Sekiyan's Notebook グローカルニュース〜経営の腑

セキやん通信「経営の腑」


第306号“計画の最高峰は経営方針”<通算621号>(2020年11月27日)

第307号“計画どおりいかなくとも計画は必要”<通算622号>(2020年12月11日)

第308号“作業改善の考え方はまちがい”<通算623号>(2020年12月25日)

第309号“売価からコストが決まる”<通算624号>(2021年1月8日)

第310号“サカダチしている予算統制”<通算625号>(2021年1月22日)

「経営の腑」第306号<通算621号>(2020年11月27日)

 計画の最高峰は経営方針  一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
 経営方針は、経営者が自分の会社をこうしたい、こうする、という意思を表現したものである。会社の将来をきめる最高の計画である。
 会社のあらゆる活動、そこに働く人々のあらゆる行動は、すべて経営方針に基づくものであり、経営方針に規制されるのがほんとうである。
 経営方針のないところ、経営活動はありえない。内部管理も合理化もないのである。
 どこへ行くかもきめずに、馬車(会社)を走らせることは意味がないのである。経営方針なくして、会社を経営することはできないのである。それなのに、なぜ経営方針に対する関心が、世間一般にこうも薄いのか、不思議でならない。
 “方針なき経営”とは考えただけでもナンセンスである。このナンセンスが、現実に多くの会社の姿なのである。まことに驚くべき現象である。
 経営方針そっちのけで、近代的管理技術や手法の導入に、うき身をやつしている会社がいかに多いことであろうか。「デミング賞をもらって倒産」(田辺昇一氏)とは作り事ではないのである。ほんとうにあった話なのだ。これではまったくの本末転倒である。
 馬車をどこへもっていくかもきめずに、馬を調教し、手綱さばきを訓練し、馬車の手入れをしている。いくらこのようなことをしても、馬車の進めようがないではないか。
 うちの会社は“オンリー”だから、といって、一宿一飯の恩義に報いるだけでいいのであろうか。いままで何とかやってきたのだから、といって、明日も定めぬ旅芸人的経営をしているのではいけないのである。
 馬車を整備するまえに、まず馬車をどこへやるのか、目標をはっきりときめるのである。行先がハッキリときまれば、その目標を達成するために馬車をどのように整備し、馬を調教し、人を訓練するか、がきまってくる。
 たとえ、馬車は多少ガタでも、手綱さばきがヘタであっても、行くべき方向をはっきりと見つめて、わき目もふらずに進めば、着実に目的地に近づくことができる。
 馬車そのものは、いかに優秀であっても、行先がきまらなければ進めようもない。行先を誤れば破綻が待ちうけているのみである。
 「決定の優秀な非能率会社は、決定のまずい能率会社より優秀である」(ドラッカー)のだ。(中略)
 経営は環境に順応することによって生きられるものではない。環境をみずからの力で変革することによってのみ、存続できるのだ。これを行うことができるのは、“経営者の意志”のみである。
 この意志を“明文化”したものが経営方針なのである。明文化しないものは、経営方針ではない。“経営者だけの考え”にしかすぎない。考えだけでは、いうたびにニュアンスが違い、下に誤って伝えられることになるおそれが多いからだ。
 「ラッパもし定め無き音を出さば、誰か戦の備えなさん」という聖書の言葉がある。
 優秀な会社とボロ会社の根本的違いは、資本でもなければ、設備でもない、技術でもない。それは経営方針の有無と優劣なのだ。この経営方針を打ちだすものは、経営者自身であって、他のだれでもない。
 「いい連隊とか、悪い連隊はない。あるのは、いい連隊長か悪い連隊長だけである」(ナポレオン)

セキやんコメント:    「戦略の誤りは戦術でカバーできない」のたとえを引くまでもなく、いかに強者どもを集めても、綱引きの綱を勝手な方向にてんでんバラバラに引いたら、綱引きには勝てないのだ。

