「経営の腑」第356号<通算671号>(2022年10月28日)
採算性の測定はこうして 一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
いままでの原価計算の考えは、個々の製品または個々の部門の原価を計算して、いいとか悪いとか、狭い範囲の検討に終始している。
しかもそれらの計算さえ、真実の姿とはまったくちがった数字をかってにつくりあげているのであるから、本当に何をかいわんやである。たいせつなことは、そのように個々のものではなく、会社全体として、どのような製品の組み合わせがよいか、部門活動の結果はどうかを発見し、測定して、将来に向かってどのような手を打つべきかを見きわめることなのである。
採算性分析は、どのような製品が斜陽化しつつあるか、重点品目は何にすべきか、販売政策の効果はどうか、内部活動の問題点はどの部門にあるか、などを測定するものである。
経済情勢や業界の変化に対応し、適切な経営戦略をうちだすことや内部管理方針の検討による対策の樹立など、将来に向かって行動することが会社の正しい姿である。そのための基礎的な資料として最も需要なものの一つが、この採算分析なのである。
まず製品別の採算性分析からいこう。これは表14(割愛)のような形にまとめるのがよい。
これは、主として経営戦略の分野であり、営業活動の分野である。この分析表から、まずは付加価値の絶対額の順位をみる。付加価値はさらに単位時間当たり賃率と比較して、
1.必要賃率以上を得ているもの
2.必要賃率に満たず、損益分岐点賃率以上のもの
3.損益分岐点賃率以下のもの
に分けてみるのである。
そして、絶対額とこの伸びの動向、賃率の高低とをにらみ合わせて、採算性向上の方策を練るのである。とくに、損益分岐点賃率以下の製品が、会社全体の業績を大きく低下させている元凶なのであるから、こうした製品の処置を、はっきりと決めるべきである。このさい注意しなければならないのは、“オトリ製品”である。これは、製品自体としては採算が悪くても、他の採算のよい製品のために役立っているのであるから、必ずしも不採算製品とはいえないのである。もう一つは、もしすてる場合には、それをすてたことによって生じた余力が、他に転用されて、それ以上の付加価値を生み出す見通しがない場合は、すてるべきでない、ということである。すてた製品の付加価値まで、まるまるすててしまうことになるからである。
つぎに部門別の採算性である。これは表15(割愛)のようにまとめるのが便利である。
これは、主として内部活動の分野であり、部門経営者の業績測定に使うのである。これをみる場合は絶対値で見てはいけない、必ず傾向で見るのが正しい。なぜかというと、採算性は基本的には受注価格で決まってしまうのであるから、これは部門経営者の責任ではない。経営者の責任分野である。(中略)
このように内部管理における評価は、必ず傾向で評価することである。でないと、業績の評価を誤り、努力している人間や部門、有能な部門経営者などを、腐らせたり、発見できずに埋もれさせたりするからである。
セキやんコメント: 一倉は、この項の最後に「間接部門の採算性分析」に言及し、間接部門は会社全体の付加価値を基準にして考えればよいと解説している。間接要員の増減により、関連指数がどのように変化するかで判断するのが分かりやすく、実践の知恵でもある。
「経営の腑」第357号<通算672号>(2022年11月11日)
やぶにらみの財務分析 一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
従来行われている財務分析は、なんの目的で行うのであろうか。世の権威ある専門書をひもとくと、
1.資本の収益性、活動性、安全性を測定する
2.資産の構造、負債の構造、およびそのつり合いを相互の金銭的比率で算出して、その可否を判定
3.経営を円滑にするために、資産の在庫高ならびに構成の適否を考える
というようなことがうたってある。しろうとにはよくわからない。しかも、もっともらしいことである。
