「経営の腑」第361号<通算676号>(2023年1月6日)
最上の教育は経営者の方針 一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)よりセキやんコメント: 一倉氏がいうのは、「率先垂範」の重要性である。外部に社員教育を丸投げ依存したり、社員のひんしゅくを買うようなトップ自身の言動だったり、そのようなことを戒めているのだ。人間である限り、他人任せで自分に甘い経営幹部には尊敬の念を抱くことはできないし、むしろ拒絶感さえ感じるのである。
「実業の日本」昭和39年12月1日号から田辺製薬社長、平林忠雄氏の論文の一節を引用してみよう。
『私は「自らをもっともよく教育した人間のみが、他人をもっともよく教育することができる」と思う。自分で自分をコントロールできないような人に、他人を指導する力がある筈がない。その意味で自己教育のできる人が権限をもち、そういう人々を育成することによって、はじめて権限を委譲するようにする外はないと思う。それには自分を自ら教育する社風といったものが形成されねばならない。
さいきん社員教育がさかんで、管理職の話、あるいはセミナーもよくおこなわれている。このこと自体は大いに結構で、これによって社員のレベルアップが図れれば喜ばしいことである。それと同時に大切なことは、会社全体に「自ら自分をレベルアップすることが、自らを成功せしめる道」という自覚と実感が、充満した空気をつくることである。私が経営者の立場で、作りつづけている空気はこれで、そういう雰囲気をつくることが、一人一人に自ら自分を教育せしめることになり、会社発展のキメ手にもなると思うのである。
私は、社内にいくら努力しても学歴が低いからダメだ、という空気が以前はあったので、まず学歴のカベをとった。また中途入社とか出身が田辺製薬に向かないようなカベもとった。私は会社内で仲よく仕事をする者、さらに仲よく仕事ができるように指導できる人を尊重することを、人事方針として打ち出し、現実の人事異動、昇給、昇格など人事の実行にこれをハッキリと示してきたのである。
こうして、私が経営にタッチして以来この十年間に、社内の雰囲気はスッカリ変わり、会社も急速な成長をとげ私自身をワンマン経営者たることから解放したが、その原動力となったのは、人的条件の向上だったと思う。』
倒産にひんした会社を立ち直らせただけでなく、大きく成長させた人の言である。平林氏はこれを“自動教育法”といっている。トップの方針と行動こそ教育の基本である。
占部都美教授(元神戸大教授、経営者の泰斗)は、「抜てきを行わなければ、教育効果はあがらない」といっている。
企業内訓練のねらいは、“企業の業績をあげるような行動” をする従業員を作りあげることであるはずだ。とすれば、そのねらいを実現することが真の教育であって、必ずしも形式的な教育訓練を意味しない。いな、形式的な教育訓練そのものだけでは、目的を達することはほとんど不可能だといっていい。
経営者の行動こそ、何ものにもまさる教育である。そして、たいせつなことは、従業員に、勉強することが自分のためになる、という自覚をもたせることである。これは、平林氏もいっている。占部教授も女子バレーボールの大松監督もいっている。本田宗一郎は「自分のために働け」というのが口ぐせである。
人間、自分のためになることなら、どんな苦しみにも耐え、努力するものなのだ。だから、そうなるように、上司がもっていきさえすれば、あとは本人が自分で自分を教育する。平林氏の“自動教育法”とは、まったくうまいことをいったものである。
「経営の腑」第362号<通算677号>(2023年1月20日)
行動させることが最上の教育 一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)よりセキやんコメント: 「その人たちの仕事」からの学びこそ真の教育である。既に359号でもコメントしたが、経営にとっての命題は「わが社の解」であって「一般解・共通解」ではない。「わが社の解」に到達するには、みずからの仕事から導かれるものこそが本物であり、ほんとうに役立つものであるのは自明の理だ。
先年、文部省の国立教育研究所の矢口新氏から、「学校教育についての反省」をうかがって、非常な感銘を受けたことがある。それは、つぎのようなことである。
『学校教育の研究は、はじめのうちはことばによる注入法にあった。研究授業などによる、教師の教え方、それに対する生徒の応答などであった。
研究を進めていくうちに、大きな疑問が生じてきた。というのは、研究の対象はもっぱら教師の言に反応する生徒であった。ところが、ほんとうの問題は教師の言に反応する生徒ではなくて、反応しない生徒ではないのか、ということである。これに対して、いままでほとんど研究されていなかった、これは大きな手ぬかりである、ということに気がついたというのである。
