「経営の腑」第336号<通算651号>(2022年1月21日)
仕事の流れを悪くする職務分掌 一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
「責任と権限を明確にせよ、しからば仕事はうまく流れん」というありがたいお題目によって、これを実現しようとして生まれたのが職務分掌規定というものらしい。
けれども、職務分掌規定によって、仕事上のトラブルが解決されたという会社は、残念ながら私の狭い見聞ではないのである。職務分掌規程なんてものは、その中の固有名詞をかえ、会社の規模にしたがって、部課を増減するだけで、どこの会社にもそのまま通用する。汎用機というものは、いろいろな作業はできても、どの作業も能率的にできないように、どんな会社でもあてはまるような規定は、その会社に適用しても、たいした役には立たないものである。
役に立たないだけならまだいい。逆にいろいろなトラブルを引き起こしているのだ。(中略)
そもそも、職務分掌というものは、各部門の行うべき仕事の種類を羅列しただけのものであって、やり方や、急所を具体的に決めたものではない。これを繊維にたとえれば、タテ糸だ。タテ糸だけ決めてもバラバラで繊維にはならない。セクショナリズムが助長されて、仕事の流れがうまくいかないのは当然である。職務権限の明確化という、責任のがれの文句がこれに拍車をかける。これで仕事がうまく流れたら不思議である。
職務分掌規程は職務権限の明確化という、うたい文句とはうらはらに、責任権限は少しも明確化されず、かえって混乱する。
「会社のなかでコミュニケーションがうまくいかないのは、タテよりもヨコのほうがうまくいかない。だから、ヨコの連絡に気をつけなさい」というようなことを聞く。じつは悪いのではなくて悪くしているのだ。その罪の大きな部分は職務分掌や、統制の限界論や、同質的作業集約論なのだ。(中略)
以上のようなことをいう筆者を、職務分掌不要論者と思われるかもしれないが、そうではない。職務分掌は必要なのだ。ただ職務分掌のみをもって事足れりとしていたのでは、仕事はうまく運ばないということを強調しただけなのだ。
前に述べたように、職務分掌というのは、タテ糸であり、一連の仕事の流れは、いわばヨコ糸である。このヨコ糸をどうするのか、をはっきり決めることである。
こうして、タテ糸とヨコ糸を組み合わせることによって、繊維ができあがるのである。
このヨコ糸に相当するものは、従来でもないことはない。“工程管理制度”とか、“図面管理規定”などはこれである。しかし、これらのものも、仕事の流れをほんとうに具体的に規定しているものは、ほとんどない。とくに、現物の取り扱いについての配慮にはまったく欠けている。
タテ糸だけはしっかりしているけれども、ヨコ糸が弱いのだ。だから、強い繊維はできないのである。
ヨコ糸を強く、しかもタテ糸とどのように組み合わせるかを、明確にきめることである。
筆者が、責任や権限は明確にできるものではない、といったのは、会社のなかの仕事の全部にわたってできないということである。とくに新しい仕事や、変化に対応する場合のことである。きまりきった日常のくり返し仕事については、はっきりと責任も権限も決めることができるのである。(中略)
では、そのヨコ糸はどのようなものであろうか。筆者は、これを自己流に“業務管理規定”とよんでいる。
セキやんコメント: この章で、一倉は「責任権限論者は、いうことは立派でも、それは口頭弾にしかすぎず、どうしたらそれが実現できるかを、ぜんぜん考えようとしない無責任な態度に、筆者は強い憤まんを覚える」と述べている。一倉が、実務的な解決にしか意味を見出さなかった証左であり、その真骨頂である。
「経営の腑」第337号<通算652号>(2022年2月4日)
納品書の処理法のまちがい 一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
業務処理にふれたついでに、末端業務で最も重要で、しかも最もまちがいやすい納品書の正しい処理法について述べてみよう。
この処理法をまちがうと、会社の信用を落としたり、取引先に迷惑をかけたり、税務署ににらまれたりするのである。
それを、ほとんど大部分の人が知らず、重要度の認識もうすいのである。
どこの会社でも、納品書をじっさいに処理しているのは、最末端の人々であるばあいがほとんどである。それらの人々は、何も知らずに自分だけの判断で、まちがった処理をし、いろいろな問題を引き起こしている。
