第421号“「働く」とは、傍(ハタ)を楽(ラク)にすること 〜「人のために」が大事〜”<通算736号>(2025年4月25日)
「経営の腑」第421号<通算736号>(2025年4月25日)
「働く」とは、傍(ハタ)を楽(ラク)にすること 〜「人のために」が大事〜
出典:岩手日報「いわての風」寄稿記事(第20回目 2011年11月27日)
文字の成り立ちからも、先人の洞察力にはつくづく感心させられる。
3・11の教訓から、互いに支え合う「人」という字にも改めて考えさせられたが、ここでは「動く」と「働く」を取り上げたい。「動く」と「働く」の違いは、ニンベンすなわち「人」がカタワラに有るか無いかである。
これを素直に解釈すると、カタワラの「人」のために動いてはじめて働いた事になるわけで、傍(ハタ)を楽(ラク)にすることが働くこととなる。
これはまさに、事業経営の本質に通じる。事業は、人へのお役立ちであり、その対価として報酬を得るのである。一生懸命「動いた」としても、人が求めていないことに対してであれば、それは単なる自己満足にすぎず、「働いた」ことにはならない。
多くの事業者とかかわってきた実感として、業績が思わしくない事業者ほど、こうしたニンベンを忘れた「動き」に没頭しがちだ。すなわち「労あって功なし」である。
中小事業者なら、これを続けると、市場から即刻レッドカードを突きつけられて退場を余儀なくされ、会社はつぶれてしまう。
だから、市場の意思を体感しやすい環境にある中小企業では、優秀な事業者ほど、市場の顧客という「人」に真剣に向き合い、「動き」を「働き」に変えようと努める。
一方、このことに思い至らず、ただひたすら「動く」ことのみに専念するケースもあるので、ここは要注意だ。
そして、このニンベンなしの「動き」は、次の二つで顕著だ。
まず一つは、業績の振るわない中小企業である。その多くは、経営者が明確な経営の方向性を示せておらず、社員はそれぞれ勝手に「動き」回っているパターンだ。綱引きで一人一人がてんでんばらばらな方向に頑張っているようなもので、これでは決して綱引きに勝てっこない。
本欄でいつも指摘しているとおり、経営者が方向性を明確に示すこと、そして社員に頭を下げて協力を求めることで、勝手な「動き」が生産的な「働き」に変えられる。
二つ目は、「大組織病患者」の場合である。たとえば、大企業や多くの官公庁では、組織内にいるメンバーにとって、厳しい市場原理を感じる機会はほとんどない。当然ながら組織がつぶれるなどという感覚は持ちえない。
したがって、その組織が本来対象とすべき「人」(企業の場合は顧客、官公庁の場合は住民)を脇に置き、組織内力学に専らの関心を示し、それを目的化して「動き」回るというのが、大組織病の症状である。
つまり、顧客への貢献という「働き」にではなく、組織内で仕事のフリ?をする「動き」自体に重心を移す危うさだ。
このところ風当たりが強い国の事業の在り方にしても、しかりだ。
国民の生命と安全を守るために「働く」のが本務であるにもかかわらず、いつの間にか所属組織の一員として「動く」ためのネタづくりに励んだ結果、国民から見れば無駄な事業のオンパレードとなってしまうという構図だ。
また企業でも、創業家のボンボンが百億円を超す使途不明金を引き出した製紙会社や投機の損失を飛ばしでごまかした老舗メーカーなど、本来の「働く」を単なる「動く」にすり替えた例は枚挙にいとまがない。
実は、こうした成果なき徒労に励む愚を防ぐヒントは、優秀な中小企業経営に見ることができる。
目的ありきの機能体組織では、その目的を踏まえてトップが方針を明らかにし、メンバーは所属組織への参画動機(初心)に立ち返り、真の顧客サービスに一致結束してまい進することだ。
そしてこれは、先人の「ヒト偏を加える」教えと見事に重なるのである。
出典:岩手日報「いわての風」(2011年11月27日)寄稿記事へのリンク
「経営の腑」第422号<通算737号>(2025年5月9日)
企業経営めぐる「知的である病」 〜既得権益を捨て去れ〜
出典:岩手日報「いわての風」寄稿記事(第21回目 2012年4月1日)
先ごろ世界3位のDRAM(半導体記憶素子)メーカーのエルピーダメモリが破たんした。
大手企業が束になり、経済産業省がバックアップした事業だが、この会社が先頭をきっていた領域で勝負せずに陳腐化の波にのまれてしまった―と、一橋大学の沼上幹商学部長は述べている。
その原因は沼上氏が挙げている資金面もあろうが、真因は経営戦略の誤りにある。
本欄で繰り返し述べている通り、事業経営は「構造志向」「未来志向」「外部志向」でなければならない。
構造志向とは、もうかる仕組みを作ることだ。当社はもともと大手電機メーカー数社の事業再編の産物で、事業経営の根幹の価格設定権を実質的に親元が握り、もうかる構造ではなかった。
また未来志向とは、3年後、5年後の我社の姿を意識しながら経営の継続に思いをはせることである。それなのに、公的セクターや金融機関からの支援の見返りで短期的な成果に重心を置かざるを得ず、全く将来を志向する状態ではなかった。
外部志向については、そもそも企業活動の経済的成果は外部にしかないのに、護送船団方式の産物の性(さが)でコストしかない内部管理に腐心せざるを得なかった。
つまり、はなから同社は企業経営の体をなしていなかったのである。
では、なぜこんな企業を官民挙げて立ち上げたのか、最近の論客の声を参考に考えてみたい。
「共同幻想」という概念で世に警鐘を鳴らし、半月前に没した気鋭の思想家吉本隆明氏を評して、人類学者の中沢新一氏は全国紙でコメントしている。
