Sekiyan's Notebook グローカルニュース〜経営の腑

セキやん通信「経営の腑」


第261号“陣後督戦型社長考”<通算576号>(2019年4月5日)

第262号“空しい努力”<通算577号>(2019年4月19日)

第263号“企業の成果は外部から得られる”<通算578号>(2019年5月3日)

第264号“経営学は雑学”<通算579号>(2019年5月17日)

第265号“真の経営学とは”<通算580号>(2019年5月31日)

「経営の腑」第261号<通算576号>(2019年4月5日)

 陣後督戦型社長考  一倉定著「社長の条件」(社長学シリーズ第7巻:1978年刊)より
 業績不振企業の社長で、最も多く見受けられるのが、この章で挙げた陣後督戦型社長である。自ら陣頭に立とうとせず、部下の活躍に期待して業績を上げようとする。経営者として怠慢このうえない態度である。こんなことで業績が上げられるはずがない。業績が上がらないと、これを部下のせいにする。やれ自覚が足りないとか、熱心さが足りない、責任感がうすい、などと部下を批判し、こんなことではいつまでたっても“楽”はできないとこぼす。
 どうしてもうまくいかないと、今度は組織をいじり出す。いくら組織を変えたって、事態の好転など望むべくもないのだ。というのは、業績の上がらない原因は、部下の働きや組織にあるのではなくて、社長が経営していないところにあるからだ。その実証のいくつかを、本章で解明してみたのである。
 事業の経営とは、内部を管理することではなくて、外部に対応することである。外部とは、お客様のことであり市場のことである。一つにはお客様の要求にどのように応え、変わってゆく市場の要求を見きわめて、自社をどうすべきかを社長自ら決めて、これを実現してゆくことなのである。二つには、競合他社とどう戦を進めるかである。外部情勢こそ、社長のまず第一の関心でなければならないのに、外部に背を向けて内部ばかり見ている。こんなことで業績が上がるはずがないのに、これこそ経営だと思っている社長が多すぎる。
 それにもかかわらず、経営者がこのような態度をとることは間違っていると教える人は誠に少ない。反対に、内部管理こそ経営の本質であり、社長の重要な仕事だと説く人が多すぎる。組織管理の原則はこうだ、権限は委譲しなければダメだ、部下の自主的な意思を尊重せよ、等等・・・。内部管理、人間管理一辺倒である。
 それらの教えは、経営者の考え方と行動を誤った方向に進めてしまうための、大きな推進力になっていることは、間違いない。ひたすら内部を向き、部下の活躍に期待し、部下の活躍しやすい環境や指導や、組織づくりに憂き身をやつす社長の姿を、あまりにも多く見せつけられる私は、あゝ、ここにも誤った経営学の被害者がいる、と思わずにはいられないのである。
 しかも、この被害者は、被害者としての自覚は全くといっていい程ない。それどころか、自分は部下の立場を考え、部下の活躍を援助してやる物の分かった社長と思い込んでいるのだから、手の付けようがないのである。

セキやんコメント:  一倉氏は、ろくな給料も払わずに、社員に要求ばかりしている、こうした社長を搾取型と糾弾している。小生が、中小企業経営者と関わり続けるのは、懸命に働く社員の処遇をあげるには、まず社長の経営力を上げる必要があるからだ。その結果、高収益経営が実現し、社員も報われるからである。

「経営の腑」第262号<通算577号>より(2019年4月19日)