社内伝票の授受はたとえどのようにまちがっても、それはあくまでも社内の問題である。
ところが、その社内伝票の取り扱いや処理法については、キチンとしていながら、対外的な納品書の処理について、なんの決まりもない会社が、実に多いのである。何とも奇妙な現象である。
納品書の処理については、その処理法をハッキリときめておくことこそたいせつなのである。その処理法についての正しい考え方はどうであり、そのように取り扱うべきかを、次に述べてみる。
そもそも、会社には必ず売りと買いがある。売買行為を取引という。取引というのは、物品や権利の所有権が移転することである。
所有権の移転と同時に債権(貸)と債務(借)が発生し、債務は支払いで消滅する。この行為を決済という。
所有権の移転と決済は取引の要件ではあるが、全然性格が違うものだ。ところが、しろうとには、この二つの区別が良くわからないために、納品書の処理を誤り、いろいろなトラブルが発生しているのだ。
(中略)
納品書というのは“所有権の移転”の証拠書類であって、これによって発生した債権・債務の決済とは、直接関係がないのである。
ところが締切日というものがあって、期間取引の計算を行い、これによって、その全額または一部の決済が行われるので、所有権の移転と決済を、直接関係があるように思い込むのである。
では、そのヨコ糸はどのようなものであろうか。筆者は、これを自己流に“業務管理規定”とよんでいる。
(中略)
筆者は、そうした不都合をさけるために、納入指示日以前に納入したばあいは、実際の納入日のいかんを問わず、納入指示日に対応して支払いの対象にする。また、指示日以前の納入に対しては、事故のばあい責任を負わない旨を注文書に明記することをやったことがある。これが担当者ならびに取引先に対する一種の訓練なのである。
くり返していうが、取引先に関する伝票処理の正しい考え方と方法をしっかりと教え込んでおくことは、絶対に必要である。それが決算に引っかかるかどうかは別として、担当者がやめたり変わったりしたばあいにも、こうしておけば無用のトラブルはおこらないのである。こうした対外的な、かつ金銭に関する業務処理を的確にせず、社内伝票のみ厳重に処理するのは本末転倒である。
セキやんコメント: 常日頃から「経営者の役割は自社を高収益構造にする仕組みづくりで、その手伝いが自分の役目だ。したがって、日常業務のやり方については一切言及しない」と言っていた一倉が、 「末端業務」について詳しく述べていることは、非常に珍しい。逆をいえば、それだけ目に余ったのかもしれない。
「経営の腑」第338号<通算653号>(2022年2月18日)
監督者は重荷を負わされすぎる 一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
ある会社から、監督者訓練についての依頼があった。
さっそく、その会社に行ってトップの方からお話をうけたまわった。監督者に対する要望やら期待やら、でるわでるわ、聞いているうちにウンザリしてしまった。現場をみせてもらうと、働いている人間はほとんどいない。動いているという感じである。現実は確かにトップのいうとおりだが、そのような状態にしたのはだれの責任なのだろうか。
いろいろな会社をみて感じることは、監督者の能力や働きっぷりについて、トップが云々している会社に、ろくな会社はない。ろくでなしのトップほど、監督者のことをあれこれいうのだ。監督者の悪いのはトップの責任なのだ。だいたいにおいて、従来のマネジメント論は、監督者に対する要望がメチャクチャに多すぎる。
(中略)
現実には、監督者の仕事ほど、雑多なものはない。お互いに、なんの関連もない30種類も40種類もの仕事をかかえ、何が重要なのか、何を先にしなければならないのか、なぜしなければならないのかもわからずに、毎日かけずり回っているのである。悪いことは監督者の責任であり、よいことは他のだれかの功績となる。こんな割の悪いことはない。そのはずである。人事権は人事課でにぎり、部下昇進についての発言権はなく、生産計画は工程課がたて、品質は品質管理課で指導する。設備保全は設備課の担当である。ボーナスや昇給は経営者と組合との間できめられる。何もできないようになっているのだ。
手かせ、足かせをはめながら、前にあげたような最大限の仕事をやりとげろというのだ。そして、これができないのは、部下の数が多すぎるからだとして、部下を減らして監督者の地位をさらに下げる。(中略)
