「経営の腑」第281号<通算596号>(2020年1月10日)
固定費の特質 一倉定著「増収増益戦略」(社長学シリーズ第5巻:1979年刊)より
固定費というものは、単なる“費用”としてとらえ、「費用は少ない方がよい」というような単細胞的に考えるのは明らかに誤りである。
では、どのようなとらえ方をし、どのように扱ったらいいのだろうか。
費用というものは、あくまでも「事業経営の必要性」から使われるものであることは間違いない。
したがって、「どのような使い方をしたら事業の経営に役立つのか、どんな使い方をしたら事業経営にマイナスになるか」という設問がまず必要である。この設問に答えるために、まず第一に必要なことは、その“特性”をよく知り、特性に応じた使い方をしなければならない。第二には、費用投入の対象となる活動についての正しい認識である。
第二については次の節で述べるとして、ここでは費用の特性を考えてみよう。
費用というものは、収益に応じて発生するものでもなければ、費用に応じて収益が発生するものでもない。一つには、社内の人びとの活動状況に応じて発生し、二つには、投下された資本に応じて発生するものである。
それなるが故に、大きな収益に対しては少しの費用しかかからず、小さな収益に対しては多くの費用がかかることになるのである。(中略:人件費、維持費、など科目の例示に続く)
以上、いろいろと費用の特徴を検討してきたが、では「どうしたらいいのか」ということになる。それに対する解答は、まず費用を単に費用という観点からだけ見るのではなくて、その特性の分析から出発しなければならないのである。
そのために、費用をその投入対象に従って三つに分類し、一つ一つについて解説を進めることとする。その三つの分類とは
1.管理的費用
2.販売促進費
3.未来事業費
である。
管理的費用とは、日常の繰り返し仕事の管理に使われる費用である。
販売促進費は、「今日の収益」をあげるために使われる費用である。
未来事業費とは、「将来の収益」をあげるために使われる費用である。
以上三つの費用が、それぞれ独立して使われるわけではないことはいうまでもないが、このように分類し、考え方を整理することが大切であり、それぞれの活動に対する基本的な方針を決め、推進することこそ、成果をあげる重要な態度である。
そして、中小企業の大部分では、管理的費用は過大であり、販売費と未来事業費は恐ろしく少ないのである。このことは、事業の経営は企業内部を管理することだと思い込んでいる証拠だ。事業の経営は内部を管理することではなくて、市場と顧客に対する活動なのであるという、正しい認識を持ってもらいたいのである。
セキやんコメント: 経理部門オタク的に、費用支出に目くじらを立ててはいけない。大事なのは、それぞれの投入対象における、総合的な費用対効果である。たとえば、2百万円の経費を使っても、5百万円の付加価値が獲得できればいいのだ。これを算式でわかり易くしたのが、増分計算法である。
「経営の腑」第282号<通算597号>(2020年1月24日)
原価率守って赤字のレストラン 一倉定著「新・社長の姿勢」(社長学シリーズ第9巻:1993年刊)より
Z社はレストランのチェーン店である。創業以来7年間も赤字と黒字の間をさまよっていた。社長は努力家であり、実によく勉強をしていた。そして業績不振の原因はその勉強にあった。全く誤った思想を教えられており、それを忠実に守ったがためだったのである。
その誤りは、“原価率”という思想である。先生の教えは「原価率を30%以下に押さえよ」というのであった。Z社長は、店舗ごとに毎月データをとり、原価率が30%を超すと、店長を呼びつけて叱りつけていたのである。
だから、各店長の関心と努力の焦点は「原価率を守る」ことだった。
ところで、外食産業の主要材料である“生もの”はすべて市況商品である。相場の変動で高値が続くときなどは、材料を落とし、量を減らさなければ原価率30%は維持できない。看板料理は幕の内弁当であったが、それを見させてもらったら、鮭のごときは紙のように薄かった。試食をしてみたら、案の定ひどい味だった。
