「経営の腑」第401号<通算716号>(2024年7月19日)
第九章 支援体制を整備する(2) 社長の販売学(一倉定著) 産能大学出版部1991年刊より
5.管理盲信を戒める (前号より再掲)
コスト、能率、効率、生産性、回転率、円滑化というような、伝統的なマネジメントの思想は、すべてお客様の要求に反しないという条件のもとでのみ正しいのである
自分がお客様の立場だったら、どうしてもらいたいか、がすべてである
市場の変化に対応して変わらなければ生きていけない企業の組織理論に、変化を阻止するという特性を持った市場なき組織の理論を導入してしまったことが、現代の企業組織に矛盾と混乱を生み出し続けている
6.販売情報会議
販促会議ではなく個別チェックを
販売不振の理由は「自分ではどうにもならないこと」に決まっている
人間というのは「自分が悪いとは絶対に言わない動物である」
事業の経営も販売も、その根本にあるのは人間の心理である
結果は情報量に比例する
7.戦略的組織
伝統的な企業組織の思想は「敵と戦うための組織とはどんなものであるか」ということは全く考えずに、日常の繰り返し業務に焦点を合わせている。当然、戦いには不向きである
日常業務推進部門と戦略推進部門の2つに分ける→@最前線の様子を社長が把握できる、A人材がたちまち育っていく
組織というものは、もともと上司が優れていても、反対にボンクラでも部下は育たないようにできている
上司が優秀ならば部下は出る幕がない。当然積極性もなければ努力もしない
上司がボンクラだったら、部下はやる気を失ってしまう
8.経営計画書
企業の最高責任者である社長が、自らの会社の“生き残る条件”を基にして、発展の道を明記したもの
これには社長の信条、決意、経営方針、目標数字(売上高、経常利益、設備、要員、資金、バランスシート等)、その他重要事項を盛り込んである
この段階で、社長は我社の全貌を知ることができる。本当のところ、これ以外に社長にとって会社全体を知る方法はない
セキやんコメント: 第一章「社長の顧客訪問」から、順次「販売とは能率が悪く、経費がかかり、面倒くさいもの」「クレーム処理に誠意を尽くす」「我社の内部資料<売上>を読む」「価格政策を持て」「蛇口作戦」「市場戦略を持て」「ランチェスター戦略を推進せよ」「支援体制を整備する」と、いずれも社長の重要かつ具体的テーマだ。
※次号からは、一倉定“社長学”を一旦離れ、改めて「セキやんの信条」を新聞寄稿記事から引用紹介します。
「経営の腑」第402号<通算717号>(2024年8月2日)
「個」化時代のコスト負担に思う 〜家や車のために仕事〜
出典:岩手日報「いわての風」寄稿記事(第1回目 2007年4月9日)
はなから私事で恐縮だが、この三月に通算八代目の中古自動車に乗り換えた。走行距離が27万キロに達してもエンジンは何ともなかった。しかし、さすがにマフラー他の部品の修理費がかさみ、車検時期だったこともあって七年ぶりに買い替えることにした。
中古なので金銭的な負担はまだ軽い方かもしれないが、周りを見渡すと老若を問わず数百万円もする新車に乗っている人たちも少なくない。
数年前の福島大の研究では、現代社会を生きていくなかで最も大きな買物として「自動車」「住宅」「子どもの教育」の三点が挙げられた。これは世のニーズと事業との密接な関係からして、まさに産業振興の種となる。
その証拠に、本県をはじめとして、このところの自動車産業へ注がれる視線は熱い。
また、住宅産業についても二〇〇六年の全国新設住宅着工戸数が前年比4・4%増の百二十九万戸に達するなど、住宅取得意欲は依然高い。
さらに、四年間で一千万円とも言われる大学生のわが子への仕送りのため、親はつめに火をともすようにやりくりしている例は珍しくない。
これらの国内全体における市場規模を推計すると、自動車は二十五兆円程度。戸建住宅は二十兆円程度。全国の大学の在学者数は二八五万人(文部科学省の学校基本調査より)とされるので一人当たり平均で年間二百万円とすると、それだけで軽く五兆円超の規模だ。
ここで個人消費と住宅投資を合わせた家計分の消費は、わが国の国内総生産(GDP、約五百兆円)の六割の三百兆円ほどだが、実にその六分の一にあたる約五十兆円が前述の三点セットに消費されることになる。