いずれにせよ、監督者の職務については、再検討を要することであろう。そのためには、監督者の職務そのものよりも、その上部に発生するいろいろの問題を解決することに、まず力を注がなければならない。監督者の仕事を混乱させる大きな要因が、そのなかにあり、そのシワよせをくって監督者が苦しんでいるのが現実のすがただからである。
筆者は、監督者に対しては、つぎのような要望をすることにしている。
1.いつも職場をきれいにしておくこと 2.機械や治工具をピカピカに磨いておくこと
3.3日間の予定を立てること 4.いたんだ道具や工具を早めに修理すること
5.危険な個所をなくすように努力すること 6.性能のよい機械や設備を要求すること
7.付加価値目標と実績をみていること
である。これさえも、じつは、たいへんな能力と努力を必要とするのである。しかし、この要望は少なくとも従来の常軌を逸した要望よりも、やさしく、具体的でわかりよく、要点をついたものであると自負している。
最後に、監督者に要求する能力として、重点的にただ一つ強調したいのは、“統率力”である。いろいろな能力を総花的に要求するよりは、統率力一本にしぼって、これを監督者に要求するのである。部下を自分の思うように動かすことができたら満点である。どうやったら部下を自由に動かすことができるかを、考え抜かせることである。第一線指揮者として最も大切な能力であることを、くり返し、くり返し強調することである。
セキやんコメント: 「結果責任」はすべてトップにある。一方、社員には絶対的な「行為責任」がある。その社員の責任を全うすべく、方針が決まったらそれに向かって一致結束して実行に移せるよう、部下を統率できる監督者こそが、企業人として最も頼もしいということなのだ。
「経営の腑」第339号<通算654号>(2022年3月4日)
有能な経営担当者はつくられる 一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
従来、経営担当者とかマネジャーについて論じられることは、常にその職務についてであって、経営担当者としての心構えや態度については、一部の人をのぞき、ほとんど論じられていないのは、まことに不思議な現象である。
仕事をするのが人間である以上、その人間は、どのような心構えが必要であるかが非常に重大なことであるのは、いうまでもない。にもかかわらず、これが論じられていないのはなぜなのであろう。
経営担当者は職務に対する知識・技術だけで事足りるというのだろうか。もしそうであるならば大きな誤りである。ということをいいたくなるほど、これを説く人が少ないのが、現在の状態である。
どのような職務にも仕事にも、これを果たすための基本的な態度や考え方はあるはずである。
ところで、有能な経営担当者とはなんであろうか。一口でいえばすぐれた業績をあげうる人であって、知識・技術が優秀な人でもなければ、人格高潔なだけでもダメである。
すぐれた業績をあげる人は、必ずしも大きな能力をもった人とはかぎらない。大きな能力をもちながら業績をあげることができない人も多い半面、それほど能力をもたない人でもすぐれた業績をあげうるのである。
それは、心構えや態度の問題である。とすれば、その心構えや態度を身につけることによって、凡人でも有能な経営担当者になれるのである。
その実証は、日紡貝塚の女子バレーのチームである。陸上競技界の大御所、織田幹雄氏が、大松監督にいったことばである。それは・・・
「大松君、よくまあ、あんな素質のない選手を集めて、これだけのプレーができるようにしたもんだね」そういって大笑いされました。
−現在の陸上界には、おまえのところの選手たちよりも、もっともっと素質のある選手がたくさんいる。それが、おまえのところのようにできないのは、彼等が精神的に弱いだけでなく、やらせる立場のものも弱いのだ−というわけです。
たびたび書いたように、織田さんにいわれるまでもなく、わたしたちのチームには、高校時代に優秀だったものはひとりもおりません。他の会社がどこも目をつけなかった、不器用な、素質のない選手だったのです
(大松博文著「おれについてこい!」講談社)
この事実は、必ずしもすぐれた能力をもち合わせていないわれわれに、大きな希望をあたえてくれる。あきらかに、先天的なものではなく、後天的なもの、努力しだい、心構えしだいで達成できるものだからである。その基本的な原則はなんであろうか。筆者はつぎの8つをあげたい。
