Sekiyan's Notebook グローカルニュース〜経営の腑

セキやん通信「経営の腑」


第311号“定員制のあやまり”<通算626号>(2021年2月5日)

第312号“実施とは「やらせる」こと”<通算627号>(2021年2月19日)

第313号“きめられたことは守らせよ”<通算628号>(2021年3月5日)

第314号“仕事の現実”<通算629号>(2021年3月19日)

第315号“重点主義に徹せよ”<通算630号>(2021年4月2日)

「経営の腑」第311号<通算626号>(2021年2月5日)

 定員制のあやまり  一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
 定員制とは、企業目的を果たす活動をするために、どのような適性または職務の人間を、何人必要とするか、というようなことを調べて、これを定員として配置するということらしい。
 そこで、科学的、客観的な業務分析を行って、科学的に正しい定員が何人であるかをきめろ、というのだ。
 こういうのを観念論という。科学的な業務分析なるものの内容を、ちょっとのぞいてみれば、いまやっている仕事の種類と量を洗いあげて、他の仕事との関連で判断する、という程度のいいかげんなものだ。何も科学的なものなどない。会社のなかの仕事を、たとえどのような方法を用いようと、科学的に調べることなど、できない相談なのだ。なにか、一定のルールにしたがって、調べると科学的ということになるらしい。ところがルールそのものが非科学的なのだから、どうやってみても、結果は科学的であるはずがないのだ。
 こうした方法で算定した人員を定員としてきめられるなら、だれも苦労しないですむ。提示された定員が、もし現状より多ければ、労働組合も、ライン幹部もそのままのむにきまっている。
 多くの場合、それは現状より少ない。この場合は反対されるにきまっている。仕事は多勢でするほうが楽にきまっている。少人数で仕事をしても、それが昇給に結びつくわけではない。部下から不平が出るのがオチである。人員を減らす提案が、すなおに受け入れられるほうが不思議である。そもそも、“企業目的を果たすための活動”なんて、漠然としたことをいってみても、論議が分かれるだけである。
 当事者は、必要な仕事だと思うからやっているのだ。それを他人が不必要だといってみても、話し合いがつくわけがない。
 いま、かりに百歩譲って、定員が決められたとする。しかし、企業は生き物である。たえず変転する情勢に対処するために、企業は変わる。製品が変わり、組織が変わり、制度も変わる。そのたびに定員の査定を“科学的”に行っていたら、ほかの仕事は何もできなくなる。
 つぶれる心配のない、お役所仕事ならいざ知らず、企業体のなかで定員制を取ろうとすること自体がまちがっている。
 人員は、職務や職能からきまってくるのではない。事業の目標からきまってくるのである。
 わが社の目標はこれこれである。これだけの利益をどうしても上げなければならない。そうするには、「人件費のわくはこれだけである」とか、「その人件費で賄える人数は、これだけである」とか、「一人あたり付加価値目標からどうしてもこれだけの人数でやらなければならない」というふうに、上からきまってくるのである。それを各部門に割りつけるのだ。
 各部門では、割りつけられた人員で、目標を完遂するにはどうしたらいいかを考え、工夫するのである。
 (中略)
 あれやこれやで間接人員はふえる一方である。しかし、困ったことには、「間接人員が多すぎる」という判定をくだす確固とした根拠がない。根拠がないから、多いとは思いながら当事者の要求に負けて人員を増やさざるを得ないのである。まったく頭の痛い問題である。そこで、筆者は、この問題を生産性の量的な面から測定する方法を考案した。…6章−6・8「採算性の測定はこうして」に詳述。

セキやんコメント:    直接人員でも間接人員でも、「獲得付加価値」と「人員数」の関係から生産性がシンプルに算出できる。これを、一倉式賃率といい、セキやん「S賃率」のベースである。要は、わが社が「生きるために必要な付加価値額」をそれぞれの部門が稼ぎ出すことが肝心で、その指標がS賃率なのである。

