Sekiyan's Notebook グローカルニュース〜経営の腑

セキやん通信「経営の腑」


第296号“マネジメントへの挑戦【序にかえて】より”<通算611号>(2020年7月17日)

第297号“工程管理には生産能力を高める力はない”<通算612号>(2020年7月24日)

第298号“管理的費用”<通算613号>(2020年8月7日)

第299号“販売促進費”<通算614号>(2020年8月21日)

第300号“長期計画とは”<通算615号>(2020年9月4日)

「経営の腑」第296号<通算611号>(2020年7月17日)【続・特別号】

 マネジメントへの挑戦  一倉定著 原本:技報堂1965年、復刻版:日経BP社2020年6月29日発行 より
【序にかえて】より
 これは挑戦の書であり、反逆の書である。ドロドロによごれた現実のなかで、汗と油とドロにまみれながら、真実を求めて苦しみもがいてきた一個の人間の、“きれい事マネジメント論”への抗議なのである。
 何も知らない一個の人間が、けんめいにマネジメントを学び、これを実務のうえに具現しようとした。しかし、マネジメント論に忠実であろうとすればするほど、現実との遊離が大きくなっていくのである。
 それは、マネジメント論への理解がたりないからだと、みずから反省しつつ、本を読み、考え、先輩に教えを乞うた。けれども、どうしてもいい結果はえられなかったのである。
 迷いと苦もんのうちに、多くのすぐれた事例や失敗の教訓、そして自分の経験を通じて、だんだんにわかってきたことは、いい結果をえた考え方や、やり方は、従来の学問的な、あまりにも学問的なマネジメント論とは、かなりちがうものである、ということである。
 こうなると、マネジメント論そのものに疑いの目を向けだすのは当然なことである。
 われわれの対決しているものは、現実であって理論ではないのだ。マネジメントの理論は、現実のためにあるのであって、現実が理論のためにあるのではない。
 それにもかかわらず、従来のマネジメント論は、理論としては、りっぱであっても、現実に対処したときには、あまりにも無力である。現実に役立たぬ理論遊戯にしかすぎないのである。
 現実は生きているのだ。そして、たえず動き、成長する。…打てば響き、切れば血が出るのだ。
 生きるための真剣勝負に、きれい事の公式論や観念論は通用しないのだ。タタミの上の水練では、水にはいっておぼれる。
 自分で水にはいったこともない、おぼれた経験もない者が、果たしてマネジメントを云々する資格があるだろうか。それらの人々のマネジメント論は、たんなる水上歩行論にしかすぎず、実践には役立たぬものである。
 そこにあるものは、空理空論であり、切っても血を噴かぬ死物である。その死物からでる毒が、われわれの精神をむしばみ、堕落させていく。
 知識技術のみにおぼれ、枝葉末節のテクニックはもっともらしい。しかし、かんじんな精神を忘れ、魂ははいっていない。
 マネジメントは、人間の行動の一つの指針である。人間に始まり、人間に終わる。従来のマネジメント論はその人間を忘れているのだ。いったい、なんのためのマネジメントなのだろうか。
 これからのマネジメントは、しっかりと目標を見つめ、夢と希望をもちながら、きびしい現実に対処し、みにくさ、矛盾、混乱、その他いろいろの障害をのりこえていく勇気と知恵をあたえてくれるものでなければならないのだ。当然、人間臭紛々たるものであり、それがほんとうであると私は思う。
 本書にもられている一つ一つの主張や見解は、事実と私の経験に基づいたものであり、新しいマネジメント論への脱皮と革新への一里塚として役立つことを念願しているものである。

セキやんコメント:    前号で紹介した通り、本書の感想はAmazonレビューに7月5日アップ済みだ。少し前だが、2019年(令和元年)5月26日(日曜日)岩手の地元紙のコラムで、この年になって郡山に拠点を移した心境を「義憤」と表現したが、この「序」に書いてある「挑戦の書・反逆の書」という心意気に共感だ。

「経営の腑」第297号<通算612号>(2020年7月24日)

