Sekiyan's Notebook グローカルニュース〜経営の腑

セキやん通信「経営の腑」


第326号“伝統的な組織論の欠陥”<通算641号>(2021年9月3日)

第327号“組織に定形はない”<通算642号>(2021年9月17日)

第328号“バランスのとれた組織ではダメ”<通算643号>(2021年10月1日)

第329号“責任と権限は等しくない”<通算644号>(2021年10月15日)

第330号“責任のみ押し付けて、権限をあたえないのはあたりまえ”<通算645号>(2021年10月29日)

「経営の腑」第326号<通算641号>(2021年9月3日)

 伝統的な組織論の欠陥  一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
 ドラッカーはその著『現代の経営』のなかで“正しい組織理論”と題して、おもしろいたとえをあげている。その一部を、つぎに引用してみよう。
 『17世紀に入るまでは、外科手術は医者ではなく、理髪師が行うものであった。しかも、この理髪師は、治療するというよりも、徒弟時代に習いおぼえた荒療治を手あたり次第に施してみるといった方が適切な人たちであった。医者は、道徳の名をかりて患者の肉体に傷をつけないという誓いを文字通り守り、切開手術を行うことはおろか、それを見守ることさえ思いもよらぬといったありさまであった。
 しかし正式に行われる手術の場合は、学のある医者が、苦悶する患者のはるか上方の高座に座って、理髪師の行うことを、理髪師には全然通じないラテン語の古典を声高によむことによって指導した。もし患者が死ねば、つねに理髪師の過失となり、患者が回復すればいつも医者の功績になったことはいうまでもない。そして、どちらにころんだところで、余計に料金を受け取るのは医者の方であった。』
 この話の医者が、組織論における学者であり、理髪師が経営者の立場であると考えられるというのである。
 学者は、じっさいのことは何も知らずに、経営者にはわからない組織論を振り回し、経営者はこうした理論を知らずに、ガムシャラに経営にあたっているというのである。
 経営者は、わが社に適した組織はどのようなものがよいか、を知りたがっているのに、学者は組織の構造論のみを説きつづけてきたというのだ。
 このギャップは、どこからでてきたのか、答えは簡単である。学者の理論はタタミの上の水練式なのだ。そんな理論は知らなくとも、昔からりっぱな業績をあげた経営者は多い。
 本田技研工業の本田宗一郎社長は、その著『スピードに生きる』のなかで、次のようにいっている。
 『おそらく組織の点では、現在のわが社などお笑いものである。いや、むしろ私は組織に対してかなり批判的だといった方がいいでしょう。組織が強ければみんな幸福かといえば、炭坑の労働者をみればすぐわかる。
 これは日本一強固な組織であるけれども給料は貰えない(三井炭坑のストライキをさしている)。組織偏重でゆきすぎだから駄目なのである。個人だって同じだ。ゆきすぎては駄目になってしまう。それを頼りにして個人の知恵も出さない。
 組織が仕事をすると非常に個人は楽になるが、そういうことは知恵のない証拠である。みんなに仕事を与えるためには組織も結構であるが、しかしそれが偏重であってはまことにこわいものだと思う。現在わが社でもだんだんこの組織が強くなって、そのためこれに伴うトラブルもある。』
 組織万能論者は、この本田社長の言をもって如何となす。(中略)
 とはいえ、組織理論が不要だといっているのではない。組織のあるかぎり、組織論は必要である。ただそれが、観念的なものだけでなく、動態的な実戦論があってもいいというのである。(中略)
 組織というのは、事業の目標を達成するためのチーム編成である。したがって、組織はすべて事業の目標達成のためにはどのような組織が必要か、という考察から生まれてくるものなのである。明確な事業目標のないところに、立派な組織はありえないのである。
 この基本理念を忘れて、いたずらに構造美学的組織のみを云々しているところに、根本的な誤りがある。

