Sekiyan's Notebook グローカルニュース〜経営の腑

セキやん通信「経営の腑」


第266号“「捨て去る」ことこそ革新の第一歩”<通算581号>(2019年6月14日)

第267号“社長とは会社の将来を決める人 1/2”<通算582号>(2019年6月28日)

第268号“社長とは会社の将来を決める人 2/2”<通算583号>(2019年7月12日)

第269号“労務管理の基本 1/2”<通算584号>(2019年7月26日)

第270号“労務管理の基本 2/2”<通算585号>(2019年8月9日)

「経営の腑」第266号<通算581号>(2019年6月14日)

 「捨て去る」ことこそ革新の第一歩  一倉定著「社長の条件」(社長学シリーズ第7巻:1978年刊)より
 製品はしだいに年をとってゆく。売上を伸ばすことが難しくなり、反面収益性は低下してゆく。そしてこれが企業の業績を低下させる元凶となる。これを捨ててゆくかどうかによって、企業の業績は大きく変わる。そして、それを決める人が社長である。
 ところが、これがなかなか捨てられないのである。かつてはわが社のホープ製品であり現実にはかなりの売上もある。しかも、それを捨てることは、それによって得られている収益がなくなるということであり、たいせつなお得意にも迷惑をかけることになることを考えると、なかなか決心がつかない。そして、ズルズルと業績低下に落ち込んでゆくのだ。
 しかし、考えなければならないのは、企業の利用できる資源の効率を高めるためには、低収益製品を切り、それを高収益製品に投入する以外にないのだ。この平凡な、あまりにも平凡な原理が、なかなか実行できないのだ。「捨て去る」ことの難しさは、現実には想像以上である。
 けれども、それをあえて行わなければならないのが社長であり、これをできない人は、社長としての最も大切な資質に欠けていることになる。F社の社長の決断−どのような能率的・合理的手段をとろうと、製品そのものの収益力が低ければ、業績の向上は多くを期待できない。それにフォーカスした製品戦略を取ったこと(セキやん補足)−は、誠に立派である。この決断が会社を救ったのである。優柔不断は誤った決定よりもなお悪い。
 経営者とは、経済に関する意思決定を下す人であり、そこには常に苦しみと危険が伴う。「虎の子」をつかまえようとすれば、虎に食われる危険を覚悟しなければならないのである。その決定の中で、最も難しい決定は「捨て去る」ことであろう。断固として捨てることこそ革新の第一歩であり、捨てないところに革新はあり得ないのである。
 ところで、低収益製品を捨てるといっても、「どれが低収益製品であるか」について、伝統的な原価計算でやると、とんでもない間違いを犯すのである。せっかくの意思決定も、その根本から間違っていては大変である。これは、決定的に重要なことなので、次章において正しい収益性判定のための「製品分析」の解説を行うこととする。

セキやんコメント:  「マネジメントとは、学問の体系でもなければ、理論でもない。『実戦の知恵』であり、『経済的成果をあげる考え方と行動』なのだ」と一倉は指摘する。その意味で巷の多くの合理化手法は、実戦には役に立たない「畳の上の水練論」か、理論的には正しくとも現実には不可能な「水上歩行論」で、まったくの空論と切り捨てている。同感である。

「経営の腑」第267号<通算582号>(2019年6月28日)

