Sekiyan's Notebook グローカルニュース〜経営の腑

セキやん通信「経営の腑」


第411号“満杯のコップにお湯は注げない 〜謙虚に「聴く耳」大切〜”<通算726号>(2024年12月6日)

第412号“人は信頼されると応えようとする 〜選ぶ側の責任も重要〜”<通算727号>(2024年12月20日)

第413号“事業に不可欠な「本音のWHY」 〜段階ごとに進化せよ〜”<通算728号>(2025年1月3日)

第414号“「浮かす金」より「稼ぐ金」 〜市場の目線忘れるな〜”<通算729号>(2025年1月17日)

第415号“トップが決めれば組織が変わる 〜原点は顧客のニーズ〜”<通算730号>(2025年1月31日)

「経営の腑」第411号<通算726号>(2024年12月6日)

満杯のコップにお湯は注げない 〜謙虚に「聴く耳」大切〜
  出典:岩手日報「いわての風」寄稿記事(第10回目 2009年1月5日)

 岩手ゆかりの宰相原敬に高く評価され、後藤新平とも親交のあった中村天風は、わが国ヨガの先達であり、日露戦争時の経歴から「人斬り天風」と称された。さらに、当時コロンビア大学で医学を修めるなど、並外れた胆力・知力の持ち主だった。
 その天風が突如、奔馬性肺結核に見舞われ、治療法を求めて世界を放浪していた時のことだ。
 エジプトでヨガの大聖人カリアッパ師と出会った。カリアッパから、病を見抜かれた天風は、すがる思いで救いを求めた。カリアッパは、天風を受け入れ、拠点であるインドの山奥に連れて行った。天風はすぐにでも治療法を教われるものと思っていたが、いつまでたってもカリアッパに教える素振りは見られなかった。
 業を煮やした天風は、カリアッパに抗議したところ、カリアッパは「水で満杯のコップに、お湯を注ごうとしてもこぼれるだけで、何の意味もない」と、まずは聴き手側に受け入れる姿勢が必要であることを指摘した。
 すでに述べたように天風が自ら医学に知見を有し、さらに世界中の医療の権威者にも当たっており、それなりに医療知識へのプライドを持っていたことを、カリアッパは見透かしたのだ。
 「おまえの中途半端な知識やプライドは、病気の治癒に邪魔なだけで、何の役にも立っていない。その証拠に、病気を治せないではないか。そんな了見はきれいさっぱり捨て去らないと、いくら私が良い知恵を与えても意味がないのだ」と喝破され、天風は目を覚まさせられたという。
 これを契機として、積極(せきぎょく)の精神を伝授された天風は、わずか三年ほどでヨガの極意を体得し、不治と言われた病も完治した。
 その後、帰国した天風のもとには、政治家や財界人、さらに宇野千代などの文化人も含め各界の大物たちが参集し、わが国の思想に大きな影響を与えることになった。
 傑出した人物の天風でさえ、「聴くこと」にこれだけ難儀したわけだから、多くの企業経営者に「聴けない」傾向が見られるのは当然のことだろう。
 しかし、企業経営の成功要素として「聴く耳を持つ」は必須である。なぜなら、事業とは「顧客の声に応えること」そのものだからだ。
 企業は経営者次第といわれる通り、経営者に「聴く耳」や聴こうという姿勢がなければ、社員もそれにならい、顧客に対する関心を持つことはない。万が一顧客本位の優秀な社員がいても、早晩こんなトップに見切りをつけて去っていくのが関の山だ。
 この「聴く耳」は、いわゆる「素直さ・謙虚さ」と言い換えられるが、等級があるので要注意だ。
 一等級は、「バランス良く聴く耳」で、本物の成功者の多くはこのタイプだ。包容力に裏打ちされ、いったんすべて受け入れてから自分なりに咀嚼して取り入れるパターンだ。
 二等級は、「聴きすぎる耳」だ。いわゆる付和雷同タイプで、平時には問題ないが、他人任せで優柔不断と軽率さが同居する危うさを持つ。
 最悪の三等級は、「上っ面だけの聴く耳」だ。他人の意見など最初から受け入れる気などさらさらないのに、殊勝をよそおって聴くフリをするというのが定番だ。フリをされるので、かかわる側は一生懸命努力するが、結局徒労に終わる。
 先行き不透明な幕開けをした丑年だが、高村光太郎が「鈍牛の言葉」で「おれはのろまな牛こだが、じりじりまつすぐにやるばかりだ」と述べているように、今年は素直で謙虚な「一等級の聴く耳」、すなわち原や後藤が天風から学んだごとき本来的な岩手らしさがすべての分野で求められる予感がする。

