「経営の腑」第366号<通算681号>(2023年3月17日)
経済的基礎のない人間関係論はむなしい 一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)よりセキやんコメント: 弊社KJSの使命は「一生懸命が報われる」仕組み作りのお手伝いで、そのために管理会計(わが社がもっと儲けられるヒントを得る会計)を経営に導入し、「わが社のお客様の要求を満たす」ことに集中対応する。この「まずは、たくさんの賃金」の実現法こそが、“Sフレーム”なのである。
「人はパンのみに生きるにあらず」という格言がある。たしかに一面の真理ではある。これを、人間関係論者は伝家の宝刀としている。そして収入のことを完全に無視している。
それらの人々の論拠は、従業員からとったアンケートの結果、収入は第一番にきていないから、というところにあるらしい。しかし、そのアンケートが真実を語っているかどうかということである。
従業員は、上司からにらまれることをおそれて、なかなか本当のことはいわないものである。
アメリカとて同様である。アメリカでも、「会社をかえる」ということを平気でするのは、専門職やマネジャー・クラスの人々であって、現場の人々は、他の会社へ移ることを極度におそれているのだ。こうした人々は、給料に不足があっても、アンケートにはこれを第一にあげないのは日本と同じであろう。アンケートの結果は、事実の反映ではないと考えるほうが妥当であろう。
経済的基盤にたたないで、なんの人間関係であろうか。人は会社には生活のために働きに来ているのであって、会社のなかで幸福になるためではないのである。
先年、筆者がある会社に出向き、社長と話をしているとき、たまたま人間関係のセミナー案内状が届いた。そのとき、社長はこの案内状を一目みるや、サッサと破いて、くずかごに入れてしまった。
そして、
「うちの会社は、まだ人間関係のテクニックを導入するほど、従業員に給料を払っていない。従業員が、いまいちばん望んでいることは、賃金をあげてもらいたいということだ。私にめんどうくさい人間関係の改善につくすヒマがあったら、会社の業績をあげて、従業員にもっと給料をやるようにする」
といった。
筆者は、そのとき非常な感動をうけたのである。
「パンのみに生きるにあらず」ということは、観念論者にしばらくあずけて、「まず、うまいパンをあたえる」ことを最優先に考えようではないか。
「衣食足りて礼節を知る」のだ。人間関係はそこから出発しよう。まず、何をおいても賃金だ。経営者は賃金をたくさん出せるような会社にすることを第一とし、従業員は賃金をたくさんもらえように心がけることだ。人間関係も労務管理もまず賃金からである。
とはいっても、「会社よくなれば賃金をたくさん払えるから、みんな働け」といっても、人はけっして真剣に働こうとはしない。それはなぜであり、またどうしてそうなるのか。それについて非常に有効な方法を次章で紹介しよう。
「経営の腑」第367号<通算682号>(2023年3月31日)
労務管理の基礎は賃金 ある実例 一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)よりセキやんコメント: このラッカー・プランは、従業員の勤労意欲を高めるのはもちろんだが、社長自身に経営者の最も大事な仕事は「付加価値を適正に配分すること」であると気づかせる効果がある。賃金も含め、経営が関係する先への配分を適正に行うことが、最終的に社長のなすべき仕事なのだ。
東京都港区の有限会社K製作所は、従業員30名のネジ専門メーカーである。
社長のK氏は、戦後裸一貫からはじめて今日をなした人で、誠実、温和な人柄は、得意先の信用もあり、従業員の定着率もよい。(中略)
しかし、昭和35年、従業員が30名になったころから、会社の成長がとまってしまった。どうしても月商600万円のカベを突破できなかったのである。(中略)
いったん成長がとまると、好ましくない要因が発生してきた。従業員の士気の低下と、付加価値に対する賃金率の上昇である。(中略)
賃金率50%は倒産形である。このままではやっていけなくなる。生産奨励金制度はあるが、これも効力をもっていないことは、賃金率の数字がはっきりと物語っていた。(中略)
