「経営の腑」第236号<通算551号>(2018年4月20日)
部下の立場に立ち顧客を無視する愚 3/3 一倉定著「社長の条件」(社長学シリーズ第7巻:1978年刊)より
(前号より続く)“人は自らの意志で決め、行動する時に、最も意欲を燃やす”という理論は、その結果に対して、他人に責任を負わない場合のことである。他人から、ましてや自分の昇給・昇進を左右する上司に対して責任を負わなければならない場合には、まず真っ先に自分の責任と、うまくいかなかった場合の言い訳を用意するものなのだ。責任を明確にするはずの“責任権限論”が現実には「それは私の責任範囲ではありません。権限をもらっておりません」という責任逃れの“かくれみの”に、いかに多く使われていることだろう。
このようなことは、人間の“自己防衛本能”であって、極めて自然のことなのである。これが人間性の本質なのだ。人間性の本質を知らずに、人を動かすことはできないのはいうまでもないのだ。
この事例は、人の上に立つ者は、まず自らが全責任を負うことの正しさと有効性を、われわれに教えてくれる。このようにしてこそ、部下ははじめて、本当の意味での責任を感じて、責任を果たすために懸命に行動するものなのである。
「人の上に立つ者は、自らが全責任を負う」という当たり前のことが、間違った人間関係論によってゆがめられて、「部下に相談もせずにワンマン決定をしてはいけない」とか「部下の立場を無視してはいけない」というような理論となってしまっている。
上司にとって、最も大切なものが、部下の立場を考えることだということになり、上司の責任も、企業の経営も、どこかへいってしまった。本末転倒もはなはだしい。その結果、上司に対する部下の信頼が、かえって薄れてしまうということになるのだ。
この例と全く同じく、ある会社の課長が憤慨して『いったい、うちはお得意様からの注文は誰がとるのか。経営者は部長に聞く、部長はわれわれ課長に聞く、われわれがイエス、ノーを答えると、それがそのまま、部長・経営者を経てお得意に返ってゆく。こんな経営者や部長のもとで働くなんて頼りなくて、全くいやになる』と、私にぶちまけたことがある。
部下の信頼を失うだけならまだ我慢もできよう。それより恐ろしいのは、こんな経営者は会社をつぶすのである。
経営者は、企業あっての人間関係であることを忘れないでもらいたい。人間関係あっての企業ではないのである。
経営者にとっての最大のつとめは、いつ、いかなる時にも、企業をあらゆる危険から守り、存続させることなのである。だからこそ、会社を存続させるための条件を、自らの責任と意思で決定し、それを部下に示して協力を求めなければならない。そして、それは過去の実績からみたら、常に不可能なのだ。猛烈な賃金の上昇がその元凶である。
過去においては不可能であったことを、何が何でも可能なものに変質させていかなければ、会社はやっていけないのだ。
この現実を直視し、社員を説得して動機づけを行い、必要な利益を上げていかなければならないのである。社員の意見を聞き、これに従っていたら間違いなく会社をつぶしてしまうのである。
セキやんコメント: 一倉氏は一貫して、理屈やきれいごとで取り繕われている「間違った人間関係論」を糾弾している。人間性の本質を知り、わが社が生きるための要件と向き合い、自らの責任において決断していくこと、それこそが真の経営者が目指すべき姿である。
「経営の腑」第237号<通算552号>(2018年5月4日)
企業の未来を設計する 一倉定著「社長の条件」(社長学シリーズ第2巻:1976年刊)より
「会社」という人間の集団は、人間の持つ意思によってどうにでもなるのである。特に、終身雇用という日本独特の土壌においては、会社の業績向上、感謝の発展のみが、本当の意味での、社員の生活の安定と向上を実現することは、誰にいわれなくとも、社員はよく知っているのだ。
人間誰しも、生きる意欲のある限り、自分とその家族の生活向上を望んでいるのであり、それなればこそ「働く」のである。その働き甲斐は、一に会社の発展にかかっているのである。
会社を発展されるために、自分達は何をしたらいいのかという「問い」こそ、社員にとって最大の命題なのである。そして、社員が個々にこのことを考えても答えは得られないことも、社員はよく知っている。
その答を出せるものは、会社の最高責任者である「社長」しかいないのである。だからこそ、社長は自らの意思において、「我社の将来をどうしたいのか、どのような未来を築くのか」を決定し、これを社員に対して宣言し、その協力を求めるべきである。社員は必ず社長の意図に応えて立ち上がってくれるのである。社員にとっては、社長に協力することこそ、自分自身のためであるからだ。終身雇用とは、そういうものなのである。