「経営の腑」第312号<通算627号>(2021年2月19日)

 実施とは“やらせる”こと  一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
 実施とは、計画をやらせることである。やることではない。自分にやらせ、部下にやらせ、協力工場にやらせることなのである。
 やらせるために、まず必要なものは計画である。計画なくして実施させることは、できない相談だ。
 「部下が思うように動かない」という嘆きをよく耳にする。しかし、部下が動かないことを嘆くまえに、自分に確固とした計画があるかどうか、を反省してみる必要があろう。
 つぎに、それを上司に、同僚に、部下に、協力工場に、知らせているかどうかを考えてもらいたい。
 知らない計画は、ないのと同じである。計画を知らせずに、部下が思うように動くわけがない。部下はどうしていいか、わからないから、自分だけの考えで勝手に動くほかないのである。部下が思うように動かない、まず第一の原因はここにあるのだ。
 まず部下に目標を与えることだ。目標のない行動は“できるだけやる”ということになる。“できるだけ主義”ではダメなことは、既に述べたとおりである。
 われわれの行動は、つねに目標がなければならない。“これだけ主義”でなければならないのだ。
 目標とは決意である。決意に基づく行動が実施であって、目標もなく右往左往することは実施ではない。
 ある会社の社長に聞いた話である。……
 「私の会社の主製品は、3年前に工費1個300円であった。それを、私は80円に下げるという決意をし、これを宣言した。これを聞いた部下たちは、『そんなムチャな』と私の大見得を批判したのである。ところが、現在100円である。80円になる見通しもすでにたっている。これも自然に下がったわけではない。『どうしても下げる』という私の決意と、『必ず実現できる』という信念のもとに、私が合理化の先頭にたった。部下もよくついてきた。だからできたのだ。いま、また新しい目標を立てている。これを部下に示したら、『とても、ムリです』という。私は3年前に300円を80円に下げると宣言をしたとき、きみたちは、やはり、いまと同じことをいった。しかし、りっぱに実現したではないか、今度のこともこれと同じだ。社長の私が何割の部分を受け持つから、君たちは何割の部分を受け持て、と言い聞かせている」
 成るか成らぬかの境目はここにあるのだ。

セキやんコメント:    トップ自らの決意を目標とし、計画に具体化する。そして、社内で周知徹底・共有し、それぞれの役回りを果たす。そのことを一倉は、あえて“やらせる”と表現している。そして、目標もなく右往左往することを、一倉は「闇仕合(試合)」と糾弾している、けだし名言、言いえて妙である。

「経営の腑」第313号<通算628号>(2021年3月5日)