 社長とは会社の将来を決める人 1/2  一倉定著「社長の条件」(社長学シリーズ第7巻:1978年刊)より
 「社員が残業している時は、いつも社長室に明かりがついている」。ある社長を称えた記事の一節である。このような社長が、本当に名社長なのだろうか。なるほど、社長の人間性の美しい一面である。
 しかし、このような社長に、私は苦言を呈さなければならない。
 社員の方ばかり向いていると、順調な時はよいが、いったん客観情勢が変化した時に、その変化を素早くとらえて、これに対処することが遅れて、会社をピンチに追い込む危険が大きいからである。
 社長という職業は、毎日精励恪勤して、社員の仕事を指導し、社員の感激するような思いやりをかけてやれば済むような生易しいものではないのだ。変転きわまりない客観情勢の中で、激しい競争に打ち勝って、会社を存続させ発展させるために、社長は全力を挙げなければならない。それは、会社の誤りない将来の方向を決めることなのである。
 社長が社員の方ばかり向いていたら、将来の方向を決めることなど、できるはずがない。
 会社の将来の正しい方向は、客観情勢の変化を見ずに決められるものではないからだ。
 会社の誤りない方向を決めることの難しさは、言語に絶するものと言っていい。いくら時間があっても足りないのに、実際にはごく僅かな時間しか与えられず、手持の情報は不完全極まるものなのである。そのような状況の中で、とにもかくにも事態を判断し、決定を下さなければならないのが社長である。社員の心情など、考えてやりたくとも、考えてやるひまなどない筈である。心の中で社員に詫びながら、これを無視しなければならないのだ。本当に社員の幸せを実現するための、会社の将来の発展を考えるのが社長の役目なのだ。
 いつも社員の今日の立場を考えてやる社長こそ、人間としては立派でも社長としての最も大切な役割を忘れていると言えるのである。
 ある大企業の社長は“人間尊重の経営”を内外に宣言し、懸命の経営を行ったが、業績は良くなるどころかジリジリと低下し、ついに自らの力の限界を悟って退陣してしまった。−しかしその潔い退陣は立派であった−後継の若い社長は、全く死に物狂いの経営を行っている。そして業績は着実に向上しているのである。
 その社長は、自社の部長と話をしている暇がほとんどないということである。私の尊敬する名社長の一人だ。
 これこそ、本当の社長の在り方である。社長とは、何をする人かを知っており、これに心魂を傾ければ、このように自社の内部など目を向けたくてもできないのである。
 それは、あたかも台風の真っ只中で、激浪に翻弄されている船のブリッジに立った船長が、船の安全のために全力を尽くす姿に似ている。その船長の指令は、風と波の状況から発せられる。その船長が、それぞれの部署で必死に働く船員に対して、ブリッジを離れて言葉を掛けてやることはできないのだ。それどころか、疲労困憊している船員に対して、心を鬼にして、叱咤しなければならないのである。それが、船の安全を第一に考えなければならない船長というものである。
 社長の目は絶えず外部を見つめ、その変化の方向を見極めて、自社の方向を正しく決めなければならないのだ。(次号へ続く)

セキやんコメント:  組織は、共同体と機能体に区分される。その目的は共同体が「構成メンバーの居心地の良さの追求」で、機能体は「外的目的の達成」である。家庭や地域コミュニティ・同好会などが共同体で、企業は「お客様の要求を満たす」という外的目的達成を使命とするガチガチの機能体である。だから、構成員である社員に心で詫びながら、お客様に目を向け続けることが経営トップの宿命なのだ。

「経営の腑」第268号<通算583号>(2019年7月12日)

 社長とは会社の将来を決める人 2/2  一倉定著「社長の条件」(社長学シリーズ第7巻:1978年刊)より
 (前号より続く)“部下にできるだけ仕事を任せなさい”という主張は甚だアイマイであって、ここから数多くの混乱が引き起こされている。この主張の意味するところは、“部下にやる気を起こさせ、思い切り腕を振るわせるため”であるという。これは、仕事を任せることの重要な効用の一つであることは間違いない。しかし、それはあくまでも効用であって目的ではないのである。
 その上、“仕事を任せる”の“仕事”の定義づけができていないために、社長自身がやらなければならない仕事まで任せてしまうという誤りを、多くの社長が犯してしまっているのである。
 社長が自らやらなければならず、そして、絶対に部下に任せてはならないことが二つある。一つは自社の方向を決めてこれを経営計画に明文化することであり、もう一つは、そのための自社の体制作りの基本になる“人事”なのである。あとは、経営計画と実績をチェックすることである。つまり、社長の仕事というのは、何回も言うように会社の将来を築くことであり、そのとてつもなく難しい仕事を行うための時間こそ貴重なものである。
 その貴重な時間を生み出すために、社長は“今日の仕事”を部下に任せなければならない、というのが正しい考え方なのである。
 しかし、現実には社長が今日の仕事を全然やらない、というわけにはいかないのは事実である。これは、止むを得ずやるのであって、社長としてはあまり重要でない仕事なのだ。だから、そのような仕事は最小限で済ませるように自ら心掛けなければならないのである。そして、時間の大部分は、自社の将来の方向を決めることに費やさなければならない。社長自らの意志と責任で、自社は将来どのような事業を行うか、その規模はどれだけなのか、社員の処遇を将来どうするのか、を決定しなければならないのである。
 この決定こそ、会社の将来の運命を決める。優れた決定は会社を繁栄させ、誤った決定は会社を破綻に導く。
 いつ、いかなる時でも、会社を繁栄に導くことこそ、社長としての社会的責任の最大なものであると同時に、それによって、社員の生活を安定させ、向上させることこそ、最も優れた人間関係を築く基礎なのである。