出典:岩手日報「いわての風」(2009年1月5日)寄稿記事へのリンク

「経営の腑」第412号<通算727号>(2024年12月20日)

人は信頼されると応えようとする 〜選ぶ側の責任も重要〜
  出典:岩手日報「いわての風」寄稿記事(第11回目 2009年3月30日)

 二人の「イチロー」で新聞・テレビがにぎわった二十五日、花巻東高校ナインが甲子園の選抜大会で二十五年ぶりに県勢勝利を挙げた日と重なった。花巻東高エースの菊池雄星投手は、あわやノーヒットノーランという快投をみせ、チーム得意の機動力も存分に発揮しての見事な勝利だった。
 佐々木洋監督が選手たちに全幅の信頼をよせ、それに選手たちが立派に応えた姿が印象に残った。ここには、選手を送りだした佐々木監督の誇りと責任が感じられた。
 さて、WBCで世界一になった侍ジャパンのイチローだが、プレッシャーを振り払って決勝戦でタイムリーヒットを放ち面目を保った。さらには、二大会連続MVPの松坂など、殊勲選手を挙げれば切りがないが、ここはあえて原辰徳監督に着目したい。
 自称「長嶋オタク」の自分としては、原監督の采配に時々首をかしげたくなる場面もあったが、とにもかくにも今大会では試合を重ねるごとに選手たちが伸び伸びとプレーできていた事実があるからだ。
 イチローがもがき苦しんでいる時にも持ち前の天真らんまんさで、イチローはじめ自らが指名し召集した選手たちを、心から信頼し切っていた。この姿勢こそ、北京五輪でジャパンが欠落していた部分ではないか。
 人は信頼されると応えようとするものだから、選択者でもある監督の一貫した姿勢に選手たちも、燃えたに相違ない。
 また、同じ日に新聞を賑わしたもう一人のイチロー(小沢民主党代表)は、司法と行政府の挟み撃ちにあい、苦悩している。視聴率を競うワイドショーよろしく、バッシングの対象を追いかけ面白おかしく取り上げる風潮とも相まって、世論はことのほか厳しい。
 ただ、説明責任を求める声は別として、今回党内には、自ら選出した党首のもと一致結束して難局を乗り切ろうという構えが垣間見られた。これが「誇りと責任」ゆえなら、将来の政権担当への一筋の光明。今後は構成議員を選択した間接的選択者である有権者の理解が得られるかに焦点が移るだろう。
 ことほどさように、「選択者としての誇りと責任」は誠に重要だ。これなくして事は始まらない。このことについて、かつて伊丹万作が逆説的な指摘をしている。
 伊丹十三の実父で大江健三郎の義父でもある万作は、終戦の翌年に「戦争責任者の問題」と題する評論の中で、「だまされたと云えば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度顔を洗い直さねばならぬ」と指摘。「だまされること自体がすでに悪である」と明快だ。
 だまされる者の罪は、だまされた事実そのものではなく、たわいなくだまされるほど、思考力や信念を失った自分にこそ罪があるのだという。
 当時「軍部にだまされた」「軍の幹部にだまされた」「あれにだまされた」「これにだまされた」と責任転嫁が横行する中で、万作は「おれがだました」という人間が一人もいないことの矛盾を鋭く糾弾したのだ。
 それから六十年以上の時を経たが、万作が危惧したとおり、マスコミはじめ国民自身にも「だまされた」と人ごとで済ませようとする風潮が厳然とまん延している。
 しかし、冒頭の両監督の例のように、誇りと責任を自覚することで、当然ながら満願成就の結果が出ているのは心強い。
 大会メンバーであれ、政治家であれ、かの国のオバマ現象であれ、「選択者自らがその誇りと責任を自覚」して選択し、それを支える意思と行動を貫けるかどうかだ。
 秀麗高き岩手山と清流長き北上川に育まれた当地ゆかりの人々は、そうした選択者としての矜持を持ち合わせているように思えるのである。