1.まず自分自身を管理せよ 2.上を向け 3.すみやかに決断をくだせ
4.目標を設定せよ 5.結果に注目せよ 6.時間を有効に利用せよ
7.優先順位を決定せよ 8.人の長所を利用せよ
以上である。これから、これら一つ一つについて少し述べたい。<次号以降に続く>
セキやんコメント: 一倉は、「科学的な経営はない」と言っている。さらに「科学的な管理はあるが、経営は人間が行うものであるから、そこには人間的な要素が必ず入いる」と続ける。そして、経営者の姿勢を重視し、「いい会社とか悪い会社はない、いい社長と悪い社長がいるだけ!」とどこまでも徹底している。
「経営の腑」第340号<通算655号>(2022年3月18日)
まず自分自身を管理せよ 一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
われわれの教えてもらう経営書(かどうか疑わしい、経営書と銘うつものの大部分は管理書である)や講座などでは、“部下を管理する”ことばかりくり返しくり返し、ゲップのでるほど説かれている。けれど、これが経営管理者にとって、一番重要な仕事であろうか。これはあきらかにおかしい。人の上にたつ人の最も重要な仕事は、まず自分自身を管理することである。
人を管理するまえに、まず自分自身を管理することであり、部下の仕事はなんであるかを考えるまえに、自分の仕事はなんであるかを考えることである。
部下に目標をあたえるまえに、まず自分に高い目標をあたえることである。みずから目標を設定し、企業への貢献度をみずから測定し、みずから評価することでなければならない。でなければ、部下に目標をあたえ、それを測定し、評価する資格はない。
自分を管理しないということは、ドラッカーにいわせれば、「あたかも、機関車がないのに客車の製造にばかり集中している状態」である。会社を、自分の部門を、一定の方向に牽引してゆく機関車の役目が経営者、管理者の任務なのだ。
他人のほうばかり見つめているから、他人の立場や、部下のかかえている問題にばかりに心をうばわれて、自分の目標や責任を忘れてしまうのである。これでは有能な経営担当者とは、お世辞にもいえない。こういう人にかぎって、部下が思うように仕事をしないといってブツブツいっているものである。
部下を思うように働かせることができないのは、自分自身を働かせることができないからである。
自分自身を管理できない人が、他人を管理できるわけがない。自分自身を管理する能力が、とりもなおさず部下を管理する能力なのである。自分を管理する態度とまったく同じ態度で部下を管理すればいいのだ。
最近、“根性”ということが、さかんにいわれる。「根性とは、自分の勝つことである」といった人があるが、まさに至言であると思う。いいかえると、根性とは、自分自身を管理する能力なのである。
「鬼の大松」こと大松氏の著書『おれについてこい!』の標題中から、その根性についてのことばをいくつか挙げてみよう。
・できないことをやるのだ ・血みどろの回転レシーブ ・自信も根性も練習から ・体力の限界こえて ・必勝の技と気力の獲得 ・病気も練習でなおす ・鬼と呼ぶなら呼べ ・おれについてこい ・自我をころせ ・監督と選手の対決 ・決する者は根性 ・勝つことこそすべて
これが、不可能を可能にした人の根性なのであり、女子バレーチームに要求したことなのだ。しかし、大松氏はけっしてイノシシ武者ではない。一人一人について気をくばり、たえず医師と相談しながら、選手の健康状態をみきわめ、モスクワの選手権大会に出発するまえには、ハンガリー製のボールを取り寄せて練習したり、選手たちの寝床は日本式を廃して様式ベッドにしたりしたのである。日曜日には早く練習をきりあげて、選手全員をつれて大阪へ遊びにゆき、映画を見せ、アイスクリームを自分のサイフをはたいて食べさせたのである。
真の根性とは、このように細心の注意が、その裏に必ずはらわれているものなのだ。
いずれにせよ、有能な経営担当者は、まず、自分自身を管理することからすべてがはじまるのであることを、はっきりと自覚することがたいせつである。
セキやんコメント: 前号での「有能な経営担当者」を作るための8原則の第1番目である。何をおいても「自己管理の徹底」があげられた。自分を管理できずに他人を管理するなどは、土台無理な相談である。なぜなら、組織の構成員は、常にトップの一挙手一投足に大いなる関心をもって見ているものだから。