 きめられたことは守らせよ  一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
 ある会社で、工程管理がどうしてもうまくいかなかった。その会社は、アメリカ某社と提携していて、提携会社の工程管理制度をモデルにしてつくられた制度なのである。そこで、提携先にこうて、指導を受けたのである。診断の結果は次のようなものであった。「貴社の工程管理制度はりっぱである。制度自体に大きな問題はない。問題なのは、その制度を守ろうとしない、貴社の態度である」という手きびしいものであった。
 ここに真理がある。平凡な真理である。
 この会社に限らず、一般に日本人は決められたことを守ろうとしない。会合の時刻さえ、なかなか守れない。
 時間を守らない日本人の経営する、日本の鉄道は、世界一正確に時間を守る。東京駅の操車は、“魔術師”であると外国人を賛嘆させる。これも時間を正確に守ればこそできる離れ業である。
 日本人は時間が守れないのではなくて、守ろうとしないのだ。要するに、態度の問題である。(中略)
 きめられたことを守らないことに対する言いわけとして、忙しいということと、実情に合わない、という二つの理由があげられる。忙しいのは、特別の場合のほかは、仕事のやり方がまずいか、時間の使い方がヘタなのか、どちらかであるから、それ以上ふれないこととして、“実情に合わない”ということを少し考えてみよう。
 きめられたことを守るということと、きめられたことに対する批判は別である。
 実情に合わない、だから守れない、という考え方は、もっともらしいけれども、危険な考え方である。社会の治安も、会社の秩序もありえないからである。
 もし、規定が実情に合わないのなら、規定そのものを変更して、そのとおり守るのである。規定が存在するかぎり、それに対する批判はどうであろうと、守らなければならないのだ。この考え方を、規定を守ろうとしない連中でも、図面に対しては持っているのである。
 図面どおりでは、やりにくくとも、高くついてもそのとおりつくらない、ということはしない。泣く泣くでも図面どおりのものをつくる。じつに従順である。(中略)
 このように、図面に対しては正しい態度がとれるのに、なぜ制度や規定になると、正しい態度がとれないのであろうか。
 きめられたことは。忠実に守れば守るほど、その欠点が良くわかる。そのとおりにやってみずに批判しても、それはほんとうに権威のある批判とはいえない。
 きめられたことを忠実に守るということは、よりよい道を見つけるための最短距離でもあるのだ。
 しかし、決めたことは守らせる、といっても、決めさえすればそれでいいというものではない。何がなんでも守らせるという決心は必要であるが、決心だけで手をうたないのではダメである。
 守らせるからには、守らせる人は守る人以上にやらなければならない。なにをやったらいいか、を考え抜かなければならないのである。
 組織が必要ならば組織を、設備が必要なら設備を、技術が必要なら技術訓練を、その他いろいろな要因を考え、それにアイデアを加えて考え抜き、くふうし、実行しなければならない。
 不可能を可能なものに変質させることは、手をこまねいていてはできることではないのである。

セキやんコメント:    一倉式の環境整備では、清潔・整頓の前に「規律」を求める。それは、@決めたことは必ず守る A命令や指図は必ず行われる の二要素で構成される。単純明快に、組織人としての在り方の「しつけ」であり、組織維持の根幹である。本項でも、この持論を確認しているのである。

「経営の腑」第314号<通算629号>(2021年3月19日)

 仕事の現実  一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
 仕事の現実は、
  1.かぎられた時間のうちに
  2.不完全な資料をもとにして
  3.事態を把握し、判断し、決定し、行動する      ものである。
 われわれの仕事には、無限の時間は許されない。必ず期限があり、納期がある。いくら時間の不足を訴えてみても、時を止めることはできず、会社の内部事情はどうであろうと、お客は待ってくれない。
 技術革新は、ますますそのテンポを速めている。つねに時間との競争であり、かぎられた時間のわく内で仕事をしなければならないのである。
 そのうえ、仕事を行うために必要な完全な資料を得ることは、いかに有能なスタッフを大ぜいそろえても、どのような努力をはらっても、絶対に不可能なのである。われわれの仕事には、あまりにも不確定要素、変動要素が多すぎる。
 やっと得られたわずかな情報も、それはその情報を得た時点におけるものであって、「釣った魚と情報は、それを得た瞬間から腐りはじめる」ということを考えたら、われわれの利用できる情報に、真実の姿を伝えるものは、きわめてわずかであると思わなければならないのだ。
 このような悪条件のなかで、われわれは事態を誤りなく把握し、冷静に判断し、果敢に決定し、勇敢に行動しなければならないのである。
 われわれに大切なことは、かぎられた時間のうちに事を行うためには、最低限どのような情報が必要であるか、を判断することなのである。情報収集は“あらゆる情報”ではなくて、“最少限度ギリギリ必要”な情報なのだ。そして、集められた、わずかな、そして不正確な情報をもとにして、将来を予測し、事態を把握し、総合して判断をし、決定をしなければならないとするならば、そこに必要なものは、知識でもなければ技術でもない。思索であり、知恵なのだ。そして決断をくだす勇気なのだ。
 ああ、しかし、現在のマネジメント論は、知識、技術のみに焦点を合わせ、いかに実践能力を軽視していることだろうか。
 仕事に科学的な原則があることは確かであるかもしれない。けれども、その原則にしたがいさえすれば、成果が上がるような教え方をするものが多すぎる、という印象をうけるのである。
 「単なる知識や技術は人間をあさはかにする」(田辺昇一) ばかりである。
 知識、技術をほんとうに生かすものは何か…をわれわれは、よく考えてみる必要があるのではなかろうか。