そこで、教師に対して反応しない生徒の観察をはじめた。驚くべし、80%の生徒が反応しないというのだ。講義式の歩留まり20%、残りの80%はなぜ反応しないのか、どうしたら反応させることができるか、ここに問題の本質がとらえられたのである。
そして、その解答はなんであったろうか。それは、みずから行動し、経験することによって学ぶことである、というのだ。「わが身をつねって、人の痛さを知れ」というコトワザの再認識であった。
Learning by doing――学習は成したことによって成立する――のだ。
生徒をみずから行動させる教育、それが集団教育としてのグループ活動、自治活動であり、プログラム学習などであるという。
プログラム学習は、@教材を与え、A生徒が反応し、みずから行動して、B生徒が自分自身で判断し、これを表現する、Cその結果、通告を生徒みずから確認する、 という仕組みになっている。
プログラム学習のほんとうのねらいは、教師の不足を補うものでもなければ、機械化でもないのだ。』
以上が矢口氏の話の要旨であった。
筆者は大きなショックをうけた。同時に筆者の疑問に与えられた解答でもあった。トルストイの「クロイツエル・ソナタ」のなかに「人の痛手を笑いおる。自分で傷を負ったことのないやつは」というセリフがある。その意味の深さをはじめて知ったような気がしたのである。
人は生活のなかで、仕事のなかで経験し、行動することによって、ほんとうに学ぶことができるのである。
企業教育も同じである。従来の歩留まり20%の講義式訓練だけではいけない。被教育者を行動させることを考えていかなければならないのだ。そうでなければ、教育訓練は永久にドロ沼から抜け出すことはできないであろう。では、行動させることによる教育とは、いったいどのようなものであろうか。少し考えてみよう。
1.教育に役だつ最良の道具は、その人たちの仕事自身である…以下の解説文省略
2.実務のなかで教育せよ…以下の解説文省略
3.事例研究とシミュレーション…以下の解説文省略
4.問題解決会議…以下の解説文省略
「経営の腑」第363号<通算678号>(2023年2月3日)
腰抜けをつくる人間関係論 一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)よりセキやんコメント: 組織には、企業などの「機能体」と地域コミュニティのような「共同体」と2種類ある。そして、機能体組織でもいったん出来上がると、奉仕すべき対象よりも組織それ自体の存続が優先されて共同体化の危険性をはらんでいることを理解すれば、おのずと「機能体」である企業組織の在り方は明確となる。
「戦後アメリカから輸入されてきたヒューマン・リレーションズ論は、日本の会社の伝統である“和”の精神に学問的な裏づけをあたえるという逆効果を果たした」(占部都美)のである。
何事も“仲よく”やるのがいいのだということになって、個性のない同調主義者、いいたいことも部下にいえない腰ぬけ幹部をつくるのに、大きな貢献をしてきたのである。
独創的な人、革新的な人、積極的な人は、会社の尊い財産である。こうした人々は個性が強い。その個性を同調主義のなかで殺していく。それが人間関係をよくする道であるからだ。これでよいのだろうか。「角を矯めて牛を殺す」の愚でなくてなんであろうか。
“部下の気持ち”“部下の立場”“部下の納得”ばかりを強調する。それでは、“上役の気持ち”“上役の立場”はいったいどうしてくれるのだ。上役はひたすら部下のことのみに神経をすりへらし、部下に礼をつくさなければならない。にもかかわらず、部下は上役の立場を考える必要はないらしい。部下の上役に対する非礼は許されるというのだろうか。“礼”というものは、交換するものであって、一方的なものではないはずである。これも何事も“丸くおさめる”ための上役の投資であるというのだろうか。
優秀な日本の経営者たちは、こんなくだらないヒューマン・リレーションズなどには目もくれない。
帝人を立ち直らせたばかりでなく、業界の雄にのしあげてしまった大屋晋三社長は、“帝人の社員行動指針”として、
生徒をみずから行動させる教育、それが集団教育としてのグループ活動、自治活動であり、プログラム学習などであるという。
1.常に視野を広くし新しい知識を絶えず世界に求め指導力を持つ人になること。
2.自己の仕事においては常に第一人者たるべく努力し個性ある社員となること。
3.積極的に仕事に当り摩擦を恐れず常に責任をもちつつことに当たる人となること。
4.よいと信じたらいかなる障害にも負けずやりとげること。
5.経験を活用し経験の中から合理性を見出すこと。
とうたっている。堂々たる人間指導論である。進軍ラッパである。ウジウジした人間関係論など薬にしたくもないではないか。
自分で信念をもって行動する人は、摩擦をおそれず、障害をぶち破っていく。独創的なアイデア、革新的な考えほど、つねに批判や反対がつきまとうのである。そうしたものをおそれたら、進歩も確認もないのである。
これからの経営に必要なものは、いたずらに摩擦をさけ、トラブルを防ごうとする人間関係論ではない。