私は、「いくら原価率が低くとも、まずいものは売れない。売上が少なければ、いくら原価率が低くとも、絶対に利益は生まれない。原価率を無視して、わが社の調理師の腕ではこれ以上おいしものは作れないという料理をお客様に提供しなければ、業績向上は夢のまた夢である」と、社長を説いた(私がいままでお手伝いした業績不振の外食産業の会社では、一社の例外もなく、“原価率30%”という神話を信じており、そのすべては業績が悪かった。そして私はいつも原価率を無視することを勧告してきた)。
この説得は難航した。まさに社長にとっては青天の霹靂、前代未聞の勧告だったからである。
私は、まず試作品を作ることを勧めた。そして、この試作品を“特別推奨品”と銘打って試売し、あとはお客様の判定を受けることである。6つの店舗で、それぞれ2つの料理を選んで美味に挑戦した、といいたいところであるが、実は私に強引に押し切られての消極的な取り組みにしかすぎなかったのである。その証拠には、2か月程の期間に、それぞれ3〜4回の試作でOKだというのである。
まだまだ不十分ではあるが、いままでよりはかなり上等になったので、これで試売をしてみようということになった。ところが、いつまでたっても試売をしないのである。その理由は「こんな高いものは売れない」ということだった。私はカンカンに怒った。「お客様にお伺いしてもみずに、何が売れないだ。勝手にせい」と縁切り宣言をした。私の剣幕に恐れをなして、社長はやっとのことで試売を約束した。先に約束をホゴにしているので強く駄目押しをした。
試売の結果は、私も驚くほどの売上増加であった。本店のシャブシャブは3500円の従来品と4500円の特別奨励品であったが、半数のお客様は4500円を注文して下さるのである。お客様によっては、「どこが違うか」という質問である。その時は、両方の肉の現物をお見せすると、納得して4500円にするのである。従来品は“赤身”だが、特別奨励品は“霜降り”だったからである。
ヤング中心の盛り場にある店舗のエビフライは、従来品の650円はほどんど売れず、特別奨励品の950円に事実上切換えてしまったのである。(競艇場内のウドンの例など、中略)
社長は、初めて原価率の神話の誤りに気づき、全面的な味の再検討が行われたのはいうまでもない。
それから1年後、会社始まって以来の5千万円の経常利益(従来の最高実績3百万円)をあげた。
セキやんコメント: 事業経営の要諦は「お客様の要求を満たすこと」である。したがって、自社の改善努力は、「お客様の要求」を損なわない範囲で進めることが大原則である。自社の都合で原価率を優先し、肝心かなめのお客様の「美味しい」や「満足」を後回しにしては、何のための事業か、まったくの本末転倒である。
「経営の腑」第283号<通算598号>(2020年2月7日)
事業部制を排す 一倉定著「内部体勢の確立」(社長学シリーズ第6巻:1982年刊)より
U社は350名ほどのメーカーで、私がお伺いした時には、数年前から事業部制をしいていた。高度経済成長下のことであり、売り上げは伸びていたが、経常利益は年々低下の一途を辿っていた。
U社長は、業績挽回に苦慮しており、その方策は、さらに一層の事業部制の強化を行い、責任体制の明確化を行って、各事業部長の格段の奮起を促す外はないと思い込んでいたのである。社長の役割とは、どういう事業部を作るか、やめるかまでであって、あとは事業部長に任せるものだと教わっていたからである。
U社の業績低下の根本原因は、事業部制そのものにあった、というよりは、事業部制こそ業績を上げる最良の方策であると思い込んでいる、社長自身にあったのである。
私は、「事業経営は社長自身の考え方と行動にあるのだ。事業部制をしいて社長自身何もしないで業績など上がる筈がない、論より証拠、あなたの会社の業績は低下一途ではないか」と忠告し、社長自らの意思を打ち出さなければならないことを説いた。
U社長は、私の云うことを理解してくれた。いままでは事業部長に任せていて、自らの意思さえ思うように云えなかったことへのもどかしさを感じていたからであるが、低下する業績を食い止めなければならないという切羽詰まった要請があったからである。
