Sekiyan's Notebook グローカルニュース〜経営の腑

セキやん通信「経営の腑」


第316号“科学的接近という考え方の罪悪”<通算631号>(2021年4月16日)

第317号“知って行わず”<通算632号>(2021年4月30日)

第318号“差をとらえる”<通算633号>(2021年5月14日)

第319号“六日のアヤメ、十日のキク”<通算634号>(2021年5月28日)

第320号“報告書主義の誤り”<通算635号>(2021年6月11日)

「経営の腑」第316号<通算631号>(2021年4月16日)

 科学的接近という考え方の罪悪  一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
 科学的接近とは、
  1 問題(あるいは目的)をあきらかにする
  2 それに必要なあらゆる事実を集める
  3 事実に基づいて実施可能な目標をたてる
  4 計画に基づいて実施する
  5 統制する
 ということであるらしい。この考え方は、人の魂を腐らせる毒をもっている。
 いったい、“あらゆる事実”とは、なんという現実ばなれの空論であろうか。あらゆる事実とは、何をもって“あらゆる”ということがいえるのか。これがあらゆる事実である、といえる人は世のなかに一人もいないはずである。
 ここを責任のがれに利用されるのだ。あらゆる事実を集める時間がなかった。だから結果が悪いのだ、という言いわけがなりたつからだ。その時間をあたえなかった上司に責任があるというのである。実際にこうした言いわけを故意に利用するわけではないけれども、心のどこかに、この言いわけを用意しているのだ。
 これが、おそろしいのである。理論的には正しいようにみえても、だからいいのだとはいえない。現実というものはおそろしい。こうした理論の盲点を利用して、責任のがれが行われているのだ。私自身、部下から何十回、このような言いわけをされているかわからないのである。そのたびに、その考え方の誤りであることを再教育しなければならなかったのである。
 “完全に”、“もれなく”、“すべて”というような表現は、観念的にまちがってはいないであろうが、現実には、このようなことは望めないのである。ここをつかまえて、責任のがれに利用されるのだ。現実に望めないことは、いわないほうがよい。
 “実施可能な”という考え方の罪悪は、計画のところですでに述べておいた。
 なにはともあれ、マネジメントの理論は、あくまでも現実を対象にしたものであるだけに、理論的に誤りがなければいいものではないことを、よくよく考えたうえで教えてもらいたいものである。

セキやんコメント:    一言でいえば、頭でっかちの理論は使えない、という指摘だ。空理空論を徹底的に排除する一倉イズムの真骨頂である。事業経営という実戦活動で成果(=戦果)を出し続けるのは、一倉のいう“春の野のピクニック”気分に酔ったような空虚な理論のお遊びでは、話にならないということだ。

「経営の腑」第317号<通算632号>(2021年4月30日)

 知って行わず  一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
 統制とは“計画と実績の差をとらえて、これをつめること”である。ということは、一応勉強した人ならだれでも知っている。しかし、知識としては知っていても、果たしてどれだけ実行しているであろうか。
 実行しない知識なら、ないほうがいい。目標をたてる、計画をたてる、まではやさしい。だれでもできることである。むずかしいのは実行であり、なおむずかしいのは統制することである。筆者は職業がら多くの会社、多くの人に接している。そして、それらの人々の行動をみるにつけ、つくづく感じることは、統制の弱さである。
 いったい、なぜこうも統制力が弱いのであろうか、といつも考える。
 その原因はなんであろうか。なんといっても、まず第一にあげられることは“生きるため”に、何がなんでもやらなければならない、という絶体絶命の立場にまで追い込まれていない、またそうしなくても食ってゆけるならば、それほどにしなくてもいい、という考え方があるのではないか。人間の弱さであろう。
 そういう人達はそれでもいいだろう。多くをいうまい。
 しかし、事にあたるのに、たとえ絶体絶命の立場に立たなくとも、自分の人生観、使命感をもつべきである。そして、それの実現のために死力を尽くすというのが、生きがいである。
 とするならば、その人生観、使命感を具現するための、“高い目標”を自分自身に課し、これをやりぬくという決意と行動がなければならない。
 高い目標に到達するその過程には、数えきれない多くの障害が横たわっている。
 それらの障害をのりこえ、ふみこえて、一路目標に邁進するためには、執念こそたいせつである。七転び八起き、根性、ねばり、いろいろなことばがある。こうしたものが統制の根本精神であり、態度なのだ。
 計画と実績の差をとらえ、これをつめるということは、たんなるテクニックの問題である。統制をたんなるテクニックとしてとらえるから、ああでもない、こうでもない、だから計画どおりいかない、と寝言ばかりいうことになるのだ。
 いくら、できない理由をあげてみても、そんなものは三文どころか一文の値うちもない。値うちのあるのは、成果のみなのだ。やり遂げた結果のみが尊いのである。