従って、これらに目を向けることは企業の市場戦略としては、きわめて合理的である。
しかし、生活者としてこれを手放しで受け入れて良いものだろうか。消費者の立場でそのフトコロ具合から検証したらどうだろう。
例えば、平均的県内企業の四十歳前後のサラリーマンは、この十年間で所得が約二割減っており、他に収入がなければ年間三百万円程度ですべての生活を賄っていかなくてはならない。先に述べたGDPからスライドして当てはめると、年収三百万円の内から車と家のローンに年間四十五万円を払う計算となる。
さらに実際の負担はもっと重い。車のローンが月三万円にボーナス時二十万円払うとなると、家賃五万円のアパート暮らしでも年間百三十六万円となる。実に収入の半分弱がこれらに費やされる。これが、典型的な地方の庶民生活の実態の一端であり、まさに「車や家のために仕事をしている」状態となる。
ところで、なぜこの三点セットが消費を駆り立てるのだろうか。それは、誤解を恐れずに言えば「個の空間」を確保するために必要不可欠だからである。
つまり、長年の持家政策によって家庭には「家」という独立遮断された空間が要るものだと刷り込まれ、「車」は自分だけの世界に浸れる魔性の空間を備えている。
そして子供には「高等?教育」を受けさせることで自律できる素養を身につけて自活して欲しいという切なる親の願望が、時には遠く離れた地の異空間を用意させる。
翻って、鍵かけなど無用な地域コミュニティーが存在し、時間が悠々と流れ、それぞれの個性を認められる子育てが行われていた時代は、ことさら「個」を意識した仕掛けを必要としなかった。しかし、皮肉にも、物的に飽和した「個」化時代の真っただ中にいる今、我々はある種の徒労感を覚えながらも、その仕掛けに対する過大なコストを背負って道なき道をさまよっているような気がする。
出典:岩手日報「いわての風」(2007年4月9日)寄稿記事へのリンク
「経営の腑」第403号<通算718号>(2024年8月16日)
ハンカチ王子への共感にヒントあり 〜華より実 知事に期待〜
出典:岩手日報「いわての風」寄稿記事(第2回目 2007年6月4日)
昨夏の甲子園に続き、この春は東京六大学野球を盛り上げたハンカチ王子こと斎藤佑樹投手。特に年配女性のシンパシーは絶大だが、その母校である早稲田実業高校の校是は「去華就実」で、当の王子の言動にも影響しているようだ。
「去華就実」は、ほぼ百年前の一九〇八年(明治四十一年)十月十三日に発表された「戊申詔書」の一節に由来する。
当時の日本は、日清・日露両戦争の戦勝国ということから民族的優越感や傲慢不遜な風潮が蔓延し、世情はまさに九〇年代初頭までのバブル期と同じような状況だった。
もっとも懲りない現代人のわれわれは、のちにしっぺ返しを食らい、苦い思いを味わうことになるわけだが…。
さて、百年前と言えば、国の指導者たちが欧米の要人をダシに、鹿鳴館で夜な夜な舞踏会を開くなど贅の限りを尽くし、軽佻浮薄と呼ばれた時代を経て戦争を経験し、国家財政は日露戦争前の三倍にも膨張した。ちまたでは投機やギャンブルが流行する。
そこに為政者として登場した桂太郎首相は、大博覧会の延期や馬券の販売禁止など抜本的な改革を進め、あわせて国家財政の緊縮を断行した。
その集大成が、国民に対し明治天皇が直接訴えかける形での「戊申詔書」公布である。
詔書には、国同士の友好や質素で誠実な生き方が述べられており、現代社会にそのまま通じる部分も多い。とりわけ「華やかなことを退けて実質あるものに力を注ぐべし」というこのくだりは、時を超えた今も強い共感を覚える。
従って、これらに目を向けることは企業の市場戦略としては、きわめて合理的である。
ちなみに、桂首相は一方で「ニコポン宰相」と呼ばれるなど、その評価は分かれるところだが、第一次から第三次内閣まで通算すると、その在職期間は歴代最長で2千八百八十六日を数える。
また、桂首相は、吉田松陰のよき理解者だった中谷正亮の甥にあたり、バリバリの長州閥だが、第二次および第三次桂内閣では、海軍大臣に齋藤実、逓信大臣に後藤新平を任ずるなど、岩手県人とも縁が深い。
さて、その本県では今春、十二年ぶりに新知事が誕生した。
新知事は、「見習いという期間はあり得ない。この四年間最初から飛ばして行きたい」と若々しく意気込みを語り、「県民の暮らしや仕事を守って、下落している県民所得を上げること」を、いの一番に掲げている。