しかし、社長は自らの意思を、事業部制を通じて実現しようとした。私も強いて事業部制をやめた方がよいとは勧告しなかった。社長が気づくのを待つつもりだったからである。
当面の課題は、遅々として伸びない売り上げを伸ばすことであった。
私の勧告の第一は、製造事業部にダブついている管理人員を、営業事業部に応援に出すことであった。一倉式販売法では、素人で立派に、いや素人の方が販売実績が上がるからである。
(中略:部分最適優先の思想からくる部署間での対立の様子など)
私に次々と指摘される事業部制の弊害に、U社長も私の勧告を入れて事業部制を廃止したのである。
事業部制の廃止で、社長の方針の実行が円滑に行われるようになった。
まず第一に、外注業務の統合である。事業部制の時にはそれぞれの事業部に外注係があり、別々に発注していたのである。次には、外注工場の大型化である。折からの不況によって仕事の減った工場が多かったために、U社よりも大きな工場を4社も新規外注先として獲得できた。これは大きな効果があった。特定商品の完全外注が可能となり、図面も、検査規格と注文書と取扱説明書をやっておけば、完成品を梱包して納入してくれるのである。
その結果、外注先が大幅に減少し、管理部門の人員が3分の1にまで減ってしまい、大幅なコストダウンが実現したのである。
しかし、何といっても大きく変わったのは、社長の意図がダイレクトに各部門に伝えられ実施に移されたことである。そのために、いままでモタモタしていた各部門の活動が見違えるように活発に動き出し、当然の結果として、業績はたちまち上昇に転じた。U社は数年ぶりに事業部制の悪夢からさめて、会社本来の正しい姿に返ったのである。
セキやんコメント: 事業部制について、一倉は「ドラッカーのいう事業部制とは、キャデラック事業部・シボレー事業部の規模でのことであり、中小企業の規模では無用の長物」と指摘している。組織を検討する上で大事なことは、「形ではなく、中身」であることは疑う余地がない。
「経営の腑」第284号<通算599号>(2020年2月21日)
能力に合った仕事を与えることなど、できない相談である1/2 一倉定著「社長の条件」(社長学シリーズ第7巻:1978年刊)より
人間関係論の先生方は、二言目には「部下の能力に合った仕事を与えなさい。部下に無理を言ってはいけません」と教えてくれる。
甚だもっともらしくて、正論に思えるけれども、こんな馬鹿げた理論はない。この論法でいくと、部下の能力を知りつくさないと、部下をうまく使えない、ということになる。そこで、懸命に部下の能力を知ろうと努力する。ここにまず第一の、そして根本的な間違いがある。
その間違いは、“部下をうまく使うことが、うまい経営である”という考え方である。この考え方がいかに深く根強いものであるかは、“経営学”と称する文献の、最も大きな部分を占めていることをみるだけで充分である。
“うまい人使い”は、うまい経営のための大切な要因ではあっても、“うまい経営”ではない。私は“下手な人使い”で“うまい経営”をやっている会社を数多く知っている。
L社はその一例である。役員は完全に二つに分かれてほどんど口をきかずに、仕事のことは文書でやりとりをする。相手の要求が気に入らなければ、というより気に入らないことの方が多いらしいのだが、陰にこもった嫌がらせや反対、そこまでいかなくてもお互いに相手のアラを探し、不協力である。社内もむろん二派に分かれて、足の引っ張り合いをやっている。モラル・サーベイの結果は言うまでもなく最低なのだ。
納期は遅れ放題、サービス・パーツなど全く間に合わない。このL社が、すばらしい業績を上げているのである。管轄の税務署のランクでは、同規模企業のトップ・クラスなのである。
その秘密は、L社の“事業”にあるのだ。某業界で、断然たる強みを誇っている。国内占有率90%、輸出占有率99%というのだから恐れ入るばかりである。