セキやんコメント:    そもそも目的達成の手段であるはずの組織が、目的そのものになってしまうという愚を犯してはならない。目的と手段を取り違えると、単なる手段が事業の重荷・足かせとなってしまうのだ。

「経営の腑」第327号<通算642号>(2021年9月17日)

 組織に定形はない  一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
 従業員400名ほどのある会社の話である。親会社からの連続的な値下げをうけて、赤字転落の一歩手前まで追いこまれていた。
 社長はこの危機を突破するために、
 1.営業部門の強化による新規得意先の開拓
 2.生産部門の徹底的合理化
 という2つの対策を推進することを決意した。
 営業部長については、事は簡単であった。生産担当常務を営業担当専任としたのである。
 生産部門の合理化には困った。従来の組織は、社長−生産担当常務−生産部長−各課長、というようになっていた。営業最優先の方針にしたがって、生産担当常務を営業に回したので、当然、生産部長が生産部門の全責任を負わなければならない。この生産部長が、非常事態を乗り切るには、能力があきらかに不足するのである。さんざん考えたすえに、思いきって生産部を廃止し、課長を社長直結としたのである。それも1年の期限付きである。
 こうして、社長みずから生産の第一線にたった。いままで生産の上がらなかった理由は、階層が多く社長の指令が徹底しにくかったのと、生産部長の能力不足である。その両方が一挙に取り除かれたので、生産はみるみる上昇しだした。
 しかし、外野がうるさかった。外部のいろいろの人たちから、こうしたアミーバ的組織はいけない、という批判や忠告を相当受けたのである。
 組織理論には暗い社長は迷いはじめた。そして、たった3ヶ月で組織を変更し、ふたたび生産部長をつくったのである。しかし、適任者はいない。やむをえず、不適任と知りつつ任命した新しい生産部長のもとで、生産は下がっていったのである。
 理想的な形態の組織をつくることはやさしい。しかし、そこに人をあてはめることは容易なことではない。人が不適任であったなら、組織はいくらりっぱでもなんにもならない。結果においては、その部門が欠けているのと同じだからである。こんな簡単なこともわからずに、公式論を押しつける人の脳ミソはいったいどのような構造になっているのであろうか。
 理想がどうあれ、公式論がどうあれ、会社の目標を達成するのに、“わが社の実情”に合った組織はどういう形をとればよいか、を考える以外にないのである。形はどうでもいいのである。組織論にうたわれている組織どおりのものをつくれば、会社が発展するのであれば、つぶれる会社はないはずである。(中略)
 会社は生きものである。経営者の哲学をはじめ、人その他いろいろな要因が、合成されている複雑な有機体である。公式論のみで云々すること自体がおかしい。
 本田技研工業の鈴鹿製作所では、工場長の下に、副工場長も部長もいない。いきなり20数名の課長がついている。これも公式論から見たらおかしい。
 このような実証をみせつけられると、筆者は、公式論どおりの組織ではだめである、型破りの組織でなければ会社は成長しない、という逆説をふりまわしたい誘惑にかられるのである。暴論を承知のうえで。

セキやんコメント:    世の中には、経営者を迷わせる「雑音」というものがある。経営者は、種々雑多な情報からこの雑音を取り除く必要がある。そのコツは、徹底的に「本質」と「事実」からフィルターをかけることである。

「経営の腑」第328号<通算643号>(2021年10月1日)