このままでは会社は行きづまる。なんとかしなければならない。社長の悩みは深かった。
昭和38年の秋のことであった。地区工業会の主催で、小企業の経営者たちの研究会があった。熱心な社長はもちろんこれに出席した。その席上で、講師であった筆者と知り合ったのである。
演題は、成果配分方式による賃金制度であった。ラッカー・プランといわれているものである。(中略)
社長は、すぐ筆者をよんで決意を話し、ラッカー・プラン導入の相談をしたのである。
しかし、こちらは慎重であった。というのは、この制度は労使の相互信頼の上に立ち、社長が絶対に約束を守る、経理を公開する、という条件がなければ成り立たないからである。過去において、この制度を採用した会社で、業績の向上につれて従業員の収入が増えると、多額の賃金を払うのが惜しくなって、細工をしたり、配分率を一方的に変更したりして、失敗したケースがいくつもあるからである。この点については、社長は十分の覚悟をもっていた。
社長は、筆者の分析した資料をもとにして、筆者とともに慎重な検討を何回もくりかえしたのである。
その結果、社長は次のような賃金の大綱を決定した。
1.賃金の総額を付加価値の45%とする。
2.賃金総額の4分の3を当月賃金とし、4分の1をボーナス積立金とする
3.毎月の生産奨励金は、当月賃金から固定給と残業手当を差し引いたものとする
この決定に基づいて具体案が作成され、具体案による試算がくりかえされた。こうして得た成案を、社長みずから全員に発表した。昭和39年1月末のことであった。社長の誠実な人柄のために、従業員はその場で納得しただけでなく、その瞬間から従業員の態度がガラリと変わってしまったのである。(中略)
月々の生産奨励金は、従来の月当たり総額15万円平均が25万円平均とはね上がり、ボーナスは7月に約2か月分、年末には3ヶ月分となったのである。
こうなってくると、人間関係の細かいテクニックや勤労意欲向上策は一切不要となってしまったのである。
K製作所を、このように変えてしまったラッカー・プランとは、どのようなものであり、なぜ従業員の勤労意欲をもりたてたのかを、つぎに述べてみよう。
「経営の腑」第368号<通算683号>(2023年4月14日)
動けども働かず 一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)よりセキやんコメント: 人間は基本的に“自己中心的”である。こうした基本性向をもつ人間の集団が会社である。したがって、会社組織の活性化を図るには、この「自分のためになるかどうか」という価値基準、すなわち人間の根本特性を前提にしなければならないというだけのことだ。
従業員が思うように働いてくれないというのは、多くの会社の社長の大きな悩みである。
なんとかして働いてもらいたいと、いろいろな手を打つ。精神訓話をし、表彰制度をつくり、作業環境を改善し、提案制度を設け、各種講習会に出席させてみる。しかし、それらのものが、どれだけの効果があるのか。それともないのか、サッパリわからない。
中・高年層の時間かせぎの残業は常態化して、賃金の一部のようになってしまっている。仕事量が減っても、その割に残業は減らない。
反対に、若手層は残業をきらい、急ぎの納期の仕事に支障をきたす。注意すれば休んだり、やめたりする。ハレモノ扱いである。
提案制度も、はじめのうちは、わずかばかりの効果があったが、たちまちのうちに熱がさめて有名無実化していく。
いくら声を大にして品質向上をさけんでも、なかなか不良率は下がらない。職場の責任者に気合をかければ、熟練者の不足、作業量の過大、設備の老朽を理由にあげて反撃してくる。
材料や消耗品は、あたかもそれがロハで手にはいるがごとき無駄づかいをして平気である。
中・下級幹部は、人員不足を伝家の宝刀としてふりまわすが、積極的な合理化にはさっぱり熱意を示さない。間接部門の人員はいつのまにか膨張して、余分な人件費と経費をくっていく。
経費節約をとけば、ケチだと陰口をきくだけで、本気で節約しようとはしない。ホトホト困りぬいている、というのが経営者の立場なのである。
