員に強調し、実践の指導をしなければならないのである。
セキやんコメント: お客様と会社との関係は、上記の通りだ。しかし、それが会社内では社員との関係も出てくるところに難しさがある。社員は、基本的にお客様のことより自分のことを優先する。だが、お客様の評価からの手応えや、自らの処遇の改善などによって、経営者と一体になることは可能である。