 空しい努力  一倉定著「社長の条件」(社長学シリーズ第7巻:1978年刊)より
 T産業の社長や、N社の社長のような、叱咤激励型の社長は、非常に個性が強く、バイタリティがある。その上頭脳明晰で、よく勉強もする。そして、異常な熱意と執念に燃えて経営に取り組んでいる。その姿には頭が下がる。それだけに、部下が自分の思うように動かないと我慢ができずに、ガミガミやりだすのだ。そのガミガミは、多くの場合部下の行動についてである。
 個々の行動などは、人それぞれの能力や性格やキャリアによって、同一の事柄に対して相当違ってくる。それを、いちいち自分の考え通りにいかないからといって、とがめていたら際限がない。
 それだけではない。このようなガミガミは、百害あって一利ないのだ。いや一利だけはある。それは自らの優越感を満たすことによる、ストレスの解消である。しかし社長のストレス解消の被害者になる部下はたまったものではない。
 このようなことを百年繰り返しても、部下の能力はまず向上しないであろう。また積極性も増さないことも間違いはない。それどころか、社長の目を盗んで、自らのストレス解消を、会社の時間と費用を使ってやりかねないのである。
 E社の社長も、社長のハンコがない限り、社員は鉛筆一本買うこともできない。(…中略)
 T社のI社長はものすごく経費にうるさいが、その成果など知れたものである。(…中略)
 I社の経費節約の指導方針は、“各個撃破”作戦である。材料費が多いとみると、これらの低下を指令する。すると材料費が外注費に化けたり、修繕費に計上されたりする。費目上の材料費が減少すると、今度は外注費である。外注費節減の指令がとぶと、次の瞬間から外注費は購入品や材料費に振り替え記帳される。何のことはない、絶対額のトータルは全く変わらないのである。
 だいたい、社長が部下の行動の一つ一つまでおさえることなど、全く意味がない。風船の一箇所を押さえれば、その部分は凹んでも、それと同じだけ、他の部分が膨らむだけのことなのである。I氏はこのことに気づいていない。I氏だけではない。この章にあげた、ガミガミ型社長連には、この風船の理論が全く分かっていない。空しい努力であるとともに、全くもったいないことである。

セキやんコメント:  経営は全体最適だから、過度に部分最適を求めることは無意味だ。一倉氏は、これを闇仕合(試合)と呼び、戒めている。小職的には「疲れるだけだから、やめたら?」という表現になる。どんどん変わっていく顧客の要望に応える企業が、こんなくだらないことにエネルギーを費やす余裕などない。

「経営の腑」第263号<通算578号>(2019年5月3日)

 企業の成果は外部から得られる  一倉定著「社長の条件」(社長学シリーズ第7巻:1978年刊)より
 ワンマン・コントロール社長の考え方と行動の致命的な欠陥は、自らの関心の焦点が、企業の内部に向き部下の方に向いてしまって、外部に向かない点にある。それらの社長にとって外部に対する関心は、あくまでも二次的なのである。
 一般にワンマン・コントロール社長に対する戒めは、「人材が育たず、部下のやる気をなくしてしまう」ということが最も強調されているのは、的外れである。そのような欠陥を持っていることは間違いないけれども、それは最大の欠陥ではない。
 社員の能力と活動は、企業発展の重要な要因ではあっても。決定的なものではないからだ。(中略)
 会社の業績は、社長の考え方と行動によって決まるものであって、“企業は人なり”というのは、社長次第ということであって、社員のことではない、と解釈するのが、社長としては正しいのである。
 社長は部下の能力を向上させるための教育をしようとする前に、まず“優れた経営”をすることを自らに誓い、これを実行することこそ本当である。そうすれば、自然に人材が集まり、人材が育つのである。(中略)
 優れた業績を上げるための、最も基本的な認識は、企業の外部によって得られる、ということである。いかに優れた商品でも、それが売れてはじめて企業の成果が得られるのであって、売れなければそれは商品ではなく“製品”にしかすぎないのだ。コストも品質も、商品が売れなければ全く意味がないのだ。こんな分かりきったことが、実は意外な程分かっていないのである。(中略)
 私は、世の社長族が一人残らず、企業の運命は客観情勢の変化に、どう対応するかで決まってしまう、ということを、ハッキリと認識し、行動して貰いたいと切に望むのである。(中略)
 あらゆる業界が常に、さまざまな世界の政治、外交、経済の影響を受けて、刻々変化している。それらの変化を誤りなく捉えて、自社の正しい方向を決めることは、生易しいことでできるわけがない。それを、社長が自社内部に目を向け、社員の仕事のアラ探しをしていたら、会社はどうなるか分かったものではない。
 企業の方向を誤る大危険に比べたら、社員の行動の非能率から生まれる危険など、全く問題にならないのである。そして、社長が正しい考え方と行動をとるようになると、今までやる気のなかった社員が、やる気を出し、積極的に自らの責任を果たそうとする。その上将来に対する読みまで深くなる。私はこの実証をたくさん持っている。
 “正しい経営”を行うことこそ、社員の考え方と行動を正しくし、やる気を起こさせるものであることを、知らなければならない。