セキやんコメント:  社長の三大怠慢の一つが、「決定しない」ことと一倉は常に指摘していた。上記でも、決められずに「任せる」、すなわち「放任」の愚を指摘している。これは社長の優柔不断が主な要因であり、社長自身が闇の中で判断に窮している証拠だ。だから、経営数値の闇を晴らす管理会計が必須なのだ。

「経営の腑」第269号<通算584号>(2019年7月26日)

 労務管理の基本 1/2  一倉定著「社長の条件」(社長学シリーズ第7巻:1978年刊)より
 経営者が社員に最も期待することは、能力もさることながら、何といっても“勤労意欲が高く、情熱をもって仕事に打ち込み、定着性の良いこと”であろう。社員を、このように動機づけることは、長い間の経営者の重大な命題であり、深刻な悩みでもあったし、これからもそうであろう。
 このような命題に対して、ゴマンといろいろなことが言われてきた。また、言いつくされたかの観がありながら、あまりというよりは、むしろ少しもその解答になっていない、と言えよう。いったい、これはどうしたことなのだろうか。この疑問に答えるのは、難しい。しかし、その理由は意外な程簡単なのである。
 それは、今までの考え方が本質をついていない、ということである。(中略)
 それらの議論は、言いつくされたように見えながら、その実極めて偏ったものでしかないのだ。その中味は、40年前に主張された、エルトン・メーヨーの“ホーソン効果”を繰り返し、繰り返し、手を換え、品を変え、人を換えて論じているに過ぎないのだ。
 その主張を要約してみれば、勤労意欲を向上させるには、人間的な欲求を知り、これを満たしてやることだ。その欲求とは、自分の仕事にやりがいを感じ、自分の能力を発揮できることである。さらに、目標や計画を立てる時には、これに参画させることだ、というようなことになる。いずれも、もっともなことであり、またそれなりの効果を上げてきたことも事実である。
 しかし、このような主張は、何と偏った、何と次元の低いものであろうか。むろん、このようなことは人間的な欲求の一部であることは疑いもないかわりに、あくまでも、ごく一部でしかも次元の低いものでしかないのだ。それをあたかもモラル向上の決め手であり、これ以外にはないような言い方をするから物事がおかしくなる。
 従来論じられている“人間的欲求”なるもの、つまり仕事にやりがいを感じたり、計画に参画させたりすることは、あくまでも“仕事の欲求”の充足であり、それ以外の何物でもない。人間は“仕事の欲求”の満足だけで、はたして仕事に情熱を打ち込むだろうか。人間とはそんなにも単細胞なのだろうか。こんなことにゴマ化されて懸命に働くほど程度の低いものだろうか。こうして“仕事の欲求”のみしか説かれていないのは何故か。
 その理由は“アメリカの直輸入品”だからである。アメリカの労働者にとって、企業とは“働いて収入を得る場所”であって、それ以外の何物でもない。だから収入さえよければそれでよい。そのためには、わが国ではとても我慢のできないような悪い労働条件のもとでも我慢する。
 企業に対する自分との一体感がないから、会社の業績がどうだろうと、それは自分の収入の関連で関心があるだけだし、もしも、もっと良い収入が得られる会社があれば、さっさと転職してゆく。もともと会社の将来の運命に関心のない人たちに向かって、トップのビジョンを説いても、全く意味がない。だから、“仕事の欲求が何か”を研究し、これを満たしてやることによって動機づけを試みるより外に方法はない。
 これが、アメリカ式の人間関係や労務管理には、“仕事の欲求”を満たしてやる思想しかない理由なのだ。