セキやんコメント:    現在の単なる延長(成り行き)では現状を変えることはできない。現状を変えるには、アクションを起こす必要があると、一倉は指摘している。リスクを最小限にした上で、まず「やってみる」そして「うまく行ったら続ける。うまく行かなかったら対処改善する」という当たり前のことをすれば良いだけだ。

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「経営の腑」第318号<通算633号>(2021年5月14日)

 差をとらえる  一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
 計画と実績との差をとらえて、これをつめることが統制であるなら、まずその差をとらえることから、はじめなければならない。
 ところが、差のとらえ方からして問題がある。合格率、出勤率、達成率というようなことばをよく聞く。軽い意味でこうしたことばを使うのはさしつかえない。また、計算上の数字としてこれを使うことも必要である。
 しかし、それだけでは困る。管理の考え方からみると、これらは計画や標準と実績との“差”ではなくて“実績”だからだ。
 管理的にいえば、不合格率、欠勤率、不達成率という表現が正しいのである。計画達成率90%だから好成績だ、と満足しているのではいけない。計画より10%少なかった。その原因はどこにあるか、という考え方をすべきである。合格率97%というのは、97%に問題があるのではなくて、3%の不良に問題があるのだ。
 ある会社で、品質管理制度を実施していた。品質管理課が設けられてあり、各部門からの報告制度は完備していた。しかし、不良率は、数年来10%の線を横ばいである。一項目の異常値は3%にきめられていた。はじめにはこれが5%であったので、品質は大いに向上しているというのである。異常値に関するかぎりこれは真実であるが、これだけで満足しているのでは困るのである。不良率10%の横ばいをなんとかしなければならない。筆者がその会社にうかがったとき、生産技術課長からこの相談をうけた。生産技術の立場から、この問題を解明したいというのである。
 そこで、完成品検査のデータを不良項目別に、パレート分析してもらった。ところが、50項目ほどの不良項目のうち不良数の50%を4項目で占め、しかもそれらがいずれも致命的欠陥であることがわかった。さらに、その4項目の不良原因を調査してもらったところ、一個所の設計の不適切が、それら4項目の個所になってあらわれる、ということがわかったのである。一つ一つの項目は、いずれも3%以下なのと、手直しがきくという理由から、品質会議ではほとんど問題にされていなかったということだ。致命的欠陥であるし、またこれを解決すれば、不良は半減するので、この点を最重点としてとり上げるよう勧告したのである。
 また、別のある会社で、その会社は在庫管理がきびしく、組立て待ちの購入品は二日分ということになっていた。毎日在庫日報が出されて、それには、過不足が記入されていた。購買係は、これによって購入のコントロールをするというのである。よく行われている方式である。
 この制度での問題を調べてみたところ、在庫の絶対数が二日分以上か以下か、という報告であって、生産計画を基準にした二日分先行に対する過不足ではないのである。そこで、生産計画と照合してみたら、絶対数では過剰在庫であっても、生産計画に対しては正常在庫であったり、正常在庫として報告されているものが、実は不足部品であったり、その逆であったりしているのだ。であるから、欠品によって遅れていた製品が、その手当ができて、遅れを取り返そうとすると、たちまち組立て待ちの購入品に不足ができてしまうのである。
 以上の例は、そんなバカな、と思われるようなことだが、実話である。現実には、こうしたことが多いのである。
 何を基準にし、どういう数字をとらえるべきか、ということをよく見きわめていないと、このようになってしまうのである。といっても、べつに、むずかしいことではない。計画や標準を基準にすればいいのである。

セキやんコメント:    未知な将来に対しあえて策定する計画の本当の意味は、「この計画と実績との差を読むため」である。そして、この「差」とは、厳しい現実が教えてくれる計画者の思惑とのギャップであると認識し、そのギャップにいかに対応するかが、経営の要諦である。だから、その通りいかなくても計画は必要なのだ。

「経営の腑」第319号<通算634号>(2021年5月28日)