しかし、筆者にいわせたら、これらは、ウソかまちがいのどちらかである。
従来の財務分析のほんとうの目的は、企業の優劣判定なのだ。あの会社の株は「売り」か「買い」かという投資家や投機家のためのものであり、金を貸すか貸さない方がいいか、という金融機関のためのものである。
外部の人のための財務分析であって、その会社自体のためではないのである。だから、やたらと抽象的な比率をならべたてて、他社と比較したり、標準と比較したりするのである。このような財務分析が、会社の役に立つわけがない。優劣を判定してもはじまらないではないか。
人体にたとえれば、「あなたの血圧は160である。標準は140であるから、20高い」というだけなのだ。ではどうしたらいいか、と質問すると「血圧を下げなさい」というだけなのだ。なんと不親切な医者ではないか。
患者が知りたいのは、血圧の高い原因は何であるか、どのような治療をすればいいのか、という具体的な勧告であるはずだ。
そうしたものは、いっさい教えずに(本当は教えられないのだ)利益率が低いとか、回転率が悪いとかだけである。具体的な示唆は何もしてくれないのだから、さっぱりありがたくない。心配の種がふえるだけである。
企業体でほんとうに必要なのは、「わが社の問題点」なのであり、「問題解決の具体策の手がかり」なのだ。真に経営に役立つ前向きの財務分析がほしいのだ。
筆者はこのような財務分析を“実戦的財務分析”と称している。実戦的財務分析のための要件は、
1.傾向を分析すること
絶対値の良し悪しは、問題点という観点からはどうでもよいのである。(中略)
2.具体的なものであること
従来の財務分析は、やたらと二つの数字の関係を“率”で抽象化してしまう。(中略)
3.人の活動状況が測定できるものであること
財務の数字は、人の活動の結果である。であるから、その活動状況を財務面からとらえる必要がある。つまり、生産性の測定が必要なのである。
以上のような要件を備えた実戦的な財務分析とは、表17(割愛・・・@対売上利子割引料率、A総資本利益率、B売上高年計、C売上・比例費・付加価値・固定費・利益の関連分析、D総資本・設備・労働・賃金と付加価値との関連分析、E損益分岐点)のようなものである。
普通のばあいには、これくらいで十分である。いずれも3年以上について、断面データと時系列データを組み合わせた一覧表にして検討に便利な形にまとめる必要がある。
セキやんコメント: 一倉は「わが社の問題点」と「解決の手がかり」について述べている。これは、まぎれもなくSフレームでいうところの「わが社の解」そのものである。Sフレームの成り立ちからして当然だが、当方が提唱するSフレームと生涯実践者を貫いた一倉哲学は符合している。
「経営の腑」第358号<通算673号>(2022年11月25日)
教育訓練空白時代 一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)よりセキやんコメント: 一倉イズムの真骨頂であり、空理空論を徹底的に排除する主張だ。自身がタタミの上の水練の忠実な信奉者だったことから、その正体を痛感している叫びである。
戦後、日本の大企業に取り入れられた企業の教育訓練が、最近では中小企業まで浸透しつつあることは、「まことに、けっこうである」といいたいけれども、それが大衆化したという現象そのものは喜ぶべきであっても、その内容は果たしてどうであろうか。その効果はどうなのか、ということになると、これはけっして手ばなしで喜んではいられないのである。
もちろん、それなりの効果があったことは確かである。筆者も教育の効果を認めるのに、やぶさかではない。
けれども、その効率の悪さにいたっては、まさに2メートル四方の篩を20枚も重ねて振り回し、少しばかりの粉をより分けている製粉作業と比肩するものがある。
製粉では、年ごとにその篩分けの効率が下がるわけではないから、まだ救われるとして、教育訓練では、年ごとにその効果と効率が低下してきているのは、まことに寒心すべきものがある。しかも、効果が少ないわりに、その副作用は無視できないほど大きなものがある。これがほとんどの人に気づかれていないのであるから、おそろしいことである。