セキやんコメント:  かつて終身雇用制の日本では、経営者も腹を括るが、それに応えて社員も腹を括るという図式があった。一方、基本的に契約社会であるアメリカでは、腹を括ることはできない。なぜなら、いつ首をきられるか分からない仕組みの中で生活の糧を得ているから、常に緊張と不安がつきまとうのだ。

「経営の腑」第270号<通算585号>(2019年8月9日)

 労務管理の基本 2/2  一倉定著「社長の条件」(社長学シリーズ第7巻:1978年刊)より
 (前号より続く)これに反して日本人は、自己と企業との一体感を持っている。ハーマン・カーンの言によると、「日本は、企業に関係のある誰も――経営者・労働組合・消費者・家族・一般大衆――が企業の成功はすなわち国の成功であり、自分たち自身の成功である、とみなしている世界で唯一の国である(超大国日本の挑戦)」ということなのである。
 アメリカと日本は、このようにその土壌が全く違うのである。この違いを知らずに、アメリカで言われていることは何でも正しいし、それが日本にもそのまま当てはまる、という観念に凝り固まった観念論の先生方によって輸入され、そのまま日本の企業に押し付けられているのだ。まったく迷惑千万な話である。
 日本の土壌――終身雇用、年功序列による企業と個人との一体感――のもとでは、企業の将来の運命と自分の将来の運命が密接不離の関係にある。
 ところで、人間的欲求の最も根幹をなすものは、仕事のやりがいや参画意識ではない。それは、一生を通じての生活の安定と向上である。これが“将来への欲求”である。
 “将来の欲求”が達せられる可能性がなければ、いかに“仕事の欲求”が満たされようと、人間は本当に仕事に情熱を感じてこれに打ち込むことはしないのである。将来がどうなるか、まるっきり分からないでは、不安で仕事どころではないのだ。これは本能である。
 今働いている会社で一生を過ごすのであれば、会社の将来こそ、最も重大関心事である。だから、その会社を経営し、自分達をリードしてくれる経営者が、どのような姿勢で経営に取り組んでいるか、将来どのような会社にしようとしているのか、このことこそ、社員にとっては最も知りたいところである。それが何であるかが分からないのでは不安で仕方ない。経営者がこれを示さなければ、不安から、或いは本能的に経営者の姿勢や力量を感じ取って、より将来への期待が持てる会社へ移ろうとする。
 アメリカの労働者はより良い収入を求めて転職し、日本人はよりよい将来を求めて会社を変わるのである。
 従業員の将来の生活の安定と向上まで責任を持たなければならない日本の経営者は、(中略)アメリカの経営者に比較すれば、はるかに重い社会的責任を負っているといえよう。(中略)
 そのために必要な社員の協力を得、懸命に働いてもらうためにも、自分の持っている経営理念を明らかにし、それを具体化するための自社の未来像を明確に掲げ、社員に周知徹底させることが大切なのである。
 S精機の専務が「トップのビジョンなくして何の労務管理ぞや」と喝破しているのこそ、正鵠を射たものだろう。
 労務管理のいろいろな小手先のテクニックや、きめ細かさなどは、枝葉末節論であって、そのようなものだけで労務管理がうまく行くと思ったら、とんでもない間違いであることは、そのようなことを行った経営者であるならば思い知らされている筈である。真の労務管理があれば、そのような枝葉末節はどうでも良いのだ。
 深く人間性に根ざし、人間の本当の欲求――将来への欲求――を知り、これを満たしてやらなければならない、という使命感を持った経営者こそ、優れた経済的成果を上げられるのである。この使命感がなければ、社員の心からの協力は得られないだけでなく、経営を真剣になって考えているとは言えないであろう。

セキやんコメント:  一倉がこのように指摘した今から40年以上も前には、企業と社員の一体感が日本企業の強味だったが、やはりアメリカかぶれした輩(観念論者)が米国式の契約労働制を導入した結果、今に至ってはこうした一体感という日本型雇用の特徴を喪失させ、日本全体を脱力感・不安感が覆っている。

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