 六日のアヤメ、十日のキク  一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
 進度表は、これによって“遅れを発見して手をうつ”ためのものではない。遅れを発見するのに、進度表は不要である。納品が遅れればお客から督促がくるし、材料や部品が遅れれば、製造部門から文句がくるからである。進度表は、遅れそうなものを未然に発見して手をうつためのものである。
 PM(設備予防・保全)は文字どおり、故障や災害を未然に防ぐためのものである。
 われわれの仕事は、治療主義ではなく、予防主義がほんとうである。予防するためには、差を早めにとらえるのでなければ、対策の時間がなくなる。早めにとらえることが絶対にたいせつである。 そのためには、どこでとらえるか、どのようなとらえ方をするか……ここがポイントになる。
 “六日のアヤメ、十日のキク(時機を失してしまう。一日遅れでも)”になってしまってからでは手のうちようがない。遅れました、なぜ遅れたのかといってみても、遅れたものは、いまさらどうにもならない。死にました。どうするか、死んだものはいまさら仕方ありません、というのと同じで、処置なしである。このような死亡診断書は、会社にとってはなんの役にもたたない。早めに差をとらえた、健康診断書こそ必要なのだ。
 典型的な死亡診断嘗は、財務報告書である。大部分の会社で、非常に時間がかかる。月次報告なら締切り後三日以内に、年次報告でも、外部報告は別にして、十日以内にできなければ意味がない。
 これは、時代遅れの会計学そのものに原因の大部分がある。
 筆者は月次も年次も報告は締切り後三日以内に報告できるような、管理的報告書をくふうして、 これをすすめている。すでに数社に導入して喜ばれている。正確さや立派さでなく、実戦に役だつためにはタイミングこそ絶対条件なのである。

セキやんコメント:    常に変転する事業環境下だから、経営状況は動き続ける。したがって、適時に適切な対処が必要となる。机上で静止的(スタティック)な空論をふりまわしても何の役にも立たない。だから、過去の結果をまとめた財務会計ではなく、未来対策が講じられる管理会計が必須なのだ。

「経営の腑」第320号<通算635号>(2021年6月11日)

 報告書主義の誤り  一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
 ある量産会社の工程管理制度を調査したときに、“部品遅延報告書”というのにぶつかった。どうも、工程管理の権威者と称する人が頭のなかだけでつくりあげたものらしい。念の入ったことに、“遅延回復計画書”まである。遅延報告書を書いているうちに状況が違ってくる。遅延回復計画書にいたっては、完全な作文だ。
 だいたい、量産の場合に、部品が遅れたからといって、その報告書を書いても意味のないことは、現場の経験を一度でもしてみればだれでもわかる。遅延回復計画書にいたっては論外である。
 遅延は報告しても回復しない。対策を実際にとることによってのみ、回復を期待できるのである。担当者に書類を書かせるよりは、督促にとび回ったほうが効果あるのだ。報告書主義の誤りである。
 これについてのドラッカーの所説の一部を引用(自由国民社刊「現代の経営」)してみよう 。
  “報告及び手続は、経営に必要な道具である。道具のうちでこれ程使い方を誤り易く、損害を及ほし易い道具はほとんどないといってよい。報告及び手続は、正しく用いられていない時には、もはや道具としての役割を果すことはできず、むしろわざわいの種となるものである。
   報告と手続が誤って用いられるにも、三つの場合が考えられる。
   第一の場合は、誰もが手続は規律維持の道具であると信じることである。だがこの考え方は間違っている。手続の本来の意味は、単に能率促進のための手段であったのである。手続は決して仕事の内容を決定するものでなく、どうすれば仕事を最も無駄なく遂行することができるかに役立つだけなのである。(中略)
   第二の場合は、手続が判断の代りをすると考えることである。手続は、判断をもはや必要としない場合、つまり判断がすでに下され、その運用にはただ繰返しだけでよい状態になった場合にのみ、その役割を果すことができる。(中略)
   第三の場合、すなわち報告と手続とを上からの統制の道具として用いるという場合が、誤った用い方としては最も普通である。報告および手続が、上部の経営層に情報を提供する目的でなされる場合、たとえば毎日の事業報告となる書類を提出したりする場合に、この危険は最も大きい。工場の経営担当者によくあることであるが、自分には必要でない情報の書類を、本社の会計係、技術担当者、あるいは幹部達に提供するために二十通も書かねばならなかったりする。その結果その人の注意は自分の仕事からそれてしまう。そして会社が統制上、経営担当者にさまざまな要求をしていると、彼はそれこそ会社が彼に求めているものであり、また同時に、それこそ彼の真の仕事だと思いこむようになる。かくて経営担当者統制の目的に用いられる手続に憤慨しながらも、彼は自分自身の仕事よりもそれに努力を注ぐようになる。(中略)”
 こうして、手続はますます複雑化し、報告書はふえてゆく。どの会社でもほとんど例外なく間接部門の人員が加速度的に増大してゆく。“パーキンソンの法則” はこの間の事情を、英国海軍省の例をひいて、われわれのまえに示してくれている 。
 会社を忘れ、目標を忘れて、ひたすら、手続の複雑化をまねいている姿をわれわれは、よくよく考えてみなければならないであろう。

セキやんコメント:    いわゆる報・連・相は、職場で奨励される。しかし、これはあくまでも「手段」であって、目的ではない。したがって、ルーチンで励行されている場合は、ときどきその要否を吟味してみる必要がある。経験則だが、少しでも「無駄?」と感じた時が、見直しの好機である。

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