前向きに、革新的な考え方を信念をもってつらぬき通す「マン・パワー論」でなければならないのである。
「経営の腑」第364号<通算679号>(2023年2月17日)
現場の人々のみを対象としている 一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)よりセキやんコメント: ここで一倉は本家本元アメリカにおける人間関係論の片手落ちを指摘しているが、要はモノゴトを論じる場合には人為的な「恣意性」は排除すべきだということを述べている。これは、一倉イズムを「事実情報立脚型」と呼んでいる小職の論拠でもあるのだ。
前項のような、アメリカ流のヒューマン・リレーションズ論の欠陥は、どこから生まれてくるのであろうか。それには、それだけの理由があるのだ。
というのは、アメリカの人間関係論は、会社のなかで、決まったくり返し仕事をしている現場の人々のみを対象にしているからなのである。
その実証は、数年前アメリカのある会社でヒューマン・リレーションズの専任重役を任命したときに、「工場従業員のヒューマン・リレーションズのみに関係する」とはっきりとうたっている。アメリカの考えを端的に表現しているのである。
仲よくすることのみを尊し、とする理由がそこにあるのだ。
そもそも、ヒューマン・リレーションズ論は30年前にウエスタン・エレクトリック社のホーソン工場の実態に端を発している。この実験を指導した、エルトン・メイヨー博士の論文(邦訳名:産業文明における人間問題)をみれば、それが現場の人々のみを対象としていることがわかる。“人間性の認識”はたしかに重要な発見であった。しかし、それから30年を経た今日、それがどれだけの発展をしただろうか。
『最初の土台の上には、ほとんど何の上部建築もなされていない。このような点からみると、われわれが土台そのものに疑惑の目を向けても、それは決して不当ではないのではなかろうか』(現代の経営)
ということになる。
アメリカで従業員というばあいには、事務職員、専門技術者、経営担当者などは含まれていないのである。
現場の人々の研究にのみ関心を示し、専門技術者、経営担当者などは、人間関係の対象からのぞかれているのである。
これらの人々には、人間関係に問題はないとでもいうのであろうか。
しかも、これらの人々は、どこの会社においても、年ごとに質量ともに比重が高くなってきている。この変化には、まるっきり目をつぶっているのだ。
「経営の腑」第365号<通算680号>(2023年3月3日)
経営を忘れている 一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)よりセキやんコメント: 誤解を恐れずにいえば、「会社は社長の考えを実行する場」である。したがって、結果責任はすべて社長が負い、一方社員は結果責任こそないものの実施責任はつきものなのだ。つまり、社員は指示命令されたことを忠実に実行し、その果実を社長が適正に分配するのが経営の原則である。
いまの人間関係論は、個人の心理研究を基礎とし、せいぜい心理学の分野くらいまでしか考えていない。そして、従業員の心理と生理のみに心をうばわれて、かんじんな会社を忘れ、職務を無視している。
会社は、人間関係をよくすることが目的でもなければ、個人心理の研究所でもないのである。会社は商品を生産し、または販売し、あるいはサービスを提供することが仕事なのだ。
筆者の知っているある会社は、社長がアメリカ流の人間関係を非常に重視し、何もかも従業員と相談し、和気アイアイのうちに仕事をすすめ、従業員は楽しそうであった。けれども、その会社は数年の寿命しかなかった。
相談してきめたことは必ずといっていいくらい、常識的なムリのない線に落ちつく。これで会社がうまくいったら、つぶれる会社は一つもない。会社の方針は、社長の信念から、社長の責任で、高い目標を設定しなければ、生き残れるものではない。決定はワンマンでなければいけないのだ。チームというのは運営の面で必要なのである。
いくら従業員が楽しく働き、人間関係がよくても、会社をつぶしたら、なんにもならない。次元の低い、和の精神は会社には大禁物だ。それにひきかえ、あるすばらしく優秀な業績をあげている会社の専務(実質的な社長であった)は、従業員からいろいろ批判されていた。その専務は筆者にこう語った。
「私とて人間関係の重要さを知らないわけではない。しかし、アメリカ流の人間関係を導入して、従業員を指導したら、うちの会社はつぶれる。現実はきびしいのだ。私は従業員の批判を承知のうえで、厳しい要求をしているのだ」
この専務は、生きるための至上命令にしたがって行動していたのである。
仲よくするだけの人間関係は、それがいかに優秀なものであっても、会社にプラスにならないようなら、“悪い人間関係”である。人間関係は、会社の繁栄に優先しないのだ。
日本一のハッスル会社、本田技研には、アメリカ流のヘナヘナ人間関係など薬にしたくともない。すべては社長の“人生哲学”から発する“個性的マン・パワー論”なのである。