このような状態を、もっともらしい人間関係論や、観念的な組織や責任権限論で改善しようとかかっても、絶対に解決しない。職務給や職能給を導入しても効果はない。問題はぜんぜん別のところにあるからなのだ。
従業員が働かないのは、働いても、それがほんとうに自分のためになるかどうか、わからないからなのだ。
「人は自分のために働いている」(本田宗一郎)のだ。自分のためになるか、ならぬか、わからないのに働くわけがない。これがただ一つの原因なのだ。
賃上げ闘争は、自分のためになると思うから、団結してがんばるのだ。
自分のためになること、それを最も端的に示すものは賃金である。とするならば、“働いたら、それだけのことがある”ような賃金を制度として制定し、しかもこれで“会社がやっていける”ようなものにすればいいわけである。それが成果配分方式としての、ラッカー・プランなのである。
前項の例のK製作所の従業員がはりきったのは、“自分のためになる”とハッキリと認識したからなのである。
ラッカー・プランの説明にはいるまえに、というよりは、ラッカー・プランの考え方を、よりハッキリさせるために、従来の賃金に対する考え方の罪悪を考えてみよう。
「経営の腑」第369号<通算684号>(2023年4月28日)
伝統的な賃金論は労使抗争を激化させる 一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)よりセキやんコメント: 賃金についてトレードオフ的な議論をしている限り、「費用」と「生活の原資」の両立はできない。ラッカーは、「賃金の原資である付加価値」と「賃金」の関係に法則性を見い出すことで、その結果として両立させるには「付加価値」そのものを増大させればよいという解決の糸口を導き出したのである。
賃金はつねに労使抗争の焦点になっている。総評は、「春闘」を年中行事と心得て、これを行わないうちは花見をしないことにしている。ボーナス闘争に弱い労組幹部は、次期落選確実である。
賃金は企業体にとっては「費用」である。であるから、「安定・刺激・節約」の三原則が守られなければならない、という“迷論”にしたがって経営者は賃金を安く抑えようとする。
こんな自分勝手な言い分があるだろうか、完全に会社側の一方的見解である。たしかに企業体にとっては費用であっても、働く人々にとっては“生活の原資”なのだ。低く抑えられてはたまったものではない。
この費用と生活の原資という、賃金の二面性が真っ向から対立し、それぞれの立場からこれを守るために、激烈、深刻な闘争が展開されるのである。
さらに、代表的な賃金論の考え方を見てみよう。
1. 限界生産力説
「賃金は労働の価格である。であるから、需要と供給との関係によって変動する」というのだ。賃金はほんとうに“労働の価格”なのであろうか。そうではないのだ。これは次項で説明することとして、この考え方は、必ず使うものと使われるものの、どちらかが不利になるという結論になる。
2.労働価値説
「賃金は労働力そのものの価値である。であるから、賃金は労働再生産のための生活給を基にすべきである」というのだ。愚論である。生活費の見積もりでケンカがはじまることはまちがいない。そのうえ、労働者は、労働力を温存するために、多くもらって少なく働こうとするにきまっている。
3.剰余価値説
「賃金は労働の価格である。ゆえに、需要と供給との関係によって変動する。資本が蓄積されると、資本家はこれを設備に投資する。そうすると、労働が機械におきかえられて労働の需要が減退し、需要と供給との関係で賃金が切り下げられる。賃金が切り下げられるから、資本家はますますもうかり、このもうけを設備に投資してますます賃金は切り下げられる。という循環により、労働を搾取する。そのゆきつく先は、資本主義の崩壊である。」というのだ。この説は、機械におきかえられる労働力が、必ず労働需要量の増加より大きいという前提がなければ成立しない。現実はまさにこの逆である。この考え方が労使抗争を激化させることは、なによりも事実がこれを証明している。
以上三つの賃金論や、前にあげた賃金の三原則から導かれる結論はなんであろうか。
それは労使の利害はつねに相反する ということなのだ。
もし、ほんとうにそうなら、なんと悲しいことではないか。同じカマのメシを食う者どうしが、相争わなければならない宿命を負っているというのだ。