 バランスのとれた組織ではダメ  一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
 組織は、バランスのとれたものでなければならない、という考え方がある。今坂朔久氏は、これを簿記会計的な思考の魔術とよんでいる。貸借は必ずバランスしなければならないという考え方が、経営体内のいろいろな考え方や活動に悪影響をおよぼしていることをいっているのである。
 バランスということばは、ほとんど無条件で人を納得させる不思議な魔力をもっている。
 バランスした組織とは、なんという保守退嬰的な考え方であろうか。
 すぐれた会社、成長する企業は、組織面だけでなく、いろいろな面でつねにバランスをやぶって前進している。アンバランスが成長途次の姿なのである。
 伸びざかりの子供が、手足ばかりヒョロヒョロと伸びるというようなことがあっても、それはアンバランスな状態ではあるが、別に病気でもないのと、まったく同様なのである。子供も会社も、成長の度合いが大きければ大きいほど、アンバランスの状態も大きいといえよう。
 体のバランスのとれた大人は、もはや成長の望みはない。バランスのとれた組織を固執しようとしたら、成長を犠牲にしなければならない。それでいいのだろうか。
 アンバランスの状態は、それが病的なものでないかぎり、たくましい成長力の象徴なのだ。
 すぐれた経営者は、かぎりある会社の力を一点に集中する。当然のこととして、組織はアンバランスになる。見かけ上の八方美人的組織では、厳しい競争に勝ちぬくことはできないであろう。よい組織とは、バランスのとれた組織ではない。目標を達成するために、重点に力を集中した、あるいは集中できる組織である。このような組織は見かけはアンバランスである。
 会社の成長を、組織のバランスという面からとらえれば、目標達成のためには、まず意識してバランスを崩し、これをバランスさせ、バランスしたかしないうちに、またつぎの高い目標をたてて、バランスを崩す、という、バランスとアンバランスの循環であるといえよう。
 このように、組織を動態的にとらえるのがほんとうであって、もしも、つねに組織のバランスのみを重点に考えるならば、その会社の将来はもはや灰色である。
 バランスを意識してやぶり、つぎにそれをバランスさせよ。そして、またもそのバランスをやぶれ、それが成長への道なのだから。

セキやんコメント:    今坂朔久氏の「簿記会計的な思考の魔術」を引くなど、一倉が本書でくり返し指摘しているのは、役に立たない固定観念(セキやん流では「雑音」ともいう)からの脱却である。そのためには、前号でもコメントした通り、本質と事実からものごとをとらえることである。

「経営の腑」第329号<通算644号>(2021年10月15日)

 責任と権限は等しくない  一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
 伝統的な組織論に必ずでてくるのが、「責任と権限は等しくなくてはならない」という考え方である。
 これも、簿記会計的思考の魔術である。この思想は、ほとんど憲法的な力で、深く企業体のなかに浸透している。ほとんどの人が、なんの疑いももたずにこれを信奉している。
 ところが、これが経営者をノイローゼにし、働く人々の魂を腐らせる毒薬であり、責任のがれの大義名分に利用されるのだ。しかも、これに気づいている人が驚くほど少ないのは、いったいいかなる理由によるものだろうか。「責任と権限は等しくなくてはならないのであるから、仕事の責任をとらせるときには、これに見合う権限をあたえなければならぬ。権限をあたえずに、責任をとらせることはできない」というようなことは、いかにももっともらしい。こうした主張をする人は、現実にこのような考え方が成りたつものかどうか、一度でも考えてみたことがあるのだろうか。
 責任と権限は等しくなくてはならない、とするならば、等しいことをはかる物差が必要である。物差がなければ、等しいかどうかを客観的に証明できないからである。
 では、いったいその物差は何であろうか。残念ながら、この物差はまだ発見されていないである。将来も永久にないであろう。客観的物差がないとすると、何ではかったらいいか、主観ではかるよりほかに道はない。
 上役は部下に権限をあたえている思いこみ、部下は権限をもらっていないから、責任を果たすことができない、といういいわけができる。怠け者にとって、こんな都合のよいことはない。たとえ怠け者でなくても、最後にはこれで責任回避ができることを知っているから、責任感がうすれ、努力もほどほどにするということになる危険がある。“愚者の楽園”とは、こういうことをいうのであろう。
 悪いのは、つねに部下に権限を十分にあたえない上役である、ということになる。上役の上役というぐあいに、最後には経営者が悪いということになる。こういう批判をたえず聞かされる経営者は、たまったものではない。
 これでいいのだろうか、経営の役にたつだろうか、仕事がうまくいくだろうか、人間関係がよくなるだろうか。筆者が毒薬であるときめつける理由がここにある。
 では、いったい責任と権限はどう考えたらいのだろうか。
 これについて、今坂朔久『マネジメントへの提言』のなかから引用してみよう。
 『経営においてある地位の権限は、その地位に付随する責任と釣り合うべきものであるという考え方は、組織理論の神話ともいうべきもので、最もガンコにくり返されている迷信の一つであるというのである。・・・』
 この論文にあるように、われわれの社会生活そのものが、常に責任のみ重く、権限はほとんどないのである。これが常態なのだ。会社も社会の一つであるからには、この状態からのがれることはできないのが当然。
 権限があろうとなかろうと、責任は果たさなければならないのが、社会の一員として、また会社につとめるもののツトメなのだ。この義務感、責任感がなければ、たとえ権限をもっていても、責任を果たすことはできない。責任と権限というものは、こうしたものであり、それは理論的なものではなくて、倫理的なものなのである。

