「経営の腑」第271号<通算586号>(2019年8月23日)
社員のお客様無視は社長の責任 一倉定著「社長の条件」(社長学シリーズ第9巻:1993年刊)より
毎日毎日、たくさんの会社で恐ろしいほどのお客様無視の行動が繰り返されている。そして、これが会社の信用を落とし、知らない間に売上不振を招いているのだ。
これは社員が悪いのではない。管理職に叱言を言っても、叱言をいわれたことだけが当座よくなるだけである。そして、それは管理職の責任ではないのだ。
すべては社長の責任である。社長の姿勢それ自体が“お客様第一”になっていないからなのである。私が会社にお伺いして、徹頭徹尾言い通すのが「社長の姿勢」なのである。
正しい姿勢とは、いうまでもなく“お客様第一”である。
そして、社長が姿勢を正すと、その瞬間から、会社の業績が上がりだすのを、私が直接お手伝いした5千社にも及ぶ会社で見てきているのである。
この解答はマネジメントの思想の中にはない。
もしあるとするならば、こんなにも多くの会社で、お客様無視が行われているはずがない。
それどころか、マネジメントの思想を導入すればする程、会社はますます邪道に陥ってしまうのである。マネジメントを説いた本に“お客様”なる思想どころか、言葉さえもないではないか。
もっともいけないのが、「自主性を尊重する」「任せる」「コスト、能率、効率、生産性、回転率」という思想である。というよりは、これらの思想をお客様の要求に優先させてしまうことである。
「自主性を尊重する」というきれい事を言ってみても、事業というものを正しく理解し、自らの正しい行動はどうあらねばならぬか、ということが分かるような人間は、まずは例外中の例外にしか存在しないのである。ほとんど大部分の人間が、お客様無視の行動をとるに決まっているのだ。
「任せる」という言葉ほど、その中身の分からぬ言葉は世の中にない。いったい、任せるというのはどういうことなのか、何を任せるのか、ということについての正しい考え方などマネジメントのどこにもないことは、本書で度々ふれてきた通りである。
なぜ「任せる」のかといえば「任せなければやる気を起こさない」とか、「会社が大きくなると社長ひとりでは手が回らないから、それぞれ責任者を決めて任せなさい」とかいうことらしい。
とんでもない間違いである。前にも述べたが、日本の場合、「任せる」ということは「任せられたものが勝手にやっていい」というニュアンスがある。だから、「任せるといっておきながら、あれこれうるさく言う」というような反発が起きる。いったん「任せる」といってしまうと、社長はもうこのことについては何も言えなくなる。
こんなことをしたら、それこそ任された人間の個人的な考え方で事を行い、会社の中はバラバラになる。
コストや効率や回転率などを強調すると、どういうことになっていくかの実例を、私はたくさん見ている。それは必ずといっていいほど、お客様の要求を無視する行動となってゆくのである。
では、自主性などいっさい認めず、任せることをやめて、ワンマンコントロールすればいいのか、コストや生産性はいっさい無視せよというのか、ということになる。
そんなことはできない。社長はただ一人しかいないのだし、コストや生産性を無視したら会社は競争に負けてしまうのである。では、どうすればいいのか? 続きは→256号に既述。
セキやんコメント: 内部管理と事業経営とは真逆であると一倉は繰り返す。事業経営はあくまでも外部対応であり、本質が「お客様の要求を満たすこと」だからで、しかも「わが社の」お客さまの、なのだ。
「経営の腑」第272号<通算587号>(2019年9月6日)
仕事の流れを標準化する 1/3 一倉定著「社長の条件」(社長学シリーズ第6巻:1982年刊)より
会社の仕事というものは、縦の指令系統によるだけではうまくいかないものである。
というのは、仕事というものは、部門の間を横に流れるものである。
営業部門で受注されたものは製造部門の生産計画に組み込まれ、生産計画にもとづいて購買部門において仕入が行われる。入荷した現場は検査部門の検収後、倉庫部門で保管される。以下、倉庫→製造→配送→経理というように、現物の流れと、伝票の流れと、金銭の流れの3つの流れが並行的に進行し、決済によって終了する。
つまり、指令系統の異なる部門間に3つの流れが生じるのだ。そして、仕事の渋滞は、部門と部門との間に最も多く発生するものなのである。
伝統的なマネジメントの思想は、縦の指令系統は重視するが、部門間の仕事の流れについては完全といっていい程無視している。論より証拠、職務分掌規定には、それぞれの部門のなすべき仕事だけしか規定していないのである。(その規定は、さきに述べたような致命的欠陥をもっている)
そのために、多くの会社で仕事の流れが極めて不円滑である。これが、さまざまなトラブルの原因となっているのである。そして、永久に絶えることのない、しかも全く同じ性格のトラブルが繰り返されているのである。これは単なる“ムダ”というような単純なものではない。そのシワ寄せがお客様のところへ行くのである。これがお客様の信用を失い、業績不振を招いているのである。
これを解決する道は、仕事の流れに焦点を合わせた業務処理基準を作って、これを実施することである。