出典:岩手日報「いわての風」(2009年3月30日)寄稿記事へのリンク

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「経営の腑」第413号<通算728号>(2025年1月3日)

事業に不可欠な「本音のWHY」 〜段階ごとに進化せよ〜
  出典:岩手日報「いわての風」寄稿記事(第12回目 2009年6月22日)

 事業経営の成否は、「経営者が熱い思いを持っているかどうか」にあるといっても過言ではない。
 よく事業計画の重要性が挙げられるが、事業計画自体は事業内容の説明ツールにすぎない。計画自体に価値があるのではなく、その前提となる「熱い思い」と「事業の明確さ」こそが重要となる。
 ここをはき違えると、事業計画構築の際、定型様式を埋めることばかりに気をとられるなど、目的と手段が逆転するという現象が生じる。
 あくまでも、「経営者の熱意と事業の具体性」、すなわち「一つは、建前ではなく本音のWHYを持つこと。もう一つは、事業の定義づけを明確にして実践すること」が本質である。
 今回は、この二つのポイントのうち、紙幅の関係で一つ目の「本音のWHY」を取り上げる。
 「本音のWHY」というのは文字通り「何のために事業をするのか」で、事業の動機や目的のことだ。ここで重要なのは「建前」ではなく「本音」であるところだ。
 事業計画コンテストなどでは、事業目的として公共性・社会性も重視される。しかし、すでに名をなした経営者を見ればお分かりの通り「金をもうけたい」「良い暮らしをしたい」が、多くの創業動機だ。
 よしんば、本音で「社会のため」と思ったとしても、直ぐに市場の厳しい洗礼を受けるので、そこを乗り越えるしたたかさが必要となる。新しいことに挑戦を開始した途端、すぐに障害や課題に直面するというのが世の常で、事業経営も例外ではない。
 そんな時、「建前のWHY」ならば、逆境を乗り越えるどころか、すぐにギブアップしたくなる。逆に「本音のWHY」は、歯を食いしばって立ち向かうエネルギー源や、事業を継続実践するよりどころになる。
 本音なら「飯を食うため」でも「外車に乗りたい」でも良い。実際、若くして一部上場企業を築いたW社長の場合、父親の事業失敗という屈辱を味わった小学生時代には、「社長になって、世の中を見返してやる!」が本音のWHYだった。
 また、最近の若者はハングリー精神がなくなったといわれるが、「貧しい生活はごめんだ」という本音のWHYが成立しやすかった時代なら、少しばかりの困難は苦にならず頑張れたのも道理だ。
 さて、少々刺激的なことばかり並べたが、世の心ある方々もどうか安心して欲しい。
 実は、創業期には前述のように極めて即物的なWHYを支えに頑張れたとしても、事業経営を続けると、お客様のありがたさや自分だけでは事業は成り立ち得ないことが徐々にわかってくる。
 ここが事業の帰すうを左右する分岐点だ。成功する経営者は一様に「世の中のおかげ」だとか「恩返しをしたい」とか、そんな謙虚さや感謝の気持ちが心の底から湧いてくるので、この時点で「本音のWHY」にそうした公共性・社会性が付け加えられてレベルアップする。
 前述のW社長も今では「食および介護分野で環境に配慮し社会貢献する」というWHYが本音で付加され、世の中からもろ手をあげて支持されますます業績好調だ。
 半面、この時点に至っても、我欲中心でカネの亡者を脱しきれない経営者が社会から抹殺される例は枚挙に暇がない。
 このように、創業時のWHYは、決して建前で大仰なことを掲げる必要はなく、事業段階ごとに本音で進化していけば良いし、それが出来なければ単純にそこまでということになる。
 そして、これは事業経営だけに限らない。選挙間近の為政者たち(特に世襲議員)はじめ権力に座する人々の「WHY」に、退化すら感じられるのは気のせいだろうか。