セキやんコメント:    一倉は、責任権限論の代替策として、企業人は「権限などない。あるのは責任感だけ」と覚悟して事にあたるように説いている。確かに、正体不明で有るか無いかもわからない「権限」に頼るより、「責任感」を持って実行する方が現実的である。

「経営の腑」第330号<通算645号>(2021年10月29日)

 責任のみ押し付けて、権限をあたえないのはあたりまえ  一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
 「責任のみ部下に押しつけて、権限をあたえないのは悪い上司である」という主張は、経営を知らず、仕事の本質を知らぬものの観念論である。
 上役が部下に仕事をまかせるばあいに、あらかじめどれだけの権限をあたえたらよいか、部下に課した責任を果たさせるために、どれだけの権限がつり合った権限であるかをきめることは、不可能なことであることは、前述したとおりである。
 とくに、その仕事が重要なものであるほど、また、革新的、創造的なものであればあるほど、あらかじめどのような権限をあたえたらよいかわかるものではない。これらの仕事は、多くのばあい、過去に経験しない事がらと取り組むものであるだけに、どのような事態が発生するのか、予測することはむずかしいのである。予測できない事態に対して、もれなく権限をあたえることは不可能である。
 あらかじめ権限をあたえられるのは、過去に経験した標準的な事がらや、くり返し仕事についてである。つまり、会社にとってあまり重要でない事がらについてである。
 いまかりに、百歩ゆずって、あらかじめ権限をあたえなければいけない、と仮定してみると、こんどは、とんでもないことになる。
 将来予測されるあらゆるばあいを考えて、もれなく権限をあたえられるほど、上役、とくに経営者はヒマではない。経営者はつねに忙しい。それが、革新的、創造的な、すぐれた経営者であればあるほど忙しいのである。部下にもれなく権限をあたえるためには、経営者として最もたいせつな仕事を放棄しなければならなくなるのである。
 部下に、責任に見合う(?)権限をあたえることに時間をさくヒマのあるような経営者こそ、実は問題なのだ。
 そうした経営者は、前向きではなく、後向きだからだ。経営者としての責任を自覚していないし、経営者としての責任を果たしていないのである。
 ああ、それなのに、従来の責任権限論は、すぐれた経営者の態度をなじり、会社を発展させることができないような、部下のほうばかり向いているデクの棒的経営者をすぐれた上役の態度であるとしているのだ。筆者が、経営を知らぬものの観念論であるというのは、ここである。
 あなたは、部下のほうばかり向いている経営者と、つねに前向きの経営者と、どちらの経営者のもとで働きたいと思いますか。

セキやんコメント:    一倉は、経営者必須の基本姿勢の一つに「外部志向」をあげている。また、逆に落第経営者を「アナグマ社長」とよんでいる。つまり、内部管理偏重では、経営はうまく行かない、と指摘している。なぜなら、事業経営の本質は「お客様の要求を満たすこと」だからである。

「経営の腑」最新号へ戻る



目次へ