「戦後知識人の抱えていた病を正確に診断し、そこからいかに脱出するかを問うてきた人だ。戦後知識人は『知的である』という病にかかっていた。思い込みを理論で体系づけて現実が見えなくなっていた」。
まさに、この説で「戦後知識人」を産学官民金報の各分野のエリート?に置き換えると「知的である病」の姿がくっきりと浮き出てくる。この病を私流に解釈すれば「偏狭なプライドを増長させ、世の中の役に立たないばかりか、むしろ混乱を巻き起こす」病気である。
また、やはり全国紙の匿名コラムでペンネーム遠来氏は、「『外需依存か、それとも内需中心か』『ものづくりか、情報や金融か』といった選択肢や対立軸ほど愚かなものはない」と指摘している。
「内需部門も外需部門もそれぞれが努力すればそれでよい。対立したり、選択したりする問題ではない。ましてや政策の対象になることではない」と。
そして、「『経済構造の転換』というキャッチフレーズも、誰が、どのようにといった具体性が伴ってこそ意味がある。抽象的なオピニオンは単なる騒音である。あるいは、グローバルなメーカーに向かって『ものづくりの時代は終わった』と指摘することも無意味だ。技術を大切にするかどうかは当事者が判断すればよい」
ことほどさように、大仰に、かつピントはずれに門外漢が対立軸を設定するのは「知的である病」患者共通の症状のようだ。
本質が市場活動にある企業経営に対し、「知的である病」にかかった素人衆が口をはさむという愚行からそろそろ脱却する時ではないかと思う。
それには、もちろん患者達が厚くまとった「既得権益」という古い衣服は奇麗さっぱりと脱ぎ捨てなければならないが、それが後世への責務なのではなかろうか。
途方もない国の借金状況をみても、本県の前知事時代のあまたの負の遺産をみても、他人事では済ませられない。これは、決して4月1日エープリルフールの戯言(ざれごと)ではない。
出典:岩手日報「いわての風」(2012年4月1日)寄稿記事へのリンク
「経営の腑」第423号<通算738号>(2025年5月23日)
崩れつつある「当たり前のこと」 〜解決へ過程の吟味を〜
出典:岩手日報「いわての風」寄稿記事(第22回目 2012年7月29日)
ロンドン五輪で影が薄くなったが、大相撲名古屋場所で日馬富士が見事に全勝優勝を果たした。ケガと折り合いをつけての猛稽古。「それを信じて、全力を尽くした」とのコメントが心地良い。
いわば「当たり前のことを当たり前に」へのこだわりは、ロンドンに向かったアスリートたちとも共通する。もちろん、その「当たり前のレベル」は尋常ではないが…。
さて、身の周りに目を転じると、教育関係者と接する際、よく「学生の質」が取り沙汰される。「算数も出来ない学生がいる」などと嘆く声を聞く。
また、大手企業の技術者との交流では、中小企業の独学経営者でも常識とされる基礎知識さえ持ち合わせていないケースにも遭遇する。
政治の世界を見渡すと、約束したことをやり遂げる政治家など期待できないと国民は思い始めた。「選良」という呼び方も過去の遺物となりそうだ。
経営者本来の役割は、社会における経済貢献の推進で、そのための利益確保だ。にもかかわらず、法人の約75%、4社のうち3社が赤字申告というありさまだ。
そして、それを支えるべき金融機関では、融資リスクを公的制度に転嫁し、専門外の販売支援などでお茶を濁す動きもある。
ことほどさように「当たり前のことを当たり前に」が、世の多くの部分で崩れつつあるという懸念を抱いているのは自分だけではないだろう。では、どうしたら「当たり前のことを当たり前に」できるのだろうか?
それには、まず役割や使命、そして心意気を前提とした「当たり前」の定義づけが欠かせない。
独断で恐縮だが、理工系の学生なら「基礎計算はマスターしていること、科学への畏敬と探求心を持つこと」がそれに当たるだろう。
大手企業の技術者は手配師ではないのだから、下請け中小企業への丸投げ業務に埋没せず、「自らの技術力で図面を読み、加工ワーク指示が出来ること」か。
政治家であれば、さしずめ「選挙の際の約束をきちんと果たすよう全力を傾注すること」だ。
そして、経営者なら景況の厳しさを乗り越えて「お客様にご支持いただき、生き延びるための利益を獲得すること」が、それにあたる。
金融機関の使命は、事業者に「金を貸すこと」だ。そのために経営者や事業性の「目利き」力の向上なくしては存在意義が問われよう。
いずれ定義された「当たり前」の実践には、関係者間での定義のレベル合わせと共有化が極めて重要である。
次に「正しい結果は、正しい過程で作られる」といわれる通り、正しい過程を確実に踏む必要がある。それには、生産現場で広く重用されている「4M分析」と呼ばれる方法が参考になる。
つまり、人(Man)の能力レベルはどうか、方法(Method)は適正か、必要な設備(Machine)は手当てされているか、扱う材料(Material)は妥当か―という4つのMを吟味するのである。
最先端設備の製造業で社員の技能訓練をおろそかにしながら、不良の山の前で上司が部下を叱責している場面を見かけるが、気合いだけではどうにもならない。こうした時こそ、4Mなどを活用して問題点を把握し弱点部分を強化しつつ、本質的な解決に踏み出すことだ。人のレベルは良いか、道具はどうか、やり方は適正か、材料は妥当か、不適部分があれば、どう強化しカバーするか―という吟味の流れは、なにも製造業に限らない。
人として「当たり前に」仕事を全うする上で、また大げさに言うと人生の歩みの中で、心意気を支える具体策となり得るのではないだろうか。
出典:岩手日報「いわての風」(2012年7月29日)寄稿記事へのリンク