セキやんコメント:    20年以上前に読んだ本に著名な経営者が「駄目な人間」の3要素として、@自分の不完全性に気づかない A時間の有限性に気づかない B使命と志に気づかない と書いてあったのを思い出す。世の中、「不完全で」「限りがある」なかで腹をくくって前に進んでいく、ということのようだ。

「経営の腑」第315号<通算630号>(2021年4月2日)

 重点主義に徹せよ  一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
 仕事の現実は、かぎられた時間のうちに遂行しなければならないとすれば、何もかもやろうとか、完全にやろうとか、することはおかしい。
 何もかもやろうとしたら、何もかもできなくなる。完全にやろうとすると、時間はいくらあっても足りないのだ。
 したがって、いやでも重点主義にならざるを得ないのである。だから、はじめからその仕事は何が重要なのかを考え、どうしてもしなければならないことだけに限ることである。
 「働くという字は、人が重点に力を注ぐことである」(宮村邦雄)という表現は、この真理をうまく説明している。
 旧日本軍に、“作戦要務令”というマニュアルがある。その要綱に「戦捷の要は、有形無形の各種戦闘要素を総合して、敵にまさる威力を要点に集中発揮せしむるにあり」というのがある。
 旧日本軍への批判は別にして、この要綱は、巨額の費用と長い年月と、尊い多くの人命を犠牲にしての“経験哲学”なのである。これが重点主義の極致であろう。
 戦争の名人、ナポレオンの中央突破戦法はこれである。もっているだけの大砲を集めて、敵陣の中央に集中砲火を浴びせて、ここを突破し、敵陣を二分して一挙にやっつける、というのだ。
 ひたすら目的を達しようという執念と死にものぐるいの努力は、必然的に重点主義となっていく。
 「成功する人は、キリのように一点に向かって働く」(ボビー)、というのも重点主義であろう。われわれの仕事にはつぎからつぎへの障壁が待ちかまえている。もっているわずかな力で、この壁を破ることは容易なことではない。壁を押してもなかなか倒れるものではない。こういう時には、まず一か所をキリで穴をあけ、この穴を広げるのだ。この“ドリル戦法”はきわめて有効なやり方である。
 この重点主義を裏返して考えてみると、“やらないことを決める”ということになる。この判断と決断こそ大切である。
 しかしながら、やらないことを決めるということは、並大抵のことではない。昇進させる人を決めるより、昇進させない人を決める方が難しいのであり、設計でも、強度を持たせることよりも、強度を持たせないところを決める方が難しいのである。かの零戦は、空戦性能を徹底的に追求した半面、防御力はほとんど零に等しかったということである。重点主義の手本である。組織、機能も簡素化することの困難さは、経験した人のよく知るところである。
 この苦しさをのりこえ、あえて、やらないこと、省く個所を決めなければならないのが現実なのだ。完全主義は非現実的であり、これは、失敗に通じる道である。

セキやんコメント:    有能?なコンサルタントには、自らの知識レベルをベースに事を進める傾向が少なからずある。一方関与される企業側には、日常業務が最優先という事情があり、手に余る多くの課題・宿題を出されても、当然ながらこなせない。そこで「結果が出ないのは企業側がやらないから」と、まことしやかに指摘する。結果が出ない真因、課題の絞り込みができていない自らの責任を顧みることもなく…。

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