そして、県人知事として現場をよく視て、しっかり決断していく覚悟だという。全国最年少知事ながら、なかなか堂々としたもので期待感を抱かせるのに十分だ。
ここで再び詔書に話を戻すが、詔書の公布は、当時の日露戦争後の農村の疲弊に対応した面もあるといわれ、翌年から地方改良運動が活発化した。
この地方改良運動は、宮地正人著「日露戦後政治史の研究」の表現を借りれば、「地方自治体の財政整理・経済殖産・訓育風化・勤倹貯蓄などを目的とし、効率的な町村運営、地区有林野の統一と農事改良、小学校教育と青年団の奨励などを重視」して進められた。
翻って現代、平成の大合併で市町村の効率化が企てられ、農業を含めた産業構造の抜本的な見直しが求められ、青少年教育が声高に叫ばれている昨今の情勢は、戊申詔書公布当時と酷似している。
ニコポン宰相やハンカチ王子ではないが、わが県の新知事には、「去華就実」の精神を踏まえ、中央の雑音やミニバブルの風潮に流されることなく、当地に根差した着実な行政経営を行い、百三十八万県民の負託に応えてもらいたいと、切に願うものである。
出典:岩手日報「いわての風」(2007年6月4日)寄稿記事へのリンク
「経営の腑」第404号<通算719号>(2024年8月30日)
事業経営に欠かせない「地道さ」 〜創業者支援 継続的に〜
出典:岩手日報「いわての風」寄稿記事(第3回目 2007年7月30日)
八月一日に岩手大学構内に盛岡市産学官連携研究センターがオープンする。また県・岩手大学・岩手経済同友会が来年度「(仮称)いわて未来づくり機構」の設立を検討するなど、大学の「知」を産業界に活用しようとする県内の動きは活発だ。
二〇〇三年には岩手ネットワークシステム(INS)が地域の産学官連携への貢献が認められて経済産業大臣賞を受賞するなど、岩手県における事業化支援は全国的にも高く評価されている。
だが、これが地域の事業者に真に寄与できているかどうかについては、やや心もとない点がある。創業時の支援を例に、そのあり方について、日ごろ感じていることを述べたい。
支援機関主催の創業セミナーで著名講師の口から「あきらめない限り、失敗はない!」というデフォルメ(変形強調)されたフレーズが発せられる時、創業予備群や支援機関関係者の心は躍る。
しかし、この種のメッセージはもろ刃の剣で、事業意欲を持ちながら歩み出せない人への勇気づけには有用な反面、事業にウブな向きにとっては誤った動機づけの悪魔のささやきにもなりかねない。
事業には、それにかける情熱の強さと設定目標に至るまで確実にプロセス(過程)を踏んで行く地道さの両方が必要とされる。しかし、極端なデフォルメ手法は、片方のプロセスをおざなりにさせる危険性を秘めている。
私はここ十年ほど当地で創業者状況を観察してきたが、こうした刺激的な言葉に動機づけられ事業を立ち上げたものの、漠とした夢物語を追い続けて頓挫した悲劇の主人公は少なくない。
むろん失敗の原因はこのことばかりではないが、大都会と違い、純でいちずな県民性からして、その動機づけ効果が彼らにとって十分だったのは確かである。
ところで失敗にも、注意不足や準備不足といった必然的な失敗と、新境地に果敢にチャレンジしながら全うし得なかったが次につながる前向きの失敗とがある。
自動車メーカーのホンダには「失敗表彰」という制度があり、この制度を通して後者の失敗を認め、社員が萎縮せず伸び伸びと前向きの仕事ができる環境作りを目指している。
このやり方は、目標までの道のりを明確にし、段階を踏んで最終目標まで継続させる合理性や堅実性を育む。
それに対して、過程軽視のデフォルメ手法は、「夢」だけに関心を抱くことがあたかも成功の秘訣であるような勘違いを助長させる。
私は、日々事業者群の奮闘ぶりを目の当たりにし、また各機関所属の支援者たちの献身的な活動ぶりにも触れる機会も多い。しかし、せっかくの努力もその向け先を誤ると、水泡に帰すばかりでなく、むしろマイナスに働く。
それを防ぐには、事業化支援はセミナー講師やコンサルおよび支援機関のためにあるのではなく、事業者一人ひとりのためにあるという本来目的を関係者が自覚することだ。