N社で行った例で説明しよう。
N社の重大なトラブルは、お得意様から依頼された修理品の処理であった。
お客様のところへ納品に行った時に、配送車の運転手が修理品を受けてくる。修理品依頼伝票など、あったり、なかったりである。運転手は現物を現場に持ち込んで、「おおい、○○様からの修理品だ」と云う。製造部の方では「そこにおいてくれ」というやり取りだ。そして、そのまま忘れられてしまう。場合によると、その修理品から部品を取り外して新品につけてしまうことさえある。修理どころではない。そのうちに現物は行方不明になったりする。シビレを切らした得意先から督促の電話がかかってきても、業務担当者は返答のしようがない。初耳なのだ。仕方がないので「ただいま担当の者が居りませんので分かりかねます。どんな修理品でしょうか」と探りを入れて、新品を代品として無償で納める、というようなことが繰り返されていたのである。金銭的な損失もさることながら、お客様からの信用を無くす、ということが繰り返されていたのである。
こんなことを放っておくわけにはいかない。そこで、運転手・業務係・検査係・製造責任者に集まってもらって、それぞれの意見を聞きながら、その処理方法を決めたのである。それは次のようなものだった。(次号へ続く)
セキやんコメント: 会社の指示命令系統はタテだが、現実の業務の大きな3つの流れ(現物、伝票、金銭)はヨコ。したがって、業務の流れを円滑にするにはヨコの水平方向がキモになる。そして、課題は現場関係者が一番良く分かっているもので、決してマネジメント的・観念的に決めてはならないのである。
「経営の腑」第273号<通算588号>(2019年9月20日)
仕事の流れを標準化する 2/3 一倉定著「社長の条件」(社長学シリーズ第6巻:1982年刊)よりP>
(前号より続く)
<修理品処理規定>
一.現品引取り
1.当社で引き取る場合
○現品受領者:修理依頼票(ない場合は、現品を受領した本人が依頼者に代わって伝票を起こす。これは正式な伝票ができるまで、仕切票で代用する)を業務係に差し出す。現物は受領した本人が荷札(日付・依頼先社名・何個口と記入)をつけ、修理品置場に置く。
○業務係:修理依頼伝票より修理指図票(2部複写)を起こし、修理依頼票とともに部長に提出し、承認印を受ける。
2.送られてきた場合
○業務係:現物は開梱して現物に荷札(前同)ををつけ、修理品置場に置いた後に、修理指図票(前同)を起こし、送書とともに部長に提出し承認印を受ける。
二.現品処理
○業務係:修理指図票と現物を検査課へ回付する。
○検査課長:検査係に現物の検査を行わせ、主な修理箇所を修理指図票の所定欄に記入させ、検印を捺し、修理指図票の「副」を検査課に残し、修理指図票の「正」と現物を製造課に回付する。現物は所定の位置に置く。
○製造課:修理指図票に指定していない箇所でも不良部位の修理は行う。修理が完了したら、使用材料と工数を修理指図票の所定欄に記入し、現品とともに検査課に回付する。
○以後の処理は正規の製品と同様とする。
三.一般事項
○伝票なしで現品の授受をしてはならない。また、伝票の記載事項は必ず現物と一致していなければならない。
○各課係の責任の転移点は、次の課係の指定した場所へ、伝票と現物を運搬し終わった時とする。
何と泥臭い規定ではないか。ところが、この規定を実施したところ、その瞬間から、いままでのトラブルがウソのように消えてしまったのである。それどころではない。面白い現象が発生したのである。
修理品は配送係(兼運転手)が受けてくるのだが、帰社して修理品置場に現品を下ろし、修理依頼伝票を業務係に渡し「確かに渡したぞ、これでもう俺の責任は果たした」と云う。受け取った業務係は、やりかけの仕事を放り出して修理指図票を起こし、検印をもらうや否や現品とともに検査課にかけこむ(そういう感じである)。そして「課長さん、品物はあそこ、ここに指図票をおきましたよ。これでもう私は責任がありませんよ」と念を押すのである。検査係とて同様である。「アッ」という間に現品は製造現場に運ばれてしまうのである。
この規定が効力を発揮したのは、規定が当を得ていたからである。それは、(次号へ続く)
セキやんコメント: 上記のような仕組みを活用して、ルーチン(日常)業務はできるだけ条件反射的な対応で済ませる方が良い。なぜなら、問題なく流れる筈の日常業務でも、必ず不可抗力的なアクシデントは発生するので、それに集中して対応するには、ルーチンに余裕を持つ必要があるからだ。
「経営の腑」第274号<通算589号>(2019年10月4日)
仕事の流れを標準化する 3/3 一倉定著「社長の条件」(社長学シリーズ第6巻:1982年刊)より
(前号より続く)この規定が効力を発揮したのは、規定が当を得ていたからである。それは、
(1) 仕事の流れと、それぞれの担当者の行うべき業務を明確にした。
(2) 現物の取り扱いを明らかにした。
(3) 各担当者の仕事の責任の転移点を明示した。
という三点にあるのだ。
最末端の仕事というものは、殆んど完全に近い繰り返し仕事である。だからこそ、このように“標準化”が可能であり、同時に“責任”についても明確に決めておくことが出来るのである。