出典:岩手日報「いわての風」(2009年6月22日)寄稿記事へのリンク

「経営の腑」第414号<通算729号>(2025年1月17日)

「浮かす金」より「稼ぐ金」 〜市場の目線忘れるな〜
  出典:岩手日報「いわての風」寄稿記事(第13回目 2009年9月28日)

 大航空会社が膨大な赤字で事業継続に四苦八苦している。このことでも分かるように、利益そのものは、事業経営の目的ではないが、必要条件だ。
 そして、利益は、売上収入から経費を引いたものだから、利益を得るには、売り上げを増やすか経費を減らすか、そのどちらか、もしくは両方だ。こんな当然のことさえ、悩める赤字社長にとっては忘れられがちになる。
 「社長の教祖」といわれた異色の社長専門の経営コンサルタント、一倉定氏がかつて説いたように、そもそも「事業経営とは、市場活動」なのだから、社長の悩みを解決する答えは、決算書ではなくお客さまのところにある。
 このことからしても、自らその市場活動の先頭に立つべき社長が、事務や経理の専門家に経営相談するような考え違いは看過しがたい。
 ご自身も現役税理士で起業の失敗経験をお持ちの多田正幸氏がその著書「凡人企業〜カリスマ経営者は見習うな〜」で、「事務系のスペシャリストと呼ばれる人は、過去の数値を整理加工して結果論で論ずることはできても、どうすれば会社の業績が良くなるかという将来の問いには答えることができないのです」と激白している。
 続けて「スペシャリスト過信」の原因は、経営の一分野である難しそうな会計をマスターしている人であれば、経営全般についても深い洞察力を持っているだろうという依頼者側の思い込みが半分。
 さらに自分がプロで顧客が素人という図式で業務を行っており、自分は顧客より能力が高いと錯覚しているスペシャリスト側の思い違いが残り半分、と指摘している。
 実際、小生が昨年たまたま関与した自己破産案件も、その社長がすっかり頼り切っていた税理士が出来合いソフトで作成した再建計画がずさんでリスケジュール(債務返済繰り延べ)できなかったことが引き金となった。
 ほかにも「市場」を置き去りにした「内部管理」偏重の代表格として、原価率低減や回転率向上など、経営を混乱させるネタには事欠かない。
 もちろん過去のデータから原価に問題があることに気づき、いくばくかの経費節減につながるケースを否定するわけではなく、それはそれで意味がある。(現に小生も、こうしたテーマの講師を務めている)
 しかし、これはあくまでも「浮かす金」であって、「稼ぐ金」でないことを、しっかり自覚した上で活用してほしい。
 かつて大手ビールメーカーが経験した「ナイヤガラ瀑布を落下するようなシェア低下(三四%から九・六%に)」も、顧客不在の原価管理信奉が原因だった。
 誤った原価管理を徹底した結果、原料費切り下げや熟成期間短縮に走った。しかし、これが嗜好品として致命的な味の低下をもたらすという笑えない皮肉を生じさせた。
 原価低減はお客さまにとって何の意味もなく、お客さまは「まずいビールは買わない」だけである。これが内部管理偏重の間違いの結末だ。
 社長が心がけるべきことは、市場活動すなわちお客さま活動に徹し、その目線に沿って判断することである。この場合も、いったん原価を無視して顧客志向のビール作りに軌道修正したところ、今やトップシェアを競うまでになっている。こうした例は枚挙にいとまがない。
 このように「お客さま活動」が、事業経営の本質であり、内向きの業務しか知らないスペシャリストには思いもよらない「稼ぐ金」を生み出す唯一無二の方法なのである。
 勘違い経営やピントはずれ経営が跋扈している今、我が岩手の事業家には、この単純ながらも味わい深い経営原則の再認識と励行を心から願うのである。