具体的には、一過性のイベントセミナーなどの話題作りなどに腐心せず、事業者の軌道修正を含めた事業の立ち上げ前後やその後の継続的フォローに注力すべきなのだ。
それには、一時的に遠方から招くタレント講師に頼らず、自らが日常的かつ継続的に関わり続ける仕組みと実力をつくり出すことこそが求められる。
いつの世でも成功者といわれる事業者群は、浮ついた一時の勢いだけでは事業が継続しないことを皆良く知っている。
たまに服用する栄養剤よりも日頃の食事が人の健康に寄与するのと同じで、事業経営の健康作りは普段からの地道な活動にあることを肝に命じたいものである。
出典:岩手日報「いわての風」(2007年7月30日)寄稿記事へのリンク
「経営の腑」第405号<通算720号>(2024年9月13日)
「カッコつけ」百害あって一利なし 〜真摯さこそ成功の鍵〜
出典:岩手日報「いわての風」寄稿記事(第4回目 2007年9月24日)
公共サービスには住民の暮らしを守るという使命・目的があるが、その原資の足しにする筈だった地方競馬の赤字化が止まらない。全国共通の問題だが、当県ではその本来目的におよそ似つかわしくない競馬場がバブル後に完成し、その投資が負の遺産となっている。
また、私がかかわっている企業経営の場面では、形から入ってしまい、いつまで経っても中身が充実しない経営者もいる。売上のメドも立たないのに不相応なオフィスを構えたり、仕事時間を削ってまで事業と無関係な名誉職にうつつをぬかしたり、いわゆる「ええカッコしい」のタイプだ。
こうした体たらくは、本来の目的を忘れ、いつの間にかその手段が目的になってしまう愚かさや不誠実さからくる。
冒頭の例では、けた違いの公的資金を投入し、あれだけ立派な施設を建てた仕掛け人たちは、それに金をかける意味を誠実に認識していたのか、はなはだ疑問に感じざるを得ない。私が尊敬する在野の大先輩方によると、当時決定権を握っていたのが天下りの役人OBで、その感覚は気前の良い虚業家のようだったという。
事業の元手は自己責任で集め、その使い道についても吟味を重ねるというのが当たり前の実業感覚からはとうてい理解できない。ましてや、公金を原資にするのであれば、なおさら誠実でなければならないのに、何を勘違いしたのか、虚勢を張ってのなれの果てという側面があったようだ。
二例目の企業経営の場合、底の浅い見えっ張りは、すぐに馬脚を現して市場に自然淘汰されるので実害はないが、他山の石として教訓とするのは有用であろう。
そこで、こうした見栄やカッコつけは百害あって一利なしだということを、以下で論じたい。
その一つのヒントが、二年前に亡くなった世界的ビジネス思想家P.F.ドラッカーの著書にある。
彼は、上に立つ者の資質として「真摯さは、絶対外されない」とし、さらに「真摯さは、とってつけるわけにはいかない。ごまかしがきかない。上役の無知や無能や頼りなさなどには部下は寛大たりうるが、真摯さの欠如を部下は決して許さない」と著している。
確かに、「この人のもとなら、少々のことは我慢して頑張ろう」と思わせる人物には、例外なく真摯さ(=誠実でひたむきなこと)がある。
逆に真摯さが欠けると、ごう慢で高圧的になり、他への畏敬の念も持てずに独善に陥るから、部下の協力などおぼつかない。
当然、事業家の場合も自らの思いに「真摯」であることが、事業の成功につながるわけだ。
折しも、中央政界では、短期間に問題大臣がコロコロ替わった揚げ句、トップが所信表明直後に突如辞任した。また産業界でも、食品会社の肉種偽装や賞味期限のごまかしが発覚するなど、いろいろな分野で不誠実な事象が続発している。
この情けない世相の一因として、あらゆる場面での二世や三世の跋扈という現象がある。ヒトにもよるが、彼らの言動には軽薄さのみが目に付き、その親や祖父母らが元来持っていただろう使命感のカケラすら感じられないことが多い。
その点いわての地では、古くからこうした人種を「お里が知れる。なった気(=謙虚さを欠く、増長)するな!」といさめ、地道にことをなす「真摯さ」を尊重する気風が脈々と継承されているのに救われる。
今の岩手に生きる我々は、先達が育んできたこうした優れた風土を大きな地域資源として、特に人材面に丹念に生かしたいものと、つくづく思う。
出典:岩手日報「いわての風」(2007年9月24日)寄稿記事へのリンク