「経営の腑」第307号<通算622号>(2020年12月11日)

 計画どおりいかなくとも計画は必要  一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
 S県のH市にあるF製作所は、業界でもトップクラスの優秀会社である。F社の納期は判で押したように確実で、得意先からの信用は絶大である。
 このF社も、はじめからそうなのではない。かつては遅れ遅れでテンヤワンヤの時代があったのである。ある年のこと、社長は断乎として、この状態を改革し、納期を確保しなければならないと決心した。そして、工程管理制度を導入したのである。
 ところが、その結果はみじめなものであった。6カ月で2カ月の遅れをだしてしまったのである。このとき、社長はどう考えたか。
 「計画通りいかないなら、計画なんか立ててもダメだ」とは考えなかった。
 「なぜ2カ月も遅れたのか、その遅れをなくすにはどうしたらいいか」と真剣になって考えたのである。
 それから3年、必死の努力がつづいた。その努力の結果、かちとった納期なのだ。納期ばかりではない、品質も向上し、生産性も上がったのである。
 筆者はその会社へうかがったことがある。いたるところ苦心のあと歴然たるものがあり、独特のくふうが随所にみられるだけでなく、たえまない工夫が、日常の仕事の一部のようになっているのに、賛嘆の声を禁じえなかったのである。
 計画どおりに事がいかない場合に、二つの考え方がある。その一つは、
 「だから計画をたててもダメだ」という考えであり、もう一つは、
 「計画通りいかないのはなぜか、どうしたら計画どおりいくか」というものだ。
 前者は「障害があるからできない」という消極主義者であり、後者は「障害をつぶすにはどうしたらいいか」という積極主義者である。
 このどちらを選ぶかで、行動は180度違ってくる。そして結果も。
 世の中に障害のない仕事はない。また、その障害をそのまま計算のなかに入れてたてた計画なんて意味がない。そんな計画をたてて「改革を完遂した」と満足するやつはアホだ。
 数々の障害を克服して達成するところに生きがいがあり、向上があるのだ。
 たとえ、計画通りいかなくても、計画を放棄したらダメである。あくまでもこれにかじりつき、やりぬく執念が大切である。
 計画品質が達成できなくとも、あきらめてはいけない。あくまでもねばることである。ねばりぬいたその末には、きっと好結果がえられるのだ。
 計画された原価まで、なかなか下がらなくても、あけても暮れても努力していれば、必ず達成できる。
 障害をならべたてるのは、できない言いわけのためではなくて、これをつぶすためである。計画を達成するためである。

セキやんコメント:    事業経営とは、わが社の未来を創り出すことである。そのために、地に足をつけ、現実に正面から向き合って活路を見出し、自らの意志をもって自らが希望する未来に向けて実現努力することに他ならない。その拠り所となるのが、計画なのである。そのとおりいくか行かないかは二の次である。

「経営の腑」第308号<通算623号>(2020年12月25日)