しかし、労使の抗争は宿命なのだろうか。絶対に両立しないものなのだろうか、なんとか両立させる方法をみつけだすことは、できないものだろうか、と考える人は知恵者である。
そして、この知恵者は、その考え方と方法を見つけ出した。その人の名を、アレン・W・ラッカーという。
「経営の腑」第370号<通算685号>(2023年5月12日)
賃金論の革命…ラッカー・プラン 一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)よりセキやんコメント: 付加価値から賃金率を用いて賃金を算出するように、他の費用についても先行投資配分・再生産配分・社会配分・金融配分など付加価値の配分先として腕を揮うのが、真の経営である。
賃金は労働の価格である、という考え方はまちがっている。人は労働に対して金を払っているのではない。販売の基本的な考え方に、「人は商品に対して金を払っているのではない」というのがある。金は商品に対してではなく、商品のもっている機能(はたらき)に対して金を払っているのだ。自動車を買うのではなく、自動車のもっているスピード、労力節減、快適さ、エリートの象徴というような、“はたらき”を買っているというのだ。
労働もこの考え方と同様に、労働のもっている“はたらき”に対して賃金が払われるのである。このことをハッキリと認識しないと、賃金論がまったくあらぬ方向に進んでしまうのである。
ではいったい、労働のもっている“はたらき”とはなんであろうか。それは、「付加価値を生み出す」である。
それならば、付加価値と賃金とは、どのような関係にあるのか。ということが当然考えられるのである。この関係をあきらかにしたのが、ラッカーなのである。
ラッカーは、1899〜1929年の30年間にわたる、アメリカの工業統計を3年費やして調べた結果、
「企業の支払う賃金総額は生産価値(付加価値のこと)に正比例して変動する。それは、生産高とも、純利益とも、総販売価格とも、いずれにも一定の関係をもって変動していない」
ということを発見したのである。その後の調査でも。この関係は変わっていない。(中略)
これは、アメリカだけの話ではない。世界のあらゆる国の、どのような業種、業態、規模であっても、それぞれの分配率はちがうが、付加価値に正比例する、という事実は厳として存在しているのである。(中略)
会社側はたえず賃金を低く抑えようとし、労働者は1円でも多く得ようとして血みどろの闘争をくり返しているのである。それでも、この率を変えることはできないのである。
人間社会のあらゆる変化、あらゆる努力を超越して、この賃金率の法則は厳として存在するのである。
もうこうなれば、われわれはこの法則を「見えざる神の手」としてすなおにしたがうべきであろう。
そして、この法則をうまく利用して、われわれの生活を向上しようと決心することである。
この決心をした瞬間から、事態は180度転換してしまうのである。
それは、「労使の利害は一致する」ということになってしまうのだ。これこそ、われわれの探し求めていたものでなくて、なんであろうか。まさに賃金論の革命である。では、なぜそうなってしまうのであろうか。
“付加価値を一定の割合で労使に分配する”のであるから、労使とも、もはや分配に対する争いはする必要がない。そして労使とも、自分の有利になることは、付加価値そのものを大きくすることなのだ。付加価値を大きくすることが、労使ともに自分の利益ならば、利害は完全に一致するのである。
労使は手をたずさえ、ともに付加価値の増大に専念すればよいのだ。(中略)
従来の賃金闘争は、付加価値に対する分配率の争いである。その分配率は大きな目でみた場合は、闘争くらいで変えられるものではないのだから、ムダであり、その原資である付加価値の増大−これが真に賃金を増大させるもの−を考えてもみないのだから、なんとアホらしいことではないか。
賃金率の法則にしたがい、付加価値を基準として分配率を決めるやり方を、ラッカー・プランというのである。日本式には「成果配分方式」といわれている。念のために付け加えておきたいのは。ラッカー・プランは“利益配分”ではなくて、“付加価値配分”であるということである。