 工程管理には生産能力を高める力はない  一倉定著「社長の条件」(社長学シリーズ第7巻:1978年刊)より
 話を進める前に、F社でやってきた合理化について、少し検討を加えてみよう。コンベアシステムなどによる能率化の効用と限界については、「能率主義の危険」の項で述べたので、ここでは工程管理や外注管理について触れることにする。
 困るのは、工程管理や外注管理についての誤った期待である。このような管理をやると、それがうまく行けば生産が円滑化する。これが、あたかも生産能力を向上させる能力を持っているかのような錯覚を起こさせる。
 工程管理でできることは、ただ一つしかない。それは、「仕事の進みすぎや遅れを少なくすること」だけであり、それ以外は何もできないのだ。その結果として仕掛品が減少したり、「手待ち」や「切替えロス」に食われていた時間が、本来の有効な生産作業に投入できるのである。当然のこととして生産は増加する。しかし、これは能力が向上したのではない。もともと持っている能力に近づいただけなのだ。工程管理それ自体に生産能力を高める力はないのである。
 だから、能力に比較して生産量が多い場合には、どのような管理をしようと、それ自体には遅れを防ぐ力はない。F社で、いくら外注管理制度を採用しても効果が上がらなかったのは、制度それ自体が実情に合わなかったことは言うまでもないが、外注先の能力が仕事量よりも小さかったのが根本原因なのである。
 それを専門家は、工程管理や外注管理それ自体に、あたかも生産能力を向上させる力があるかのような印象を与える教え方をする。少なくとも、それらの管理手法そのものには生産能力を向上させる力はないということを、ハッキリと教える人はきわめて少ない。利点のみを教えて、限界を教えないのは、マネジメント理論の共通的な欠陥である。
 生産能力を高める方法は、
 1.設備・人員を増加する
 2.生産の時間を多くする(超過勤務)
 3.能力の高い設備・加工法・作業者を採用する
 こと以外にないのであって、工程管理そのものではないことを知らなければならないのである。
 ついでに一言申し添えれば、現在の工程管理の理論の大部分は、実戦には役に立たない「畳の上の水練論」か、理論的には正しくとも、現実には不可能な「水上歩行論」なのである。それらの空論のおかげで、実務がいかに困惑しているか、先生方は考えてみていただきたい。F社もその犠牲者の一人なのである。マネジメントとは、学問の体系でもなければ、理論でもない。「実戦の知恵」であり、「経済的成果をあげる考え方と行動」なのだ。

セキやんコメント:    「藁にも縋る」想いの社長の落とし穴について、一倉流の指摘だ。いわゆる専門家の唱える一見有効に思われる手法が、実務的には役に立たないということを小職も良く見かける。それを称して、小職は「雑音」と呼んでいる。いかに世の中に雑音の多いことか。それを見極めるのも経営者の仕事だ。

「経営の腑」第298号<通算613号>(2020年8月7日)

 管理的費用  一倉定著「増収増益戦略」(社長学シリーズ第5巻:1979年刊)より
 会社の中の日常の業務というものは、なかなか円滑には処理されていかない。いろいろなトラブルがあとからあとからと、際限もなく発生し、混乱する。
 その混乱をなくそうという意図のもとに、いろいろなマネジメントの思想や、理論や、システムがつぎつぎと生まれ、会社の中に導入されてきた。
 それらの理論は、会社のすべての業務は管理されなければならないようなニュアンスを持ち、「きめの細かい管理」が優れているという主張がなされている。
 そのために、会社の中はまさに、管理の花ざかりである。それが事業の経営にとってプラスになるのならよいが、ごく僅かのプラスと大きなマイナスをもたらしているのである。
 そのマイナスは、単に人件費分の経費の増大だけにとどまらず、経営者に、マネジメントが事業経営にとって重要なことであり、マネジメントのレベルを上げることが業績向上に大きく役立つと思い込ませてしまった罪悪は、許せない気がするのである。
 (中略)
 この“偏り”こそ社会現象特有のものである。
 この現象は、「大きな成果をあげる活動には少しの費用しかかからず、費用の大部分は少しの成果しか得られない活動に投入されている」ことを意味しているのである。
 (中略)
 最後に一つ、ハッキリさせておかなければならないことがある。それは「直間比率」という考え方についてである。この場合の間接人員というのは、管理的な人員を対象にしたものでなければ誤りである。この正しい考え方に立って、間接人員は少ないほうがよいということを忘れてはならない。間接人員の中にも、販売活動、開発活動をしている人びとに対しては、直間比率という考え方をしてはならないのである。
 販売、開発という活動は、管理活動とは異質の活動なのである。
 管理活動というものは、「社内」の人びとを対象にした活動であるのに対して、販売、開発という活動は「外部」――つまり、市場と顧客を対象としたものだからだ。
 当然のこととして、管理とは違った考え方をしなければならないのである。

セキやんコメント:    一倉の主張「事業活動は、市場活動すなわち外部活動」は、一倉が55年前コンサルタントを始めた頃から一貫していた。これは、前々号で紹介した著書「マネジメントへの挑戦」の復刻版を一読すれば分かることである。つまり、空理空論にかまけず「お客様に教えを請え!」ということだ。

「経営の腑」第299号<通算614号>(2020年8月21日)