わが国の教育訓練なるものは、国情も習慣も違う、アメリカの教育訓練方式を直訳したものである。わが国の企業の内部からおこった切実な要求から生まれたものでないところに、まず大きな問題がある。
つぎには、それらの教育訓練の考え方や内容が、時代から取り残されてしまったからである。生まれてから、ほとんど何の進歩も革新も見られないところは、会計経理の概念と双璧をなすといっていい。急激な変貌を遂げつつある産業社会で、教育訓練が変化に超然としていること自体が、すでにおかしい。“自己革新能力”をもたない教育訓練は“死物”ではないかと疑いたくなる。生きているなら、成長があってよいはずではないか。
変わる現実に変わらぬ教育訓練、両者に乖離が生ずるのは当然である。教育訓練とは、現実と対決していくための考え方や態度を身につけさせるべきであるのに、現実とはなれてしまったのでは意味がない。
アメリカ直輸入の教育訓練に大きな関心がもたれ、各種の訓練団体や企業自体の教育機関による教育態勢が整っていたことはなく、内容的に見た場合に、おそろしいほどの貧困さである。
明治維新の原動力となった「松下村塾」のような、“真の教育”があまりにも少ないのである。「企業の運営に関係しているものは、真に有効適切な実行、実践が主だった目的であり、われわれにとって役に立つ理論とは、こうした成功をおさめた実行に基づく理論以外の何物でもない」(ドラッカー)のにもかかわらず、現在の教育理論には、空理空論が多すぎる。
「畳の上の水練よりも、海にとびこんで潮水を飲んでみることが必要」(田辺昇一)なのであって、そこから出てくるものが、ほんとうの教育のもとになるのだ。
タタミの上の水練があまりにも多すぎる現在の教育は、量だけは多くとも、正味は驚くほど少なく、大部分は包装である。まさに、おそるべき“教育訓練空白時代”なのである。
筆者自身、このタタミの上の水練を教わって、海にとびこんで、おぼれかけたことは数しれない。包装を本物と思い込んで、どのくらい高い買い物をしたか数知れない。
この本に書かれていること自体が、こうした苦い経験をした筆者の苦しみの告白であり空理空論への抗議でもあるのだ。
「経営の腑」第359号<通算674号>(2022年12月9日)
知識にかたよりすぎた教育 一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)よりセキやんコメント: わが社に必要なのは、「アメリカの解」ではなく、「わが社の解」という認識が再重要だ。
実技訓練や一部の識者の教育をのぞけば、現在の教育訓練はあまりにも知識・技術にかたよりすぎている。小手先の技巧にとらわれすぎている。
「知識のみ身につけることは、いたずらに人間をあさはかにするのみである」(田辺昇一)のだ。(中略)
それなのに、それでもか、これでもかとばかりに、“やり方”を教え込む。ノウハウものの氾濫である。かんじんの“精神”はそっちのけである。あるアメリカ人が、「日本人のつくるものは、形だけはわれわれの製品と同じである。しかし魂がこもっていない」という痛烈な批判をしていた。まったくその通りである。『暮らしの手帖』の実験報告をまつまでもなく、筆者の家で使っている、いろいろな“一流メーカー品”で及第点をやっていいものは、ほとんどないといってよい。1ヶ月でワーレン・モーターの故障した洗濯機、3か月でチューナーの故障したテレビ、(中略)、要するに魂がはいっていないのだ。
物をつくるのでも、教育でも、形だけまねても精神が忘れられていては、なんにもならない。アメリカの“サルまね”では魂は学べない。
アメリカ人と日本人は、もともと鍛えられ方がぜんぜんちがうのだ。それは両方の歴史をみればわかる。徒手空拳で新大陸に渡った移民は、とにかく生きなければならなかった。猛獣毒蛇と戦い、疫病に悩まされ、生き残るためには、頼るのは自分だけであり、自分たちの家族だけであり、自分たち仲間だけだったのだ。だから、“生きる”という至上命令によって、理屈ぬきで行動しなければならなかったのである。だから理屈ぬきで行動するということは、アメリカ人にとっては事新しくとりあげる必要はない。