 作業改善の考え方はまちがい  一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
 作業改善の直接の目的は、工数を節減し、あるいは品質を向上し、あるいは安全な作業をすることであろう。そして、従来の考え方は、
  1.現状を調査し  2.これに改善を施し  3.新しい基準を作る  ということであろう。
 なるほど、一応はもっともである。しかし、あくまでも一応である。よく考えてみると非常におかしい。
 改善を施すというなら、いったいどれだけ改善せよというのか。一つ改善しても改善であり、十の改善をしても改善である。
 一つでいいのかわるいのか、十すればそれ以上は必要があるのかないのか、どうもはっきりしない。このへんのところになると、“改善は永遠にして無限である”ということで逃げられる。どうも、“できるだけ改善する”ということらしい。“できるだけ主義”である。
 できるだけ改善すればいいのだから、これは主観の問題である。なんとも、つかみどころのない話である。
 いままで100分かかっていたものを、これからは80分でつくらなければやっていけない。というのに、「できるだけ改善に努力しました。結果、5分工数が節約されて、これからは95分でできます」でいいのだろうか。
 どうしても工数を20分節約しなければならない切実な要求から、作業改善を行わなければならないのだ。
 だから、“最大の改善”ではなくて、どうしてもこれだけは絶対に改善をしなければならないという必要“最小限の改善”というのがほんとうなのである。
 できるだけ改善したところで、生きるために不足ならば、それは当事者の自己満足か言い訳にはなっても、経営的にみたら落第である。ギリギリのところ、これだけはどうしても、ということでなければならないのだ。
 だから、当然のこととして、「いつまでに、ここまで」という目標(新基準)が第一にくる。そして、現状を調査し、目標とのギャップをあきらかにする。このギャップをつめるのである。であるから、本当の考え方は、
  1.目標(新基準)が設定され  2.現状を調査し  3.新基準と現状とのギャップをつめる
 という考え方が正しいのである。
 従来の考え方は、単なるテクニックをいっているにすぎないのだ。
 このテクニックのみを教えるから、教わった方は、これを使って、他人のやっていることを改善するんだ、とばかりに、アラさがし然としたことをやるから、現場から猛烈な反対をくらう。当然である。現場で反対するのは、作業改善に反対するのではなくて、傷つけられた自尊心と名誉(プライド)のために反対するのだ。
 経営者から示された目標を達成するために、当事者の責任において、どうしても解決しなければならない懸案…これが作業改善という形をとってあらわれるのだ。当事者に荷が重かったら、当事者が生産技術者に援助を求める、というのがほんとうなのだ。これならば、現場で反対するもしないもないではないか。
 それは理屈だ、とお考えになる読者が、もしもいらっしゃるなら、まず経営者から、あるいは上司から、はっきり目標を示されているかどうかを考えていただきたい。おそらく、そうしたものは示されていないであろう。もしも目標を示されていないならば、作業改善を行うことは意味がない。上司が望まないことは、しても甲斐のないムダな努力である。

セキやんコメント:    改善は目標ありき、という指摘だ。別の言い方をすると、「目指すは、全体最適であり、決して部分最適ではない」ということである。特に問題意識の高い人材は目の前の「より良く」を常に意識するが、同時に全体効果を意識しないと、自己満足的な部分最適に終わってしまうことがあるので、要注意だ。

「経営の腑」第309号<通算624号>(2021年1月8日)

 売価からコストが決まる  一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
 「この商品は、これだけのコストがかかりました。だから、これこれの値段で買ってください」という考え方は、現実には通用しない。通用するのは、現実離れの“原価計算の世界”だけである。
 商品の価格を最終的に決めるのはお客である。たとえ原価がいくらかかろうと、メーカーの家庭の事情はお客には関係がない。お客はあくまでも自分の必要性から価格を決めるのである。
 売手市場でもこの原則は変わらない。必要だからこそ、品物が少なければ高くとも買うのである。買う決心をするのは、あくまでもお客である。
 ましてや、買手市場のときに、メーカーのコストはお客から一顧だにされない。あくまでもお客の意志によって値段が決まるのだ。とするならば、メーカーはお客が決めた価格で売って、引き合うようにする以外に道はない。
 だから、売価からまず必要な利益を引き、残りがコストということになる。このコストでできなければ消え去るより道はないのだ。
 引き合うために、どのような設計にするのか、どのような加工法をとるのか、人件費や経費をいくらであげなければならないか、を考えるより仕方がない。
 「原価のことを考えたら設計できない」「どうもお金には弱くて」というような設計屋さんは、これからの企業体では設計技術者としての資格はないのである。
 あたえられた原価のワクのなかで、目標の品質とデザインを、どのようにして実現させるかに心血を注がなければならないのだ。これが現実というものだ。
 筆者が診断したある会社で、その会社の赤字の原因を、経営者はお得意先からの値下げにある、と考えていた。この会社の赤字の真因は、赤字の原因を値下げされたことにあると思いこんでいる経営者の態度そのものなのである。