出典:岩手日報「いわての風」(2009年9月28日)寄稿記事へのリンク

「経営の腑」第415号<通算730号>(2025年1月31日)

トップが決めれば組織が変わる 〜原点は顧客のニーズ〜
  出典:岩手日報「いわての風」寄稿記事(第14回目 2009年12月28日)

 世相を表す漢字に、昨年は「変」、今年は「新」が選ばれた。当の日本漢字能力検定協会が不祥事で揺れ、文字通り新たな体制での発表となったのは、ご愛嬌だろうか。
 今年は政権交代や多くの不可解な出来事などもあったので、いろんな意味で「変」にも思えたが、さすがに2年連続とはならなかった。
 そんな中、事業経営にかかわる立場から、「決」という文字が近ごろとても気になっている。
 それは、「決められない」トップが目につくからかもしれない。お断りしておくが、決して歴代政権トップのことではなく、ここでは会社経営に絞って述べたい。
 事業経営に真剣になればなるほど、トップである社長はわが社の将来に対する不安や迷いに襲われる。従業員や家族の生活保証も待ったなしだ。そうした重責ゆえに、判断の過ちを極端に恐れ、臆病になるのも分からないでもない。
 しかし、「会社とは、社長の考えを実行するところ」だから、まず「社長の考え」が会社にはなければならない。それで初めて、「実行」が意味を持つ。これらが事業経営の両輪となり、双方あいまって事業は進む。
 だから、何をおいても社長が自らの考えを示さねばならない。隆々たる会社では、社長の考えが社員に浸透しているし、逆に業績の悪い会社では、社長の考えが明確でないことが多い。
 万が一、社長の考えが間違っていたとしても、真摯に正せば済む。しかし、何も示せない、何も決められないということでは、それもかなわない。現に朝令暮改と揶揄されながらも、社長が陣頭に立ち方向性を示している会社はだいたい活気があり業績も良い。
 社員がどんなにやる気満々でも、社長が何も決めなければ能力を発揮しようがないのだから、最も大事な「決める」役割を果たせない社長など、お役御免だ。
 もし、社長が方向性を決められなければ、社員は漫然と日々の繰り返し仕事をこなすだけか、逆に個々の社員が勝手に動き出すかのいずれかだ。
 前者の場合は、希望も工夫も生まれない活気のない職場となる。一方、後者は、意識の高い社員が多いときなどに見られる。社員が自主的に方向性を決めて動き始め、一見理想的にも思われる。
 しかし、全体の方向性が定まらない中で、社員個々がバラバラの歩みを始めるから、それぞれの部分では成果が上がったように見えることもあるが、全体としての成果には疑問符がつく。まさに部分最適かならずしも全体最適ならず、という混乱状態に陥る。
 では、社長が迷いや恐れを乗り越えて「決める」には、どうすればよいか。会社はお客様に商品やサービスを提供して事業を成り立たせているという原点に立てば、答えは簡単だ。まぎれもなく、その答えはお客様のところにある。だから、社長はお客様回りを第一の仕事と位置づけ、自ら情報収集することだ。この地道で懸命な行動の積み重ねを経た社長だけが、自身の考えとしてわが社をどう率いて行くのかというビジョンを持てる。
 すなわち、社長がお客様情報をもとに、わが社の未来像を明確に「決める」に至る。そして、自らの手で、社内外に本気で宣言し得る行動計画が練り上げられる。
 社員にとって、長く人生を共にするわが社の未来像は希望の源泉であり最大の関心事でもある。明確な行動計画があれば、実践部隊の社員の士気は上がり、その実現に向けて「実行」の車輪も回りだす。
 そして、積み上がった事業成果が、地域経済の良循環を巻き起こし、デフレスパイラルを吹き飛ばす。年の瀬に、そんな新たな年を念じたい。

出典:岩手日報「いわての風」(2009年12月28日)寄稿記事へのリンク

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