セキやんコメント:  「郵便ポストが赤いのも電信柱が高いのも、すべて社長の責任」との一倉の名言に凝縮されている通りである。社長自らが全責任を背負い、徹底的に事実と向き合い、事実だけから判断すべきとの教えだ。この事実情報立脚型経営を踏まえたものだから、わが「Sフレーム」にハズレはない。

「経営の腑」第264号<通算579号>(2019年5月17日)

 経営学は雑学  一倉定著「社長の条件」(社長学シリーズ第7巻:1978年刊)より
 現在、経営学と称されているものは、明らかに経営学ではない。新居崎邦宣氏(故人)の言を借りれば、
 「…ベストセラーになった経営学の入門に対する本を通読してみた。なんてことはない。経営のケの字も見当たらない。そこにあるのはマネジメントでもないコントロールの方法論が一部羅列されているだけである。経営学といえば、ある意味では社長学ではないか。社長学がいろいろ小さい冊子で紹介できるようなものであるなら、まことにけっこうであるが、そうはいかないということが読めば読むほど良く分かった。…日本でいう経営学というのは、コントロールの方法、雑論にすぎない」ということになる。私も全く同感である。企業体の下半身のみを対象とした、あまり重要でない日常の繰り返し仕事に焦点が合っているのである。それは、責任権限明確化と標準化を中心とした、きわめてスタティックな観念的組織論と管理論ではあっても、経営論でも経営学でもないのだ。
 企業は、経済的価値を創造することが任務である。だから経営とは、経済的価値を創造する活動である筈である。こんな分かりきったことが、経営学の専門家と称する人はわかってないのである。彼らの関心は「経済的成果をあげられるであろうと思われる技法」に焦点が合い、「あげた成果を計算する方法」を説いているにすぎないのだ。
 企業体の中で、単なる部分的な経済的成果は企業全体の成果に結びつくとはかぎらない。いな、結び付かないことが想像以上に多いのである。経営とは「企業の成果」をあげることであって、「企業内の部分成果」をあげることではないのである。この分かりきったことが分からない限り、彼らはコントロール方法の職人にしかすぎないのだ。

セキやんコメント:  木を見て森を見ず、というが、経営は豊かな森をつくるのが目指す方向であって、何本かの木を立派にすることではない。私は、このことを「経営は、部分最適に非ず、全体最適でなければならない」と説いている。人間のサガである私利私欲も、全体が良くなって果実が配分されれば、軽減される。

「経営の腑」第265号<通算580号>(2019年5月31日)

 真の経営学とは  一倉定著「社長の条件」(社長学シリーズ第7巻:1978年刊)より
 企業は、国民経済の一環として存在する。国民経済は世界経済の一環として存在する。そして、それらの変化は、企業にとって決定的ともいえる重大な影響力をもっているのだ。当然のこととして、それらの客観情勢の変化に対応できなければ企業は破綻してしまう。
 客観情勢の変化に対応するためには、企業は構造的な変革をしなければならない。客観情勢の変化は常に構造的変化だからだ。いつ、どのような変革をしなければならないか、を決めることこそ最も重要であり、この意思決定こそ経営者の職務なのである。
 このように、経営とは「外部」に対するものであって、断じて企業の「内部」に対応するものではないのだ。真の経営学とは、経済的価値の創造に焦点を合わせ「客観情勢は絶えず変化する。その変化に対応できない企業はつぶれる」という認識をもとにした、経営構造変革論(スタティックな構造論ではない)と、そのための意思決定論を中核としたものでなくてはならない、というのが私の主張なのである。この観点に立つときに、経営者の役割は言うまでもなく、伝統的な組織論や管理論は、純然たる専門的技法を別として、基本的な考え方は全く変わってしまうのである。
 以上が、私の経営学に対する基本的な考え方である。そしてそれが、具体的にどのようなものであるかについて、私の乏しい体験を通じて解明してみたいという、大それた望みが、この小論を発表する私の真意なのである。

セキやんコメント:  一倉は、「お客様が、わが社の都合のいいように反応してくれるわけがない。わが社がお客様に振り回されているのだ、という認識が大事だ」と説いている。これを「天動説」からの脱却という表現で、自社中心の志向を戒めている。原則に立ち戻れば、事業活動そのものが「お客様ありき」で、そもそもお客様が居て、はじめて事業が存在するのだから。

「経営の腑」最新号へ戻る



目次へ