セキやんコメント:    価格はお客様が決める、というのが市場原理の鉄則である。一方、わが社の収益体質に合うかどうかもわが社の継続性確保という点で極めて重要であり、ここを押さえないと「労多くして、功少なし」に陥ってしまう。順序としては、わが社の収益構造把握の後で、参入市場の選択を進言したい。

「経営の腑」第310号<通算625号>(2021年1月22日)

 サカダチしている予算統制  一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
 「予算がないからダメだ」というのは、お役所のキマリ文句だと思っていたらそうでもない。企業体のなかにも多くみられる現象だ。新しい仕事をやらなくてもよい、こんなうまい口実はない。ありがたい予算統制である。
 反対に、「経費を予算以下でとどめた」といって、これが功績になる。なんとも不思議な現象である。
 いったい、予算なるものは、いかなるカラクリによって組み上がっているのだろうか。
 多くの会社では、それぞれの部門から、それぞれの計画とそれに要する予算が申請される。それらを合計して総合予算が算出され、全体の調整が行われる。
 ところが、販売計画はいつも低めに提出され、製造の原単位は高めに、経費は多めに計上されている。
 調整会議で、販売はもっとふやせ、原単位をもっと下げろ、経費は節減せよ、といわれるにきまっているからだ。そして、なんとかうまく説明して余裕のある予算のわくをとり、仕事を楽にしようとする。
 予算実績比較表によって評価されるというしくみになっているからである。そして、予算さえ守ればよいというような風潮がひろがってゆく。(中略)
 自己統制意識の向上をねらったはずの予算統制が、自己保身術の昂揚とセクト主義の発生に拍車をかけるようになる。予算統制がかってに動きだして、フランケンシュタインの怪物のようにあばれまわるのである。
 どうも予算統制の考え方が根本的に誤っているとしか思えない。(中略)
 「どんな馬鹿でも予算を守ることはできる。しかし、守るだけの価値ある予算をたてられる人は、めったにいるものではない」(ニコラス・ドレイスタッド)という有名なことばがある。(中略)
 予算は各部門の要求を調整して決定するものではない。こうしたやり方は、どこかの国のお役所でやるやり方である。
 では、企業の予算は、いったいどのようにしてきめてゆくのか。
 ある会社――その会社は業界トップクラスであり、絶え間ない成長と革新が行われている――の例である。
  1.社長が高い売上目標と、利益(売上の10%)を明示する。
  2.残りの90%から、統制不能費と未来事業費(後述)を天引きする。
  3.残りですべての経費をまかなう。
 というのが基本線になっている。このように、企業の予算は、企業の目標からきまるものである。
 予算は頭から決めてゆくものなのだ。経営者がみずからの意志によって予算の大綱をきめるのである。経理技術者が、各部門の要求をまとめ、調整した予算案を、トップに売りこんで理解してもらうものではない。
 ここには、もう水増し経費も、含みのある計画というような、政治的要素のはいりこむ余地はない。はじめからギリギリよりも、もっと苦しい予算がきまっている。これを各部門に割りつけるのだ。当然各部門の予算は全然足りないのだ。その足りない予算でどうやってやりぬくか、これが経理担当者の任務なのである。
 そこには、従来のやり方を守っていればよいというような、のんびりした態度は許されない。
 これがほんとうの予算統制である。(以下、未来事業費のくだり省略)

セキやんコメント:    企業の目標は「手に入れたい結果」から逆算してつくるものである、というのが一倉式だ。そして、「手に入れたい結果」=「生きるための条件(年間固定費)」+「必要利益(トップの意思)」である。実にシンプルだが、本質である。しかし、このことを教える人物が世の中に少ないのが実態だ。

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