終身雇用の日本こそ、社長と社員が一体となって事業経営を行える世界でただ一つの国なのである。
この強みを、生かすも殺すも社長である。社長が、我社の未来像をかかげ、先頭立って奮闘する姿ほど、社員を奮起させるものはない。
我社の将来を築き、社員の生活を将来とも守るために、社長が何をおいてもやらなければならないのは、我社の未来設計である。これを、「経営計画」に明文化し、内外に宣言するほど大切なことはないのである。
セキやんコメント: 本文が書かれた40年以上以前とは、今やまったく雇用環境が変化してしまったが、日本の中小企業の強みだった終身雇用制度が崩れてきたところに、企業の結束力弱体化の大きな要因がある。働き方の多様化は、悪いことではないかもしれないが、企業経営としては、いつの時代でも基本的に終身雇用を厳守すべきだ。その揺るがない信頼関係があればこその、社員の会社に対するロイヤリティの醸成であり、win-win関係の持続なのである。
「経営の腑」第238号<通算553号>(2018年5月18日)
社長は何をしたらいいのか 一倉定著「経営計画・資金運用」(社長学シリーズ第2巻:1976年刊)より
L社にお伺いした時のことである。
社長は、思うように業績が上がらないので苦慮していた。何をどうやってもダメだというのだ。社員は適当に仕事をしているだけで、いくら気合を入れても、さっぱり反応がない。だいいち、二人の常務が役員としての自覚がなく、指導力などまるでないのではどうにもならない、というようなことを次々に私に話す。
このような悩みを持つ社長が、世の中に最も多いのである。業績不振であるけれども、その原因が社員にある、自分以外の役員にある、と思い込んでいるのだ。
私は社長に、「あなたの会社の業績が上がらないのは、常務の無自覚でもなければ、社員のせいでもない、社長自身にあるのだ。社長が正しい経営を行わないからこそ、業績が思わしくないだけなのだ。社長自身がまず社長としての正しい姿勢と正しい行動をとることだ」と直言した。L社長は「僕もそういう感じは持っている。自分のやり方のどこかが悪いのだと。しかし、それが何かが分からなくて困っている」というのである。
私は、「社長が何をしたらいいか、を見つけ出す最良の方法は、経営計画を自分で立てることだ」と申し上げた。L社長も、それではということになり、経営計画の樹立に入った。作業が進むにつれて、L社長は次第に我社の経営のあり方について、いままで如何に肝腎なことが抜けていたかを痛感するようになった。
やがて、完成した経営計画は社内に発表され、実施に移されていった。
1年程してL社長にお目にかかった時に、L社長は、「お陰様で事業は極めて順調です。社員は実によく働いてくれるし、何より心強いのは、二人の常務が役員としての立場をよく認識してくれて、日常の仕事は殆んど完全に任せることができるようになったことです。そのために、私の仕事がなくなって、毎日ノンビリしていますよ」とニコニコである。
私は社長に、「今、社長が考えているのは、あなたの会社の将来でしょう」というと、その通りだという返答である。
1年前までは、常務と社員の批判ばかりしていた社長が、全く変わってしまったのである。
社長の役割は、事業の経営である。だから、社長は事業の経営を行わなくてはならないのにもかかわらず、事業の経営とはどんなことなのかということになるとよく分からない。また、正しい経営とはどんなことかは誰も教えてくれないのである。
そこで、目の前にいて仕事をしている社員にまず目をつけ、社員を督励して業績を上げようとするのが、最も自然の成り行きなのである。
しかも、経営学と称する間違った学問が、社員を管理するための諸々の理論や手法を開発して、これが経営学だと教えている。社長はこれを信じてしまう。
こうして社長は会社の内部管理にノメリ込んでしまう。その結果は分かりきっている。社員にいくら気合をかけても、業績向上には何の役にも立たないからだ。
セキやんコメント: 今やありとあらゆる情報が世の中に溢れ、うわべだけに右往左往する経営者がノイズ・雑音の餌食となっている。まさに本質を知らずして奇策を弄しても「まぐれ」でしかないことに気づかないという気の毒な状況だ。「戦略の誤りは戦術でカバーできない」ことを今一度肝に銘じて欲しい。
「経営の腑」第239号<通算554号>(2018年6月1日)
経営計画こそ、よりどころ 一倉定著「経営計画・資金運用」(社長学シリーズ第2巻:1976年刊)より
事業の経営は、社員を管理することではなくて、顧客を創造することはすでに述べた。社員を管理することによって顧客を創造することはできない。顧客は社内にいるのではなくて、“社外”にいるからだ。
では、社外にいる顧客を創造するには何をしたらいいか、ということになる。これには広範で複雑な事業経営について、様々な活動を必要とし、その活動の目標については、本篇で既に述べた通りである。