L社で、もしもトップの意思が統一されており、社内の人間関係がよければ、もっと業績を上げられるのは、言うまでもないだろう。このことは、人間関係が悪いからといって、それだけで会社の業績が上がらないということではない、上がり方がいくらか抑えられるということなのである。
人間関係とは、それくらいの力しかないものなのだ。その人間関係とは、“ホーソン効果”流の人間関係なのであって、真の人間こそ、企業の推進力であることは、間違いのない事実なのである。伝統的な人間関係論の教えるところの“能力に合った仕事を与える”という思想は、明らかにピント外れなのである。それだけではない。“能力に合った仕事”を与えようとすると、逆に人間の能力を殺してしまうという“自家中毒”を起こしてしまうのである。(次号に続く)
セキやんコメント: 一倉は人間関係論を過度に目の敵にしているようだが、言いたいのは「人間関係という内部の課題より、事業構造という外部との関係性を重視し構築するのが、経営である」ということだ。「仲良しクラブで安給料」という会社で良ければそれもいいが、それでは事業存続という根幹が危ぶまれる。
「経営の腑」第285号<通算600号>(2020年3月6日)
能力に合った仕事を与えることなど、できない相談である2/2 一倉定著「社長の条件」(社長学シリーズ第7巻:1978年刊)より
(前号より続く)人間が、他人の能力をそれがたとえ部下であろうと、後輩であろうと、本当に知ることができるだろうか。他人の能力どころか、自分の能力さえ本当に分かってはいないというのが本当ではなかろうか。自分の能力はこれこれであると断言できる人こそ、例外中の例外なのである。
神様以外に分かるはずもない他人の能力を分かったという前提のもとに、能力に合った仕事を与えるというのだから、あきれ返るばかりである。神様しか分からない他人の能力を、分かったとすること自体、思い上がりも甚だしい。
それだけではない。部下の能力はこれこれであると決めつけることは、裏から言えば、部下の能力はこれだけしかないと断定することである。これが、人間侮辱でなくて何であろうか。
「お前の仕事は、これしかないのですよ」と言われて、怒りもせず、ショックも受けずに受け入れる人間など悟りを開いた禅僧ならいざ知らず、あるはずがないではないか。
人間性尊重に見える思想も、その本質は“人間侮辱”の最たるものの一つなのである。
さらに、別の面から考えてみよう。人間は、自他ともに能力に合った(と思われる)仕事を与えられて、これをやり遂げた時に、果たして本当の喜びを感ずるであろうか。能力に合った仕事をやったところで、それは当たり前である。当たり前のことに、喜びを感ずるはずがない。それに反して、自他ともに“ムリ”だと思われるような難しい仕事を、上司から与えられて、突き放され、時には上司を恨みがましく思いながらも、死ぬような苦しみの末に、仕事を完遂した時にこそ、人間は本当の喜びを感ずるものなのだ。この時には、上司への恨みがましい気持ちは消えて、むしろ上司に、そのような機会を与えてもらったことを感謝するのが人間ではないだろうか。
それだけではない。「俺はこんな難しいことをやり遂げる能力を持っていたのだ」という自信は、それ以後の彼の行動を大きく変えるであろう。
これこそ、真の意味での“人間尊重”であり、部下に対する愛情なのである。
部下がかわいかったら、部下の隠れた能力を信じ、無理と思われるような難事を押し付けて、突き放し、物陰から、ジッと見守ってやることである。もしも、やり遂げることができなかった場合には、別の違った難題を吹っかけて、再び機会を与えてやることこそ、人間愛なのだ。
“獅子は我が子を谷底に突き落とす”“可愛い子に旅をさせよ”という、日本古来からの諺は、何百年にわたる、人間の英智の篩(フルイ)を通って生き残ったものであり、真理だからこそ、生き残ったのである。
セキやんコメント: 一倉は、事業の仕組みの重要性を論じた前編とはうって変わって、今回は人間の内面からのアプローチで皮相的な人間関係論の矛盾を指摘する。こうした、人間の本質からの発想は一倉社長学の真骨頂で、ハヤリモノの方法論は足元にも及ばない。