そうした前提のうえにたって、つぎに出てくるのは“やり方”“方法”なのだ。
ところが、日本人は神武天皇、いやもっと昔から、とにかく統治者がいて、統治者に従ってさえおれば、最低限の生命財産は保証されるという生活を2千年来つづけてきている、いわば精神的な“お坊ちゃん”なのだ。
そのお坊ちゃんが、アメリカ式の“やり方”だけを学んだところで、魂が分かるわけがない。人間は苦労しなければダメである。こうした観点からみたばあい、日本人は不幸な民族である、という見方もできるのである。
苦労を知らない日本人に、理屈ぬきで働くことを教え込むのは至難のわざであろう。ここに、日本の企業における教育訓練のむずかしさがあるのではなかろうか。教える者にとっても、教えられる者にとってもである。
しかし、望みなきにあらず、それは最近の産業界の様相である。自由化と開放態勢のあらしは、ますます吹きつのり、鍛え抜かれた先進国の中にぶち込まれて、熾烈な生存競争のなかでなんとしても生き抜いてゆかなければならない日本の立場である。そこには大きな試練や危機が、つぎからつぎへとおそってくるであろう。(中略)それらのピンチを切り抜け切り抜けする過程で、われわれは鍛えられ、考え方も変わっていくことであろう。奇妙な期待ではある。がしかし、これが筆者の本音なのである。
とはいえ、われわれは手をこまねいて教育を断念するわけにはいかない。むずかしいのは覚悟のうえで取り組まなければならないのだ。
たんなる知識・技術ではなく、魂、根性、知恵、洞察力、判断力、決断力、行動力、といったものに重点をおいた教育をしなければならないのである。
自分を教育する能力が、すなわち人を教育する能力であることを認識することからはじめなければならないのである。
「経営の腑」第360号<通算675号>(2022年12月23日)
理想像のみ教えるのは危険 一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)よりセキやんコメント: 真の教育を標榜するなら、理想論からのアプローチとは真逆に、まずは@現実と向き合う、次にAあるべき姿を明確にする、そしてBそのギャップを埋める方策をひねり出し、それをC実行する、そしてDうまくいったら続け、うまくいかなかったら修正する、こうした地に足の着いたプロセスをとることだ。
知識・技術のみ教えてもダメだといっても、筆者は知識・技術の教育の必要性を否定しているわけではない。やはり、たいせつなことにはちがいない。これらは高いほうがいいにきまっている。ただし、従来の知識教育では、非常に困る点がある。不用意な教え方をすると、かえって逆効果を生じるおそれが多分にあるからだ。
教えるほうは、ありったけの知識をふりしぼって、これでもか、これでもか、とばかりに理想論をつめこむ。教えられるほうは、なんの用意もないところに、“かくあるべし” という理想像を知識としてとり入れる。
ところが、現実はそうはいかない。理想像などありえない。また永久に望めないことなのだ。そこに理想と現実とのくいちがいができる。その結果は、あるいは教育に対する不信となってあらわれ、あるいは、現実に対する批判となってあらわれる。おそろしいのは、現実に対する批判である。それが、組織に対するものや、責任権限などのうちはまだいい。しだいに上司に、そして経営者に対する批判に変わっていく。経営者に対する信頼感をなくしていくのだ。金と時間をかけて、よかれと願った教育が逆の結果を生むのである。これは会社にとっても、本人にとっても不幸なことである。
教育訓練屋さんは、この危険についての認識がほとんどないといっていい。教育訓練とは、教師が自分のうん蓄を傾けて、相手に知識を植えつけることではない。
欠点だらけの、ドロドロによごれた現実に対処して、どうやって自分自身を高め、会社に貢献するかの道をみつけてやることなのだ。知恵と勇気を身につけさせてやることなのだ、と筆者は思うのだが、読者はどう思われるだろうか。