こうすることによって、異なる部門を次々と流れてゆく仕事が淀みなく進行するのである。そして、会社の中の日常の仕事というものは、この最末端の仕事の集積である。最末端さえうまく行けば、あとは単なる“後始末”にしかすぎないのである。そして、その後始末の標準化を行っておけば、日常業務のトラブルなど、何もなくなってしまうのである。
こうなっていて、はじめてお客様の要求に応えるための計画や予定の変更、納期に間に合わせるための突貫仕事、行事・催事、突発事態への対応などの「変化に対応するための仕事」が迅速にとれるようになる。
というのは、そのような変化への対応は、末端業務の段階では、仕事の中断・切り替え・順序変更などの単純なもので、これは、平素の繰り返し業務が円滑に行われていることが基本条件だからである。
ところで、このような規定はどういうものについて作ったらよいか、ということになる。
第一には、クレームが起こった場合である。これは、どこかわが社に抜かった点があることを教えてくれる有り難いお叱りごとである。どこが悪いか、どうしたらクレームがなくなるかを研究し、正しい業務処理を見つけだして処理規定を作るのだ。
第二には、繰り返し同じようなトラブルが発生する場合である。
以上の二つ以外は、必ずしも作らなくてもよいのである。
ここで、蛇足ながら一言つけ加えたいことがある。それは、責任の明確化ということである。
ここにあげた例のように、最末端の業務については明確化が可能であり、また明確化をすることが効果的である。それが繰り返し仕事だからである。
しかし、突発仕事や初めてのケースについては、予め責任を明確にすることはできないのであるから、そういう事態にぶつかった時には、規定にないから「これは自分の責任範囲ではない」といって知らん顔をしてはいけない。この事態にぶつかった人が、自らの責任として上司に報告する、ということをよくよく教育しておく必要がある。これを教育しておかないと、だれも手をつけない事態が生まれてしまう。その結果、意外なところでお客様の信用を失ったりしてしまう危険がある。
規定にないから自分は知らない、というような考え方は、官僚主義の萌芽であることを知って貰いたいのである。責任明確化論は、常に会社の中に官僚主義をはびこらせ、無責任居士に責任のがれの“かくれみの”となる危険をはらんでいることを忘れてはならないのである。
セキやんコメント: 実務の標準化については、最初から完全を求めず、上記のようにクレームおよび繰り返しトラブルを対象に実施すると良い。その際のコツは、迅速かつ真摯に対応することである。先送りや、見て見ぬふりは、ボヤを大火事にすることを忘れてはならない。
「経営の腑」第275号<通算590号>(2019年10月18日)
多くの人は環境整備をよく知らない 一倉定著「新・社長の姿勢」(社長学シリーズ第9巻:1993年刊)より
環境整備とは、規律・清潔・整頓・安全・衛生の5つを行うことである。
多くの人びとは、環境整備について、知っているようで、その実よく知らない。大切なことだから、やらなければいけないと思いながら、なかなか積極的に実施しようとはしない。環境整備をテーマにした論文やセミナーなど皆無に近い。
環境整備に対する認識も関心もうすいのである。私にいわせたら、これほど奇妙な現象はない。
十カラットのダイヤモンドがゴロゴロところがっている宝の山に入り、誰でも自由にこれを拾っていいのに、これを拾い上げようとしないようなものである。だから奇妙なことだというのである。
これが環境整備に関する多くの人々の認識なのである。盲点中の盲点ということができよう。
この盲点に気づいて、これを行う会社こそ幸いなるかな。聖書の福音書以上の素晴らしい結果を手に入れることができるからである。
環境整備こそ、すべての人びとの活動の原点である。
むろん企業にとってもそうであるということはいうまでもない。環境整備のないところ、会社の発展はない。環境整備のないところ、社会秩序も住みよい世の中も、いや、国家の繁栄さえ絶対にあり得ない、というのが私の信念ともいうべきものである。
以下、私の乏しい体験の中から発見したものを述べさせていただくこととする。(以下の事例に続く)
〜「江田島」「タンクローリーの注入口に封印する」「町内の清掃をする」「外国の会社と一回で契約成立」「ヨカトピアのシンボルタワーで」「オーラの到達距離は400qか」「環境整備だけで売上4倍のレストラン」「2000ルックスの照明」「特命工事が多くなってゆく」〜
【追記】本章「環境整備こそ、すべての活動の原点である」の冒頭より
塵を払わん、垢を除かん
この言葉は、ひとつとしてものを覚えられないシュリハンドクにお釈迦様がお与えになった言葉。
彼はこの言葉を繰り返しながら、黙々と掃除をすることによって、誰にも負けない「悟り」を得ることができた。
掃除をしているうちに、心の塵、心の垢を取り去ることができた。
セキやんコメント: 環境整備は、一倉社長学の柱で、上記事例のように多くの関与企業で「環境整備」で大成果を得ているので、この環境整備部分で一倉イズムを継承している向きは多い。一方、もう一方の柱である「管理会計」的な部分の継承者がいないのも事実だ。だから、小職が管理会計に特化したのである。