ではそれらの活動とその目標を、どのように組み合わせたらいいか、それをどのように表現したらいいか、ということになる。個々の活動の目標が分かっていても、それらをうまく組み合わせなければ、具体的な行動はできないからである。
その具体的な行動の基準を示すものが、「経営計画」なのである。私の経験する範囲についていえば、経営計画以外にこの要望を満たす手段はない。
経営計画こそ、事業経営に関する様々な活動を、総合的に、順序良く、もれなく、しかもムダなく示すものである。
だからこそ、私がお手伝いして経営計画をたてた社長の共通的な感想は、「いままで、経営をしていたつもりだったが、実は社長としてやらなければならないことは何もやっていなかった。経営計画を立ててみて、初めてそれが分かった」という意味のことである。
社長が、自らのやらなければならないことは何か、を知ったなら、もうその会社は大丈夫である。
社長が確信をもって打ち出した施策は、たちまちにいい結果となって表れる。それは社長の自信を生む。
こうなればしめたものである。いままで社長に対して、あれこれいっていた私が、逆に社長の考えを聞く立場になるのである。社長が自信をもって打ち出す施策に、私の意見は殆んどの場合に「イエス」であり、実施上の留意点を述べるくらいになってしまうのである。
このような事実を数多く見せつけられる私は、経営計画の効力というよりは、“威力”ともいうべきものを感じさせられる。
セキやんコメント: 経営計画を柱にして進める一倉式経営方式を、2014年11月に拙著「一倉定“社長学”実践『Sフレーム』のすすめ」として上梓したが、そのダイジェスト版的に中小機構東北本部からこの度「計画経営のススメ」と題して、コンパクトな冊子が発行された。企業世話人として、これに優る幸いはない。
「経営の腑」第240号<通算555号>(2018年6月15日)
正しい経営計画の進め方 一倉定著「経営計画・資金運用」(社長学シリーズ第2巻:1976年刊)より
社長の経営理念は、いうまでもなく、社長ただ一人の思索にもとづいて生まれるものであり、当然のこととして、我社の未来像も社長の頭の中だけで出来上ってゆくのである。経営計画の段階になると、役員との討議が入ってくる。この場合に、社員を参画させてはいけない。経営の基本的決定は、経営責任を持つ者の責任において行わなければならないからである。経営責任のない社員を参画させるのは間違いなのである。社員を参画させると、社員は全社的な立場などは分からないし、考えてみようともしない。
その意見は、社員自らの立場からの発言になるに決まっていることを忘れてはならないのである。それよりも、社員の意見を聞かなければ経営計画を立てられない経営者にこそ、大きな問題があるのだ。
プロジェクト計画の段階になって、はじめてそれを実施する責任のある社員を参画させるか、その社員に命じて計画を立てさせるのである。
そして、社員を参画させる場合には問題はないが、社員に命じて計画を立てさせる場合に、決して「君に任せるから、自由に計画を立てよ」と言ってはいけないのである。これは任せるのではなくて放任なのである。プロジェクト計画というのはあくまでも経営計画の実現のためなのである。だから、経営計画の方針と目標を明確に示して、これに基づいて計画を立てさせるのである。
これをやらないと、社長の意図とは違う計画による、違う活動が行われてしまうのである。
企業の業績は、経営理念から始まり、プロジェクト計画までの一連の方針と目標と計画をどう立てるか、によって、その90%が決まるといっていい。だからこそ、社長はこれに精魂をぶち込むことが大切なのである。もしも思うような業績が上がらないのであったなら、それは計画の練り方が足りない、と思わなければならないのである。実施の良し悪しなどは、どちらに転んだところでたいしたことはないのである。100万円利益をあげられるところ、実施がまずくて95万円になった、という程度のもので、大勢に影響などないのである。
ところが、従来の内部管理中心のマネジメント思想は、プロジェクト計画のうちの次元に低い部分と、実施のテクニックにのみ関心を示し、この部分が経営であると思い込んでいる。どう転んだところで、企業の業績にごく僅かしか影響しない部分を、最も重要だと信じているのだから、話にならないのである。社長たるもの、このような内部管理のテクニックのとりこにならないように気をつけなければならないのである。
セキやんコメント: せっかく計画経営を目指しても、本末転倒になってはならない。あくまでも事業の目的は「顧客の要求を満たす」にあり、それは経営トップの意思により実現を推進するものだ。「結果責任(方針樹立)はトップ、実施責任は社員」の原則を曲げてはならない。