 販売促進費  一倉定著「増収増益戦略」(社長学シリーズ第5巻:1979年刊)より
 「販売戦略篇」で述べた、販売促進、市場戦略のために使われる費用である。
 販売促進費で最も重要なことは、「費用は少ないほどよい」という考え方は絶対にしてはならない、ということである。
 不用意に販売促進費を削ると、たちまち売上減少につながってしまう。
 販売というものは、他社との“競い合い”である。その競い合いに必要な費用を減らしたら、たちまち負けて占有率を落とし、会社をピンチに陥れてしまうものである。だから販売促進費というものは、会社の事情の許す限り――場合によると資金繰りの許す限り――最大限(必要性からみたら最小限)多額を最優先配分しなければならないのである。あとは、有効な使用法を工夫することである。
 その第一は、何といってもセールスマンの増員である。「生産性」のところで述べたように、セールスマン一人当たりの売上高に対する明確な基準を持ち、この基準に従って最優先確保をしなければならない。
 第二には、定期巡回費である。社長をはじめとする定期巡回は、戦に勝つためのものである限り、作戦地域において競合他社に勝る訪問回数を、何が何でも確保しなければならない。これができなければ作戦地域を縮小して回数を確保するのである。
 第三には配送費、第四には在庫費である。これはすでに「生産性」のところで述べた通りである。
 交際接待費も販売促進費として重要である。これは、接待先の会社、役職などに応じた基準を作ってコントロールしたほうが無難である。
 使い方を大きく誤るものは広告宣伝費である。これは、見境もなく使われているといっても決して過言ではない。そして、使っている金額に応じた安心感を持ってしまう。ここに、大きな落とし穴がある。「販売戦略篇」を参照されて、誤りのない使い方をしていただきたいものである。
 反対に、情報収集費の使い方は極端に少ない。これも大きな誤りである。(中略)
 市場実験費(市場実験については「販売戦略篇」を参照されたし)は、非常に効率の良い費用である。僅かな金額で、非常に信頼度の高い情報を手に入れることができるからである。(中略)
 市場実験費の次に来るのが「販売初期費用」である。商品というものは、発売の初期には販売費用が収益を上回る。これは当然のことであり、これを我慢しなければ育つ商品も育たない。つまり、初期費用は「育児費」なのである。やがては投下費用を上回る収益を期待して投入しなければならないものである。
 以上、ざっと販売促進費に関する説明をしたが、これらの費用は何れも“増分”だけで考えるのが正しいということである。
 配送費に運転手の人件費や車輛の費用を時間割や走行距離に応ずる割掛けをしてはならない。
 在庫費用とは、増分在庫にかかる増分費用――金利増と損耗増が主なもの、新たな借倉庫などが必要な場合にはその借り賃である。
 市場実験費とは、これを担当する人の人件費は、新たに雇うものでなければ、見てはいけない。

セキやんコメント:    縮小均衡は、どこかの政府には薬となるが、企業活動では経費節減による効果を求めて、これに走ってはならないというのが一倉の主張だ。自由経済下では、経費をかけてもそれ以上の収益が得られれば良い(増分計算)という、ごく当り前の考え方を、一倉はすすめているだけなのだ。

「経営の腑」第300号<通算615号>(2020年9月4日)

 長期計画とは  一倉定著「経営計画・資金運用」(社長学シリーズ第2巻:1976年刊)より
 長期経営計画とは普通、「我社の5年後(あるいは10年後)の姿」を決めているものである。つまり「我社の将来に関する決定」である。
 これは、「我社の将来はこうなるだろう」という予測でもなければ、可能性を示したものでもない。「我社はこのようにならなければならない」という社長の決意を示したものである。
 この社長の決意は、単に決意だけで実現するはずはない。それを目標として設定し、活動が起こされなければならない。そのためには「優れた我社の未来を築くために、現在何をしなければならないか」という設問がなされ、その答えを出さなければならない。
 「我社の未来のための現在の決定」こそ、長期計画の真の目的なのである。この意味で、長期計画は我社の将来のためであることはいうまでもないが、「長期計画は我社の今日只今のためにある」といえるのである。
 どんなことであれ、会社にとって重要な革新であれば、それを軌道に乗せるのに少なくとも2年や3年はかかり、実りあるものにするには5年くらいはかかってしまうのだ。だから、5年後にこうなりたい、と決心したならば、それを実現するためには、今、行動を起こさなければならないのである。
 それだけではない。5年後にこうあるためには、2年後にはどうなっていなければならないか。3年後はここまで進んでいなければならない、という“中間の目標”が必要なのである。それらの目標を達成するための様々な活動と、その間のバランスをとらなければならない。このようにして初めて目標が達成されるのである。
 そして、それらの活動は社員が行うものである限り、社員がよく理解し、協力してくれなければならない。社員だけではない。外部の人々…特に金融機関の援助が絶対条件である。
 だからこそ、社長の意図とそれを実現するための条件を、長期計画(または構想)に明文化し、それらの人々によくよく説明し、協力や援助を求めなければならないのだ。
 そこにある社長の経営理念、構想、目標、決意、執念と、そのための社長自らの協力要請こそ、それらの人々の心を揺り動かし、社長の意図実現のために力をかしてくれるのである。
 長期計画の必要性とは、以上のようなことなのである。

セキやんコメント:    また、291号「長期構想はたえず書き替える」で掲載した通り、市場環境やお客様の嗜好が常に変化する限り、我社の未来をスタティック(静止的)にとらえてはならない、というのが一倉の教えだ。この「変転する」というとらえ方が一倉イズムの特徴であり、実務的に圧倒的成果を創出する強みなのだ。

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